外は雨が降っている。

普段だったら出掛ける気分にはならないのだけど。

今日はなんとなく出掛けたくなった。



パッ、と小さく音を立てて広げたのは私のお気に入りの傘。

外は少し肌寒かったけれど、上着を羽織ってしまえば特に寒いとは感じない。

この歳になって長靴を履く気にはなれないので仕方なく普段から履いている靴に足を入れる。散歩だから特に荷物はないけれど、ジーパンのポケットに携帯とハンカチぐらいは入れておいた。

外は大雨でも小雨でもなく普通の雨。



「イタリアの雨って日本の雨と雰囲気が違うなぁ・・」



灰色の空に向かって一人呟いた。辺りに人は居ないので気にする必要は無い。それに一人の時は日本語だ。通じる人なんて滅多に見かけることはない。

イタリアには留学で来ていて現在は一人暮らし。たまに親と連絡を取りながらバイトと大学を両立させている。



「やっぱり少し寒かったかな・・?」



はぁ、と息を吐けば白くは無いものの少し寒い。平気だと思っていたのはさっきが室内だったからか。



「人、全然居ないなぁ」



やはり雨だからだろうか。町並みには買い物をする人も散歩をする人も居ない。

少し町並みから離れて歩き続ければ橋が見えてくる。

晴れてる日なら外に出て絵を描いている人も居るのだけれど、やはりいなくて少しだけ寂しい。



「ここまで人が居ないと少し寂しいかも・・」



生憎今日は朝から雨だった。それを考えると仕方ないか、とも思う。

日本でも雨の日に外出してる人は少ないし、何よりやる気が無くなってしまうのかも知れない。



「あれ、人・・?」



少し歩くと見えてきたのは人影で、その人は橋の中心辺りで傘も差さずに俯き加減で佇んでいた。

私より少し年上だろうその人は黒のスーツを着ていて髪の色はオレンジ・・いや茶色だろうか?

ハニーブラウン。うん、これがしっくりくる。



「・・日本の人かな?」



俯き加減の横顔はよく見えないけれど外国の人とは少し違う。



「・・こんな日に珍しい」



私も人の事は言えないけど、傘も差していないあの人はもっと珍しいと思う。



「待ち合わせとか・・?」



まさかね。と思いながら私の呟きはあの人には届いていないのか、雨の音に消されていった。




「あの、濡れてしまいますよ?」

「・・っ」




とりあえず放って置く事も出来ないので近づいて傘に入れてあげた。

意外と背が高くてビックリした。でも私以上にビックリしたのは彼だったようで私をビックリした目で見ている。



「えーっと・・大丈夫ですか?」



何も返してくれない彼にとりあえず尋ねた。話を掛けてしまった以上このまま放って置く事は出来ない。



「・・あぁ」

「良かった・・」



小さな声だったけど、しっかりとした声が私の耳に届いて安堵する。もし言葉も出せない状態だったら本当に放っておくことが出来ないもの。

そんなことを考えながら目の前の人に視線を戻す。すると、あるものが私の目に飛び込んできた。赤い、それ。



「あ、あの・・ち、血が出てます・・!」



彼の頬には頭部から流れてきたのであろうか血がついている。それも結構な量だ。慌ててハンカチを取り出し、彼の頬に当てた。

ハンカチは少し雨で湿ってしまっているが無いよりはマシだろう。



「いや、平気、だから‥」

「平気って、血が出てるのに‥!」

「、‥これ‥」



ハンカチを添えていた手首をぐっと掴まれる。目が合う。何故だか逸らすことができない。ざあざあと繰り返し雨音が響く中、彼はゆっくりと口を開いた。



「これ、俺のじゃないんだ・・」

「!」




目を見開くと、彼は私から目を逸らした。

俺のではない。つまりそれはほかの人の血だということ。さっきまで響いていたはずの雨音が聞こえない。どんどん鳴り響く心臓の音のほうが大きい。



「あ、あの、それは‥」



言葉が見つからず息が詰まる。俺のじゃない、という言葉の意味を理解するのに時間がかかっているのかもしれない。



「・・気持ち悪いもの見せて、ごめん」



そう言って私の手首を掴んだまま俯く彼。どこか自分をあざ笑うような、諦めたような‥‥でもどこか悲しそうで悔しそうな、そんな悲痛な声に。気付けば私の身体は勝手に動いていた。



「身体、冷え切っちゃってますよ?」



私の腕を掴んでいた彼の手を優しく解き、再びハンカチで頬の血を拭う。



「どれくらい、ここにいたんですか?」

「あ・・」



風邪ひきますよ、と呟けば少しだけ戸惑っている彼の声が聞こえる。けれど、さっきみたいに抵抗はしない。大人しくしていてくれる。

私だって何でこんなことをしているのかは分からない。普通だったら逃げていると思う。けれど、逃げないのも放っておけないのも、この人の瞳のせい。分からないけど、放って逃げ出すことが出来ない。

