「片付けとは、また名前らしい事を始めたな」

「そんな事ないですよ、今まで気付きもせず入り浸っていた私がダメだったんです。あ、エルさんそれ貸してください」



差し出された手に、持っていた資料を乗せた。名前の様子を見がてらこの前借りて、そのままになっていた資料を返却しに来た。

扉を開ければそこにはまるで箱をひっくり返したかのように大掃除をする彼女の姿に最初は目を見張った。今日も本に没頭してエルヴィンが来た事に気付かないだろうと予想していたから余計に。

ハンジからでも借りてきたのだろうか。白いエプロンと白いバンダナを頭に巻く名前は掃除婦のようで。エルヴィンの目にはあちこち歩き回るその姿が可愛らしくもあった。



「見ているだけでは悪いな、私も何か手伝おう」

「ダメです!」

「ん、?」



積み上げられていた本に触れようとした瞬間、パッと遮るように入ってきた名前。駄目、と言われた所で彼女が一人で片付けきれる量ではない。何をそんなに必死になっているのかと、エルヴィンは少しだけ首をかしげた。



「そろそろ壁外調査なんですから!こんな事で疲れさせるわけにはいきませんし、それに万が一エルさんが怪我でもしたら大変です!」

「そう言われてもな」

「ダメですからねっ、見ていてください!」



そう言って本棚に向き直ったかと思えば、エルヴィンが片付けをし始めてはいないかと、また振り返る。険しい顔で向き直っては振り返りを繰り返す名前を見ていたらつい笑いが込み上げてきてしまい、エルヴィンは両手を挙げ降参をしてみせた。



「分かった、手は出さないと約束しよう」

「はいっ、約束です!」



そう言うと険しい顔を辞め、いつものように朗らかに笑う名前。今度こそ本棚に向き直って片付けを再開した彼女を見てエルヴィンは小さく溜息をついた。



「…まったく、名前には敵わないな」

「え?」

「いや独り言だ」



「そうですか」と笑って目の前で揺れる小さな背中。自分と比べると子供のように小さく見えてしまう。名前から言わせれば「エルさんが大きいんです!」の一言な訳だが。



「そうだ、名前」

「はい?」

「壁外調査のあと商人がここに物を売りにやってくるんだが、興味はあるか?」



そう尋ねた瞬間大きく目を開き、コクコクと何度も首を縦に振る名前。こういう所はこの世界の年頃の女性と変わらないのだな、とエルヴィンは思った。



「お買い物、ですよね!」

「ああ」

「わあ素敵っ……あ、でも私お金を持っていないので、ウィンドウショッピングですね」



所持金の事に気付いた途端、誰が見ても分かるほど落ち込んだ顔をする名前に感じるのは単純な愛らしさ。エルヴィンは込み上げる熱を抑え込むと、クスと僅かに口角を上げた。



「気に入る物があったら私が買おう」

「それは悪いです…!ただでさえ私はお世話になるばかりで何もしていないんですから!」

「何もしていない?」

「はい…」

「おかしな事を言うな、君はこの書庫を片付けてくれるんだろう?」



そう言って僅かに微笑みながら山積みの本をポンポンと軽く叩いたエルヴィン。まるで買うのは片付けたお礼、とでも言うよな口ぶりに名前は瞬きを繰り返したあと、困ったような笑顔を浮かべた。



「あんまり甘やかしたらダメですよ」

「甘やかしたうちに入らないさ」

「もう、そんな風に言われて私がどんどん欲張りになったらエルさんが困りますよ?」

「なればいい」

「えっ?」

「名前が望む事なら叶えよう」



見透かしたような瞳、穏やかなのにどこか艶っぽさのある笑みに、名前は自分の頬が熱くなるのを感じた。

今まで自分にこんな事を言う男性はいなかった。中学、高校はもちろん。その後だって自分の周りにいる男性は年齢も近く、大人の余裕とはかけ離れた者達ばかりだった。こんな言葉、それこそ映画やドラマでしか聞かない。

恥ずかしさからか、エルヴィンと距離を取ろうとズリズリと後退していく名前。



「ほ、ほんとにエルさんはっ、絶対、分かってて言ってますよね…もうっ、」

「名前、」

「私、こ、子供じゃないんですから、そんな風に言われたら照れますしっ……それに、私の世界ではそんな言葉、少女漫画とかドラマとか、物語でしか聞かないんですよっ」



頬を染めたまま、しどろもどろに後退していく名前は気付かない。

彼女の背には本棚がある。本棚の上には本や書類が詰められた古びた木箱が置かれている。

片付けのために本を抜かれ、重心が不安定な本棚だ。少しの衝撃で落ちてきそうなそれにエルヴィンは気付き名前を呼び止めだが、声が届いていないのか名前の後退する足は止まらない。



「名前、待て」



本棚にぶつかってしまう前に引き止めなければ、と伸ばしたエルヴィンの手が名前の腕に触れかけた。



「っ!」



だがエルヴィンの考えに反して、突然伸びたその手に身体を強張らせた名前は、驚いて勢いよく後退してしまった。待っていましたと言わんばかりにドンと本棚に背がぶつかる。同時にギシ、と響いた鈍い音はエルヴィンの耳に届いた。



