不思議だった。

扉を開けるまで、緊張して足が震えてどうしようもなかったのに。彼と目が合った瞬間、嘘みたいにその緊張がなくなっていき、高鳴っていた心臓はいまは穏やかに脈を打つ。それはただ、私の頭が真っ白になっているだけなのかもしれないけど。

それぐらい落ち着きを取り戻していた。




「綱吉、さん」




もう一度名前を紡ぐ。大切な人の名前。もしかしたら今こうやって顔を合わせているのは私が見ている夢で、泡みたいに消えてしまうのかもしれない。それほど、脆いものに感じる。

だから少しでもこの状況に傷が付かないように、大事に、そっと名前を紡いだ。




「、名前」




心に風が吹く。春が訪れたような穏やかで、暖かい風。彼の声が、心に広がっていく。




「会いに、きました」

「なん、で」

「会いたかった、から」




会いたかった人。伝えたいこと、話したいことは考え出したら止め処なく溢れてくるけど、ただ会いたかった人。

私を見て動揺したように眉間に皺を寄せる綱吉さんに私は一歩、また一歩と近づく。




「私、話したいこと、綱吉さんに話したいことがあって」

「・・、」

「聞いてほしくて、だから会いたくて」

「・・っ」




ガタン、と座っていたイスから立ち上がり、私に背を向けてしまう綱吉さんのその背中に、必死に言葉を投げかける。

近いのに、こんなにも遠い。まるであの日のような気持ち。手の届かない場所にいるような綱吉さんをただ見つめる私。だけど、もうめげない。遠い存在に、手を伸ばすことを諦めてしまったらそこで終わってしまう気がするから。




「怖い思いなんてしない、って思ってたんです」




近くにいたかったから、それぐらい大切な人の話しを聞いて、怖いなんて思うはずがないと、子供みたいな安易な考えを抱いていた。

そんな私の考えを上回るほど、綱吉さんの後悔や事情は大きく重かったのに。今から思うとなんて浅はかな考え。




「だから、私」

「でも・・怖いと、思ったんだろ?」

「・・え?」

「俺を・・俺の存在を怖いと、思ったんだろ・・っ?」




私を捉えた綱吉さんの瞳が、辛そうに苦しそうに揺れている。

どれだけの勇気だったんだろう。私に自分の素性話し、犯してしまった罪を打ち明けるのは、どれだけの勇気を必要としたんだろう。




「・・怖かった、です」

「・・っ」

「私の知らない、世界を・・人の命を奪ってきた綱吉さんを知るのは、すごく怖かったです」

「、じゃあ」

「だけど、それ以上に・・!」




言葉を遮る。言いたくて、どうしようもなかった言葉を、伝えたいから、ここに来た。拒絶の言葉も、否定も、伝えてから全て聞くから。だから。




「好きだから・・!」




伝えさせて。

ちょっとでいい。私の言葉は、風と呼ぶには弱すぎて、木々を揺らすにはあまりに威力のない言葉かもしれないけど、少しでも届いてほしいから。




「怖い、以上に・・好きだ、と・・思ったから、だから、会いたくてっ」

「・・っ」




叫ぶように訴える声が震えている。視界が歪む。抑えていた涙が、溢れる。何度も頬を伝ってポタポタ、と下に落ちる。

迷いはたくさんあった。不安も同じぐらいたくさんあった。だけどたくさんの存在が、そういう感情を少しずつ消して、背中を押してくれたから。

空に手を伸ばすことを、諦めてしまいたくないと思えた。




「なんで、」

「・・」

「なんで、来たんだよ・・っ」




怒鳴るように、大きくて悲痛な声が耳に響く。こんな綱吉さんを見るのは初めてで、驚きはあるけれど、私の足は逃げない。芯が通ったようにその場に踏みとどまり、瞳は惑うことなく綱吉さんを捕らえる。




「来なければ・・そんな奴もいたな、って笑って、」

「・・、」

「いつか、いい思い出にできるぐらい、忘れることができたんだ・・!」




綱吉さんの瞳が揺れているのは、あれは涙が膜を張っているからだろうか?決して溢れないその涙は、彼が声を発するたびに揺れている。




「私は、できません」




楽しかった時間。お店のドアが開くたびに心が弾んで、違う人だったときの落胆は大きくて。だけど来てくれたときの喜びは落胆以上のもので。そうやって過ごす大切な日々を忘れるなんて。




「私には、綱吉さんを忘れることなんて、できません・・!」

「・・っ」




何年、何十年、経ったとしても、きっと私は思い出になんかできない。何度もあなたを思い出して、一人、どうにもできない感情に胸を焦がすんだ。

それほどに想ってしまった人。風が強く吹き荒れて身体に傷を残すみたいに、深く心に刻み込まれた人。唯一の、人。




「馬鹿、だろ・・本当」

「、つなよし、さん・・?」




ぎゅう、と突然の強い抱擁に目を静かに見開く。黒いスーツが目の前いっぱいに広がって、とくん、とくん、と自分の心臓が動き出すのを感じた。




「俺は、逃げたのに」

「っ・・何度でも、追いかけます」




離れていこうとするのなら、離れないようにその背を追いかける。何度も、何度でも。今も、彼が離れていかないように、自分の腕を彼の背にそっと回している。




「いや、なんです・・綱吉さんがいないのは」

「・・名前、」

「日常から、かけてしまうのは・・いやなんです」




心を占めるのはあなた。気付けばいつだって私の心の中心に存在してるのは、あなただった。




「だから、」

「・・」

「お願い、だから、現れないなんて、言わないで・・!」





すがるように、心から声を絞り出して言う。

離れていかないで、現れないなんて言わないで、私の中から存在を消そうとしないで。伝わってほしくて、背に回した腕に自然と力が入ってしまった私に、綱吉さんはまるで子供をあやすような優しい声で



わかった、



と、呟いてくれた。








(重なったもの)
(今度は離れてしまわないように)




あの日は遠くに感じたもの


今はこんなにも近くに感じることができる