パッと顔を上げると、ハンジは周りを見渡す。いつもあるはずの、彼女の姿が見当たらず、不思議そうに呟いた。
「あれ?ナマエは今日休みだっけ」
「はあ…昨日言っていたじゃないですか…」
呆れたように反応したのは、ハンジにとって信頼出来る部下。
「今日はリヴァイ兵長と遠乗りに行ってくるって」
「え、そうだったっけ?」
「…研究ばかりじゃなく、ちゃんと部下の言葉に耳を傾けてください」
「ごめんっ、ごめんっ!」
カラカラと楽しそうに笑うハンジを見て、モブリットは再び重いため息をついた。
今日は姿がない彼女のデスク。回復して職場復帰したその日からナマエはハンジの書類整理に奮闘していた。
心配して様子を見に来たリヴァイが、走り回るナマエの姿を見てハンジに強烈な拳を食らわせたのは半月前のことだ。
「さあ、書類に向き合ってください。またナマエを使ったら今度は蹴りがきますよ」
「ほんと容赦ないからねあの男は、まったく」
「分隊長がサボらなければ済む話です」
「はいはい、やりますよっと!……いやー!それにしても、」
ペンを握って書類に向かうと思いきや、すぐ世間話を始めるハンジにモブリットは呆れた顔をする。けれど「何ですか?」と耳を傾けてやるのがモブリットの優しさだ。
「よかったね、あの二人」
元通りだ、
そう言って心底嬉しそうに笑みを作ったあと「いや、前よりも確実に良好かな?」と楽しそうに考え始める。
そんなハンジの姿にモブリットは「いいから仕事してください」と言葉では言うものの、顔はハンジ同様、柔らかな笑みを浮かべていた。
いつも通り。けれどこれは君が心から望んだ結末だね。
・・・
「ミケ、ここ数日のリヴァイが非常に気持ち悪いのだが…どうしたらいい?」
「…お前は人の幸せをそういう風に言う事しか出来ないのか、エルヴィン」
重く溜息をつくミケに、エルヴィンは「ふむ…」と何か思案し始める。その顔にあまりいい予感はしない。
「よし、試しにリヴァイからナマエを引き離してみるか」
「殺されたいのか、お前は」
やっぱりか。何がよし、だ。と呆れを通り越し疲れた顔で呟くミケ。
あれだけ、想うナマエを引き離したらどんな事になるか。考えなくても容易に分かる。
確かにナマエが全快しリヴァイの元へ戻ってから、彼の空気が一変したのは確かだ。
無愛想で仏頂面なのは相変わらず。だが仕事中、本部内でナマエと遭遇したり、彼女が書類を届けに執務室に来るとそれは明白になる。
「あまり、ちょっかいを出してやるな」
「いや、他所の女に手を出しておきながらナマエと元サヤに戻るのが釈然としないだけだ」
「お前なぁ…」
顔が面白くてたまらないと言っているぞ。
心ではそう思ったが、口にすると面倒なので何も言わない事にした。代わりに「はあ」と溜息をもう一つ吐いた。その時だった。
コンコン
「失礼します。エルヴィン団長、先日の新兵の鍛錬での事なんですが…、…なんだ、ミケも一緒か」
「ナナバ」
柔らかい髪の色。それに負けず劣らず、柔らかい表情をしたナナバ。片手には書類を持ったまま、静かに扉を閉めた。
「先日の鍛錬で、破損がありまして…賠償金が」
「この金の無い兵団に、そういった話しか…」
「はは、すみません…」
「どうせ監督兵でなく新兵の仕業だろう。見せてみろ」
エルヴィンが手を伸ばすとすぐに書類を手渡すナナバ。ペラペラと紙を捲りながら、吐かれたエルヴィンの大きなため息にナナバは僅かに苦笑いをした。
「そういえば、今日はお二人だけなんですか?」
キョロキョロと辺りを見渡すと不思議そうに首を傾げるナナバ。いつも一緒というわけでは無いが。この二人が揃っているのに、そこに居ない存在が気にかかる。
エルヴィンは書類に目を落としたまま口を開いた。
「リヴァイは今日、ナマエと遠乗りだそうだ」
「…ああ…そう、ですか…」
どこか落ち着き払ったナナバの声。少しだけ微笑んでいるようにも見える彼の表情に、ミケは伺うようにして声をかける。
「ナナバ…?」
「ナマエは最近、よく笑っていますね」
とても嬉しそうに呟く、ナナバの声。
あの日々とは比べられない。溢れんばかりの笑みを、穏やかに笑う彼女を見てると思う。ああ、やはりこの結末が正解だったのだと。
想っていたのは嘘じゃない。いや、今も彼女を想っている。いつも一番に想うのはナマエの事だ。
けれど。ナナバが望んだものがある。ナマエは確かに笑っている。穏やかに、幸せそうに。
それが見れるのだから、もういいのだ。
静かに想いを区切ろうとした時に響いたのは、書類から顔を上げたエルヴィンの声。
「もしもリヴァイが同じ事をしたら次は奪ってやればいい」
「おい、」
エルヴィン!