「えっ…」

「名前!」

「きゃっ!!」



傾いた木箱が名前に当たるよりも早く、エルヴィンの手が今度こそ彼女の腕を掴む。そのまま力任せに自分の方へと引っ張れば名前の身体はエルヴィンへと倒れ込んだ。

彼女が怪我をしないように、咄嗟に両手で身体を包むとエルヴィンは腰から床へと倒れた。


ガシャン


古びた木箱が粉々に砕ける音が響く。パサと名前が頭に巻いていた白いバンダナが床に落ちた。



「っ、エルさん…!」



自分が庇われた事、エルヴィンが床に倒れ込んだ事、それらを察すると名前はエルヴィンの胸元からバッと顔を上げた。

それと同時に書庫の扉をガンと強く開く音。



「今のは何の音だ!」



廊下で不穏な音を聞き、すぐさま駆け付けたリヴァイだった。

粉々になった木箱。掃除途中と言わんばかりにひっくり返された本の山々。そしてその中でエルヴィンに抱き竦められた名前の姿が目に入った。



「っ、…名前、怪我はないか?」

「ごめんなさい、私なんてことを、ごめんなさい…っ」

「君に何も無くて良かった、……、何だリヴァイいつからそこにいた」

「え…?」



エルヴィンの腕から解放された名前はようやく顔を上げリヴァイと目を合わせた。今にも泣きそうな顔をしていた名前がリヴァイの顔を見て、よりいっそう泣きそうに顔を歪めた。



「ごめんなさい、私がよそ見していたから…っ、本当にすみません」



そう言って、エルヴィンの身体を労わるように支える名前。聞かずとも何があったのかくらいリヴァイは気付いていた。粉々の木箱と、名前を庇うようにして倒れていたエルヴィンを見れば一目瞭然だ。

分かっている、分かっているが。



「痛いところはありませんか、壁外調査が近いのに、私はなんてことを…」

「大丈夫だ、名前。だからそんな泣きそうな顔をしないでくれ」

「エルさんに何かあったらどうお詫びをすればいいのか…っ」



申し訳なさそうに、ぺたぺたとエルヴィンの身体に触れ怪我が無いか確かめる名前の姿も、「エルさん」と呼ぶその声も。

単純に面白くない。

カツカツと音を立て二人の元へ近付くと、リヴァイは名前の身体をエルヴィンから引き離し立ち上がらせた。突然引き起こされた身体に名前は驚いて目を見開いたが、そんな彼女に構うことなくリヴァイは自分の背へ隠すように押しやる。



「……そんな柔な奴じゃねえだろ」

「お前ほど頑丈でもないが」



穏やかにそう返答するエルヴィンだが、リヴァイを見るその瞳には穏やかさの欠片もない。そのまま無言になってしまった両者に気圧されたのか「あの…」と遠慮がちな名前の声が響いた。

はあ、と一度溜息をつくと、背に隠したばかりの名前と向き合った。



「お前は一々気にし過ぎだ」

「でもリヴァイさん、エルさんは私のせいで」

「そういや、一緒に風呂に行った時もそうだったな」

「え………なっ、!」



一緒に風呂、という単語を理解するのに時間がかかったのか、名前の頬は時間差で熱を持った。

正確には、交代でシャワーを浴びた日だが。

突然ふられた少し前の話題に名前は言葉を失う。確かにその時も蛇口を殴りつけたリヴァイの事をひたすらに心配していた。それは間違い無いのだが。語弊がある、どころの騒ぎではない。



「そ、そっ、そういう言い方は…!」

「何だ?」

「誤解が生まれます!」



必死に弁明する名前と、そんな彼女を鼻で笑い適当に、けれど優しくあしらうリヴァイ。

二人の様子を眺めていたエルヴィンは小さく溜息をついた。誤解を招くような言い方をしてまで名前の意識を引き付けるその姿は、エルヴィンに対するシンプルな嫉妬だろう。

なるほど、千歳を振り切ったか。

リヴァイの心情の変化を理解する。それと同時に自分の口角が僅かに上がるのを感じた。



「やはり、そうなったか」

「…何?」

「名前、心配しなくても大丈夫だ」



リヴァイを無視し立ち上がりながら名前へと声をかける。エルヴィンと目を合わせると再び、申し訳なさそうに眉を寄せた彼女に、緩やかな笑みを浮かべて見せる。



「この程度なら、壁外調査になんの支障もない」



その言葉を聞くと同時にリヴァイから離れ、駆け寄って、エルヴィンの身体に付いていた砂埃をポンポンと優しく払う名前。

エルヴィンが何気なく口にした壁外調査という言葉が妙に名前の頭の中で響く。



「……お二人とも、絶対…絶対、帰ってきてくださいね」



ぽつりと溢した言葉が部屋に響いて消えていく。名前の言葉にリヴァイもエルヴィンも簡単に答える事が出来ず、何も言わない。例え名前からの言葉と言えどおいそれと頷ける内容ではないと分かっていたからだ。



「…っ」



沈黙した空気を振り払おうと駆け出すと、名前は閉まっていた窓を大きく開いて風と太陽の光を呼び込んだ。

バサ、とカーテンが大きく舞うと同時に、開かれていた本達のページが悪戯に捲れていく。

風の強さに名前は自分の髪を抑えつけながら、二人へと振り返る。



「私!ここを綺麗にして!待ってます!」



そう言って満面の笑みを作った名前に、エルヴィンは小さな笑みを浮かべ、リヴァイは視線を逸らし。それぞれの反応で答えて見せる。


この時、リヴァイは思った。

本当は話す為に来たというのにエルヴィンのせいでタイミングを逃してしまった。千歳の事を話す空気ではない。けれど名前は待っていると、そう言ってくれた。それならば壁外調査から戻って、その時に話しをしよう。無事に戻ってきたと彼女を安心させ、その上で昔の話しをしよう。

先延ばしにした、この選択が。

後にどんな結果を招くか、知りもせず。