さようなら、
そう言った綱吉さんの表情が頭を離れない。
思い出すたびに涙が溢れそうになる。
でも誰にも気付かれなくなかった。全てを知っているマスターにも気付かれたくなかった。
だから必死に虚勢を張って、いつも通りに振舞って、隠し通そうって決めたんだ。
「名前ちゃん」
「・・え?」
聞き覚えのある優しい声音。振り返れば、いつもどおり穏やかに微笑むマスターがいた。
「あ、あれ・・マスターどうして?」
私が今いるのは、いつもの喫茶店じゃない。
これでも留学生。できれば毎日あの喫茶店でバイトをしていたいけれど、バイトも勉強も両立させなければならない。
だからバイトがない日は、大人しく家で勉強している。
そして今日は、そのバイトがない日なので、寄り道をせずに家に帰ろうとしていた、その途中だった。
「うん、少し材料が足らなくてね」
買い出しに、と言葉を続けると、マスターは腕に抱えた茶色の袋に目をやった。
「え、お店のほうは大丈夫なんですか?」
「うん、今日は閉めてきちゃったから大丈夫だよ」
「今日、バイトの人いなかったんですか?」
私以外にも何人かいるはずのバイト。私がシフトに入っていない日は、誰かしらシフトに入っているはずなのに。
「あぁ、今日ルシオ君がどうやら用事が入っちゃったらしくてね」
ルシオ君というのは、あの喫茶店でバイトをしているうちの一人。私と同じでルシオ君はロシアからの留学生。
初めて出会ったのはあの喫茶店。バイトを始めたのは私のほうが先。
お互い留学生ということで、それなりに仲良くなった。そして、なんと学校も一緒だと知ったのは次の日のこと。
同じ留学生で、学校もバイト先も一緒という・・私の中ではある意味、奇跡的な人。
母国が寒いせいか大して寒くない日にもマフラーをしているのが印象的だった。
「言ってくれれば私行きましたよ?」
「名前ちゃんは、お勉強でしょ?」
マスターの諭すような言い方に少しだけ頬を膨らませると、マスターは楽しそうにクスクスと笑った。
「あ、そうだ名前ちゃん」
「はい?」
「このあとは何か用事ある?」
「いえ、特には・・」
もともと今日は家に帰ってから勉強をしようと思っていたから、用事というようなものは特になかった。
「じゃあ、ちょっと店で話そうか」
「え?」
さぁ行こう、と促され私は大人しくマスターの後をついていった。
「はい、」
コト、と置かれたコーヒー。お礼を言って口をつければ、暖かくてコーヒー独特の苦味が口に広がる。
「あの、マスター?」
「ん?」
「・・話し、ってなんですか?」
私の隣に座り、同じようにコーヒーに口をつけるマスター。
私はここに呼ばれた理由が少しだけ予想できていた。できれば私の予想で終わってほしい。
そんなことを考えていたら、マスターは少しの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「・・歳をとるとね、人の感情に敏感になるんだよ」
「・・はい」
「その人の笑顔が、無理をしてたり辛そうに笑ってたり・・」
「・・」
「そういうのは、この歳になると分かってしまう」
あぁ、やっぱり。
自然と顔を俯かせた。マスターの言いたいこと、私がここに呼ばれた理由。全部が予想通りだったから。
「隠さず、率直に聞くね・・彼と、何があったのかな?」
「・・っ」
マスターの優しい声音に、鼻の奥がツンと痛くなった。
あの日から来なくなった綱吉さん。あらわれない、と言った彼の言葉を時間が経ってから理解した。
このお店には来るかもしれない。でもそれは私がここにいないとき。
あらわれない。
私の目の前に、彼が姿を見せることは、ない。
「・・っ」
「名前ちゃん」
ポタポタ、とカウンターに染みが出来る。
隠せていると思っていた。一人の時でさえ涙をこらてきた。マスターにも、誰にも悟られたくなくて、必死に虚勢を張って。
「ゆっくりでいい」
「・・わた、しっ」
「ゆっくりでいいから、話してごらん」
頭に置かれたマスターの手が暖かくて、余計に涙は止まらなかった。
崩れた虚勢
(本音を前に) (虚勢は勝てない)
気付かれたくなかった
でも、本当は誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない
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