と、ミケが牽制するよりも早く。口を開いたのはナナバ。いつも通りの落ち着きのある笑みではなく、どこか不敵な笑みを浮かべ。
「もちろん、そのつもりです」
そう言ってのけるナナバは、ふざけ半分。けれどもう半分は本気の顔をしていた。
どんな時でも一番に想う、君の幸せを。
・・・
シーナよりの壁と壁の間。行商人は通らない方へと道をはずれて行くとそこには川辺がある。
着慣れた隊服ではなく、私服を着て二人で出掛けるのはまだ少し気恥ずかしい。近くの木の下に馬を止めると、リヴァイは馬から降りナマエへと近付いた。
「手をかせ」
「平気ですよ?」
「いつもとは違うだろう」
そう言って、手を差し出すリヴァイ。確かに今日はスカートだ。ナマエは膝下丈のスカートを軽く抑えながら身体を転換すると、リヴァイの手を取り馬から降りる。
「ありがとうございます」
ナマエの言葉に、リヴァイは表情を緩めることで応えた。
馬を縛っておく必要はない。お互いの頭を寄せてじゃれ合う二人の愛馬が逃げないと分かっているから。
先を歩くリヴァイの半歩後ろをついて行くのはいつものこと。
斜め後ろからリヴァイを盗み見るのがナマエの癖だ。隣を歩きたいと思ったこともあったが、半歩後ろも嫌いじゃない。
むしろ逆。最近気付いた事だが、こうやって半歩後ろからリヴァイを盗み見るのが好きなのだ。
サラリと揺れる黒髪。その隙間から見える鋭い目。彼の横顔を見ていると自然と胸が高鳴る。
「ふふ…」
「何だ?」
「いいえ、何でもないですよ」
笑って、誤魔化して。
そんなナマエの子供のような笑顔に、リヴァイはまた表情を緩める。
いま夢のような時間の中に二人はいる。
すれ違って、遠回りを繰り返して、傷つけて、傷ついて。そうした日々を乗り越えて今、昔とは比べられないほど近づくことが出来た。
リヴァイがこの現状を夢ではないと実感出来る瞬間は、ナマエが笑う時。
その穏やかな笑みを見ると、どうしようもなく報われた気持ちになる。安堵する。彼女の幸せを実感して、同じように穏やかな表情をしてしまう。
胸に広がるこの気持ちをなんと言おうか。
「少しくらいなら足水してもいいですか?」
「大丈夫じゃねえか」
「リヴァイもします?」
「ああ、そうだな。その前に水温をみる、待ってろ」
トントン、と小気味よく岩を蹴り水辺に近づくと片手を水に晒すリヴァイ。そんな姿を、少し離れた場所からじっと見つめるナマエ。
俯いていた日々は、もう遠く。
一人泣いた日々は、昔のこと。
彼がいる。近くに。手を伸ばせば触れられる距離に、いる。いてくれる。
私の心はちゃんと見えてますか?
胸の中でそう呟くと同時にリヴァイが顔を上げてナマエを見た。
「少し冷たいが、問題ないだろう」
その言葉に、ナマエは彼がしたのと同様に岩を蹴り水辺へと近づいて行く。すると差し出された手。もちろん、リヴァイの手だ。
再びその手を取りながら想う。
触れ合うことは難しいことじゃない、心を近付けるのは難しいことじゃない。
こうやって正面から向き合えば、気持ちが見えてくるから。優しげな表情、目、仕草。それら全てでお互いの心を確かめる。
引き寄せられる手、近付くお互いの身体。もう離れないと、離さないと約束しよう。
ちゃんと、向き合おう。もう間違えないように。お互いの心を無視しないように。
不安なことがあったら言葉にしよう。察してもらうのを待つのではなく、言葉にして相手に伝えていこう。
もちろん伝えるのは不安だけでなく、
「リヴァイ」
「何だ?」
胸に溢れんばかりに募る、愛情も。
「大好きですよ、リヴァイ」
「奇遇だな、俺も同じ事を考えていた」
目を見合わせ少し微笑むと、近付いた身体が、また近付く。
お互いの両腕が、お互いの背に回る。
重なり合う互いの心臓。そこから響く鼓動に心地よさを感じる。
目を閉じ、君を想う。
「ナマエ、少しこうさせてくれ」
「少しと言わず、いつまでも大丈夫です」
(いつもこの心は) (あなたに向けていよう)
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