木の幹に久しぶりに触れた時、どうしようもない懐かしさが胸に溢れ、同時に目の奥がツンと熱くなったような気がした。
空が赤らんで来た頃にそっと書庫を抜け出し、人の目につかないよう身を隠しながらようやくここまで来ることが出来た。書庫を出た時間が良かったのか、幸いにも誰とも出会うことなく。
と言っても自分の知っている人のほとんどは今は会議中。だからここには少ししかいられない。会議が終わる前、いや念の為に陽が沈み切ってしまう前には戻らなくては。
「はあ…」
幹に触れたまま溜息を一つ。
正直ここまで来れるか不安だった。この世界に来てしまった日から一度もここには来ていなかったし、道程をしっかり覚えているかどうか記憶に曖昧な部分が多かったから。
もしも迷って帰れない何てことになってしまったらそれこそ洒落にならない。ここに行くことを誰にも言わず一人で来ようと決めたのも、忙しくしている周りの人にこれ以上迷惑をかけない為なのだから。何にしても、無事にたどり着けて良かった。
「やっぱり、あの桜の木だ…」
ぺたりと触れた桜の木は、とても見覚えがある。気のせいなんかじゃない。この木は私の実家の離れの庭にあったものだ。虫が集ってこないように、万が一枯らすことが無いように、と必死に手入れをしたのだから。
亡くなったおばあちゃんが大切にしていたものだから余計に覚えている。
書庫に篭り、この世界を学ぶと同時に、私がここに来てしまった理由を探していた。どうして突然来てしまったのか。異世界に来てしまった、なんて言ってしまえばファンタジックな雰囲気すらするが。
この世界はファンタジーの単語一つで片付けられるほど単純なものじゃない。
「巨人、かあ…」
最近読み始めた資料は以前のものとは違い内容がとても濃い。濃いとはつまり残酷さがある、ということ。
どのように人が食べられるのか。食べられた人達の末路。回収できる遺体の割合と、部位の詳細。遺体すら発見されず死亡と判断された人々の名前。
知れば知るほど。とてもファンタジーなんて言葉は使えなくなる。
「たまに目眩がするの…」
誰に言うわけでもなく、ポツリと呟いた。
私の価値観とはあまりにかけ離れた世界に。大きな壁を始めとする人々の生活状況や環境。人間の階級。上があれば下もある。お金の絡まった汚さも、兵士を志す尊い意思も。知れば知るほど目眩がする。
こんなにも生きることに必死な人達を私は知らない。明日なんて当たり前だったから今まで考えたことも無かった。でもこの世界に生きてる人達は、明日を望んで、心からの夢を見ている。
ここは私にとっては確かに異世界だけれど、ファンタジーだと言えないのは、目が反らせないのは、この世界にいる人達が間違いなく生きているから。
私と同じように息をして、寝て、ご飯を食べて、毎日を生きて、夢を見る。そして、
ったく、間抜けヅラしやがって
誰かを想ってる。
私の胸にあるこの想いは、痛みは、ファンタジーなんかじゃないんだ。
ぎゅう、と目を閉じると額を木の幹へと押し付けた。ゴツゴツとした皮が少しだけ痛い。それと同じくらい、胸が高鳴って痛い。
見て見ぬふりをしている。ずっと。気付いてないと、知らないと、誤魔化して。シラを切ってる。
「…こんなの、だめだよ…」
だって。だめだよ。
生きていると分かっていても。私と同じように、感情もあって命もあって。ファンタジーじゃない、夢物語でも、絵空事でもない。
一人の男性だって、分かってるけれど。
「…っ、」
想う気持ちばかり膨れていく。
いくら知らん顔しても、どんどん大きくなって隠しきれない。会いたいとか、話せたら嬉しいとか、見かけるだけでも良いとか、そんな少女のように胸を焦がし。心臓を高鳴らせて、頬を熱くして、想っても。
生きる、世界が。
生きられるのなら、生きてみたかった
「…っ!」
思い出したかのように。いや耳元で囁かれたかのように。頭に響いて、浮かぶ声。これはあの夢。誰かは分からない、顔も見えない私の夢に現れる、女性のもの。
ああ、そういえば夢に現れる女性は言っていた。貴方と生きていく、たったそれだけの勇気すら無かったとそう哀しそうに、辛そうに、贖罪の言葉を呟いていた。
こういう事なんだろうか。私の気持ちは似ているのだろうか。夢の女性が言う世界と、私の感じる世界はきっと違うものだと思うけど。
世界が、違う。
想うには、根本的で、絶対的なものがあまりにも噛み合っていない。
突然ここに来てしまった私は、いつ元の世界に戻されるか分からない。突然戻る事だってあるかもしれない。この世界の住民じゃないのは私なんだから。
そうだファンタジーなのはこの世界じゃない。夢物語なのも、絵空事なのも、それは全て私だ。突然現れた存在すらあやふやな私こそ、夢と空想。
叶うのなら、何もない平和な世界で、
貴方と、
手を取り合って生きてみたかった
響く声にふわりふわりと浮かぶ意識。夢なのか現実なのか分からなくなるほど、女性の声が近くに感じる。
せめて同じ世界で出会えていたら、私が始めからこの世界に産まれていたら、きっと悩まなかった。想いに胸を焦がして、ただただ真っ直ぐ。
あなたに、恋を
「名前ッ!」
白昼夢のような感覚は、突然名前を呼ばれたことで泡のように消えた。
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