もしかしたら、あれはきっと…私の、


おばあちゃんの柔らかな声。

誰に向かって言ってるのか。それとも独り言なのか分からない。けれど深く考える事もできないほど、ふわふわとした意識。

不意に暗かった視界が明るく感じ、ぼんやりと目を開いた。



「……」



チチチ、と鳴く鳥の声を頼りにゆっくりと顔を上げるといつも見ていた桜が目に入る。

ひらひらと舞い散る桜をぼんやり見上げ、どうして私は眠ってしまったんだろうかと考える。前日からの準備で疲れていた?久しぶりに会う親戚達に気を遣いすぎた?

どっちもかなぁ、ぼんやり考えた時。



「おい、そこで何をしてる」



突然耳に響いた低い声。

この家の離れに人が来るなんて珍しい。親戚達はみんな母屋で食事をしているというのに。それにこんな低い声の男性、親戚にいただろうか。

ふ、と声のする方へ視線を降ろした。

そこでようやく気付く。



「っ…!え、うそ、…きゃ」



自分の身体が桜の木の上にある事に。

前傾にガクンと傾き、落ちそうになる身体。太い幹にしがみつくようにして掴まると、バランスを無くしかけていた身体は少し安定した。

幹にしがみ付いたまま、ドキドキする胸に手をあて、少し荒くなった息を整えると、改めて声の主を見下ろした。

鋭い視線と目が合う。

落ちそうになった私へと駆け寄ってくれたのか、しっかりと顔の線が見える。じっと私を見つめてくる男性。誰か分からなければ、状況も判断出来ない。焦ってキョロキョロと周りを見回した。



「なに、ここ…」



自分の家どころか、何もない。

鬱蒼とした草木ばかりの場所。見上げた空には見慣れた電線など通ってなく、突き抜けるような青空がある。日本の景色ではないその風景、遠く離れた所に大きな壁のような建物が見えた。

戸惑いながら、また木の下にいる男性を見下ろす。

ここはどこなのか、母は、私の家は。日本ではないのか、日本でないなら私はどうやってここへ来たのか。そもそもどうして私は桜の木の上にいるのか、あなたは誰なのか。

聞きたいことが浮かんでは消えていく。混乱した頭ではどれも言葉にする事が出来ず。



「あ、あの…降りたいので手を貸していただけませんか…っ?」



今は、これを言うのが精一杯だった。

少しだけ目を見開いた男性は僅かに顔を伏せた。どうしたのだろう、と伺うように様子を見ていると、再び上げられた男性の顔。その視線はとても鋭く、まるで射抜かれるような瞳だった。

あまりにも強い視線に、言葉を失いかける。



「あ、…あの、ロープとかハシゴはありますか?」

「こんな所にそんな物があると思うか?」



呆れたように呟かれる。確かに男性の言う通り、周りにはハシゴどころかロープの代わりになりそうな物も無い。木々や草花しかない。

本当に私なんでこんな所にいるんだろう、ここは何処なんだろう。

桜の木からは降りられないし、どこだか分からない場所に一人という事実を改めて認識すると少しだけ気持ちが暗くなってしまう。俯いた私を見て男性は再び溜息をつくと「おい」と声をかけてきた。



「…はい?」

「飛べ」

「え?」

「受け止めてやる、飛べ」

「えっ、ええ!飛ぶって、この高さをですか…!」

「それしか方法がねえ」



ハシゴもロープも無い状況。降りるには木に捕まってすべり降りるか、それこそ男性の言う通り飛ぶしかないのだけど。

だけど。こんな高さから飛ぶなんて小学生の頃以来だ。幼い頃はどんな高い所からでも平気で飛び降りていたというのに。なんで成長すると怖くなってしまうのだろう。



「早くしろ」

「ま、待ってください…心の準備が」

「飛ばねえなら俺は行くぞ」

「あ、待って…飛びます、飛びますから…!」



つい、と背を向けようとした男性に必死になって声をかける。誰もいなくなってしまったら本当にどうやってここから降りればいいのか。泣きそうになってしまった私の声を聞いて男性は振り返ると、再び私へ向き直り軽く両手を広げて見せた。



「早くしろ」

「…っ」



見知らぬ男性に両手を広げられ、少し頬が熱くなる。照れている場合ではないのに。私がまた躊躇したら、この男性は今度こそ去って行ってしまいそうな気がするから。

拭えない恐怖感。じわっと手が汗で湿りを帯びる。ドクドクと鳴る心臓を抑え付け、すうっと一回大きく息を吸うと男性の腕に向かって飛び降りた。



「…、」

「ひゃっ…!」



どっ、と身体がぶつかるが男性は倒れることはなく。短く息を吐き出しその場に踏ん張ると、私の身体をしっかりと受け止めてくれた。



「あ、あ、ありがとうございます…」

「…離すぞ」

「あっ、ちょっと待ってください…!」

「あ?」

「いま離されたら腰が抜けそうです…っ」



震える声でそう伝える。

高い所から飛び降りる。その事に思いの外、身体は緊張していたのか、膝がカタカタと笑っている。多分いま手を離されたら私は地面にへたり込んでしまう。それくらい身体に力が入らない。



「本当に、ごめんなさい…っ」

「お前、」

「怖かったぁぁ…っ」



男性のシャツを握り、絞り出すような声でそう言うと男性は何も言わず。ぽんぽんとまるで落ち着けるように繰り返し私の背中を優しく叩いてくれた。

チチチという鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。吹き抜ける風は少し暖かくて気持ちが少しずつ落ち着いていった。

背中を優しく叩くその手の感触を感じながら、ゆっくりと身体を離すと男性と目を合わせた。

私を受け止めてくれた見ず知らずの男性。同じくらいの背丈なのに身体はガッシリとした筋肉に覆われていて普通の男性よりもずっと力強い人。暗い色をした真っ直ぐな瞳。引き込まれるように見つめてしまう。



「あの…」

「……」

「えっと、ここはどこでしょうか?」



とりあえず苦笑い混じりにそう尋ねると、男性は眉間に皺をよせ呆れたように溜息をついた。