確実に何かを悔やんでいる。そして自分を責めている。諦めたいのに諦め切れなくて、だから悲しいと、瞳が言っている。

きっと、何かあったんだろう。雨の中に身を晒したくなるような何かがこの人を襲ったんだ。でも私はそれを聞いちゃいけない。聞く気もない。彼だって私に話したいとは思わないだろう。


頭のどこかで警報が鳴る。彼に関わるな、と。浅く考えず離れろと、そう告げる。

けれど私はその警報を無視した。







「よしっ」



一通り拭い終わり、彼の眼を見て微笑む。すると先程まで後悔一色だった彼の瞳が僅かに色を取り戻し始める。

それとほぼ同時刻。先程まで傘に当たって降っていたはずの雨が止んでいた。気付けば灰色の空からは太陽が顔を覗かせている。



「あ、」



傘を外して空を見上げる。そんな私につられるように彼も空を見上げた。



「雨、止みましたね!」

「そう、だな‥」



笑顔で彼を見ると、眩しそうに空を見上げた後、彼も微笑みを返してくれた。

よく見れば顔立ちが物凄く整った人で、モデル顔負けのその微笑みに驚いた。そして、その驚きを大きく上回るほど嬉しいのは。



「やっと暗い顔以外が見れました」


やっぱり人は沈んだ表情をしているより、顔を上げて微笑んでいるのが一番だと思う。目の前の彼もさっきの暗い表情より今のほうが全然いい。

持っていた傘を畳みながら言うと、その人は小さく笑って「暗い顔か」と呟いた。



「あ、暗い顔って言うのは別に変な意味じゃなくて・・!」

「これ、貸して」

「え?」



私の弁解を遮ると、彼は少し笑って私の手の中からハンカチをさらった。



「はい、これ。汚したから代わりに俺のをあげる」

「え、」



さらわれたハンカチの代わりに戻ってきたハンカチ。それは私のハンカチと同じ、空の色をしたハンカチ。



「いや、悪いですよ!私が勝手にやったことですし!」

「良いから」

「でも‥!」

「じゃあ、このハンカチも俺が勝手にやった事」




「それなら良いだろ?」と有無を言わせない物言いに私は言葉に詰まった。勝手の意味が私と彼では違う気が‥。ハンカチと彼を見比べるが、どうやら引いてくれそうにない。

いいのだろうか?受け取ってしまっても。チラ、ともう一度盗み見てから少し悩んで結局諦める。私が、ではお言葉に甘えて、と返事をすると彼は満足そうに笑ってくれた。

ハンカチをポケットにしまって空を見上げる。さっきの雨が嘘のように晴れてる。通り雨だったのかな?なんにしても、



「せっかく晴れたんだから、洗濯物干そうかな・・」



ポツリ、と思い出したように私の口から出てきたのは、またなんとも家庭的なこと。



「洗濯物、か」

「あ、あの、折角晴れたんだから悪くないかな、なんて思って‥!ほら、やっぱり洗濯物はお日様の下にあってこそ洗濯物だと私は思うんですよ!」



庶民だけど、庶民的なことを言ってしまったのが恥ずかしくて、慌てて弁解するが何だかおかしなことを言ってしまっている。お日様の下あってこそ洗濯物って‥今は乾燥機って言う文明の利器があるのに‥!



「そうかもな」

「‥え‥?」

「お日様の下にあってこそ、かもな」



クスクス、と小さく笑う彼に私もつられるようにして笑った。

不思議。さっきまで沈んだ表情しか見せてくれなかった彼が笑ってる。心地よい空気。警報なんてもう聞こえなかった。



「えっと、じゃあ私そろそろ帰りますね」

「俺もそろそろ帰らないと‥‥心配させてると思うから」

「誰にも言わず出てきたんですか?」

「いや、‥‥まあそんな所かな」

「じゃあ早く帰らないとですね」



そう言ったのは自分のくせに、どこか後ろ髪が引かれるような、この気分はなんなんだろう。少しの間見つめて、それから逸らして、もう一回見つめる。

そんなことを繰り返していたら不意に目が合って、私は慌てて口を開いた。



「じゃ、じゃあ私はこれで!」

「ああ」



後ろに二、三歩下がって身体を返す。最後に一度だけ、と少しだけ振り返ると軽く手を振ってくれる彼の姿。本当、絵になるくらいかっこいいな、なんて思って一人笑っていると「ちょっと待った」と彼の声。



「はい?」

「名前は?」



そう聞かれ一瞬キョトンとしてしまったが私はすぐに笑顔になった。名前を告げることが友好関係の第一歩なら、こんなにうれしいことはない。



「名前です!」



晴れ渡った青空に響くような大きな声でそう言うと、軽く一礼して今度こそ私はその場を立ち去った。










「名前か」



小さな背中が見えなくなるまで見送った後、刻み込むように呟いた。そこで自分の名前を言い忘れたことに気付き、軽く頭を掻くがさっきのように気分が沈むことは無かった。



空色のハンカチ

(また会えるような)
(そんな予感)


始まりの色が繋いでくれる