「はは、距離が分からなくなって、他の女に手を出した結果別れましたー、とか。あはは」
ハンジの笑い声が部屋に響く。リヴァイはそれに対してなにも言わない。壁に寄りかかり腕を組んだまま、眉間にシワを寄せ目を閉じている。
「あはは、やばいよリヴァイっ」
そんな彼を見て、ハンジは楽しそうに一頻り笑うと、スッと息を潜め、壁外にいる時にしか見せないような、鋭い目付きになった。
「笑えないんだけど、全然」
ハンジには珍しい低い声が、部屋に響いた。
鋭い瞳はリヴァイに向けられたまま。リヴァイは逸らされることのないその視線と一度だけ目を合わせたが、すぐに逸らし無言を貫いた。
「悪いけど私はミケほど甘くない」
「…だろうな」
「何で?何で、他の女にいったの?距離を感じるのはお互いのそれまでの立場や交友関係もあるだろうから何も言わない。けどさ、その方法以外にやり方はあったはずだ」
例え練習だったとしても、ナマエからしてみればそれは酷い裏切りで。あまりにも酷い、酷すぎる仕打ちだ。
本気では無かったとしても。ナマエとの関係のためだったとしても。
「どうしてナマエと向き合わなかったの?あの子はいつも待っていたでしょう、リヴァイを。ひたすら。ずっと」
夕飯を用意して、一人ぼっちでリヴァイの帰りを待つ。どんな気持ちでその時間を過ごしていたか。
いま自分の恋人は他の女性と逢瀬を交わしているかもしれない。肌を重ねているのかもしれない。自分はもう必要ないのかもしれない。
とても、前向きにはなれない。
「挙句、ナマエは今ナナバに取られそうになってる」
「……」
「いや、もしかしたら、もう取られているのかもしれないね」
「っ」
その可能性に気付かなかった訳じゃない。あの日、壁の上の二人を見てその可能性は心の何処かで感じ取っていた。
「でもリヴァイは何も言えないね」というハンジの突き刺すような言葉にリヴァイは舌打ちをするしかなかった。
「悪いけど私はあなたの気持ちを理解出来ない」
「……」
「特別な感情ってなに?古くからの友人に見せる笑顔は特別?仲のいい友人と軽口叩いて、いじり合うのは特別?」
ナマエとナナバは確かに他と比べて親しい間柄かもしれない。リヴァイとの時間以上を過ごしてきたのだから。二人にしか分からないこと、思い出、共有出来るものは色々あるかもしれない。
けれど。
「私からすれば、リヴァイと一緒にいる時のナマエの方がずっと特別のように見えたよ」
向ける表情も。響く声音も。ささやく言葉も。
ナマエがリヴァイに向けるものは全て特別で、他の誰も上司で親しいハンジでさえも彼女からその特別を向けられていなかった。
「リヴァイに向き合うナマエはリヴァイだけのものだ。ナナバに向けるそれとは違う。たぶんナナバ向けている笑顔はナナバだけじゃなく、同期のみんなに対してそうなんだと思う」
「……」
「最初から特別なのはリヴァイだけ。最初からあなたの思い込み、勘違いだったんだ」
それに気付くにはあまりにも遅く。結果として彼女はいまリヴァイの傍にはいない。
自業自得、言ってしまえばその一言。けれど、けれど。
こんにちは、リヴァイ兵長
穏やかに笑うナマエを諦められない。
自分で、ぐしゃぐしゃに傷つけておきながら。彼女を諦められない。他所になど行って欲しくない。傍にいてほしい。
今度は間違えない。必ず、向き合う。だから、だから、
子供のように繰り返される駄々にリヴァイ自身が嫌気を覚えた。
横顔だけで見てわかるほど。悔しさやもどかしさを見せるリヴァイの表情に、ハンジは少し安堵を覚え鋭い瞳を収める。
「ねえ、リヴァイ…私は思うんだ」
テーブルに肘をついて、視線はゆらゆら揺れるロウソクをぼんやりと見つめ。
ハンジはポツリ、ポツリ、と落とすように言葉を紡いだ。
「私はナマエが大好きだ。ミケも、エルヴィンだってナマエを気にかける。みんながあの子に引き寄せられる」
気付いたら、彼女は人の輪の中にいる。
「何でかな?って思ってたんだよ…何があの子の魅力なのか、どうして私たちが引き寄せられるのか…ずっと考えてて、やっと分かった」
そうだ、彼女の魅力は最初から変わらない。
「あの笑顔を見ると、母親を思い出すんだ」
お母さんみたいだな、って思ったんだ。
「まあ、母親っていうのは例えだけどさ。あの穏やかな笑顔見てると、自分のしてきた事、している事が許されたような気持ちになる」
調査兵団なんて、無謀な集団だ。とよく言われる。犠牲者を出すだけ出して結果が伴わない事がある。
いや結果が伴わない事の方が多い。
親しい友を亡くし、信頼した仲間を亡くし。それなのに進歩がない。心が荒んでしまいそうになるその中で、彼女の笑顔を見て、初めて泣き出したいような衝動が駆け巡った。
「ナマエに笑って欲しい、って思うんだ。穏やかに笑ってくれればまた頑張れるから。多分そういう気持ちは、生き延びれば生き延びるほど、強くなっていくんだと思う」
だから、エルヴィンやミケもナマエを気にかける。
死線を乗り越えれば乗り越えるほど、心が死んでいくから。
たくさんの仲間を亡くして残ったのは自分だけ。襲いかかる感情に耐えて、自分で自分を奮い立たせて。疲れて。だけど生き残った自分は弱音なんか吐けなくて。
崩れ落ちてしまいそうな気持ちの時、穏やかに笑ってくれるナマエを見ると、心底癒される。安心感を覚える。根拠のない自信が芽生える。
「もちろんこれは私の憶測で、他はそんな風に思って無いかもしれない。単純にナマエに惹かれているだけかもしれない」
彼女しか見せられない笑顔。穏やかで泣きたくなるほど優しい笑み。
誰かを癒すつもりなんて、ナマエにはないと思う。無意識のうちにあの笑みを浮かべているだけだと思う。母親という表現が一番近いだけで、彼女が母な訳じゃない。
ナマエという、人柄だからこそ滲み出るその笑顔。
「でも、もしも私の憶測があってるとしたら…」
リヴァイがナマエを求めた理由。
「リヴァイに一番必要だったんだよ、ナマエみたいな存在が。だから求めたんだ」
人類最強の兵士。
兵長と呼ばれ、周りから尊敬や信頼を向けられる。
けれど最強と呼ばれるからと言って、全てを守ることは出来ない。壁外調査に赴けば、リヴァイ以外の班員が全員死んだことだってある。
それを周りは「彼は人類最強だから」と言って、リヴァイを讃える。
「リヴァイ兵長と同じ班になれるだけで幸せです」と言っていた奴が、すぐに死んだことだってある。
賞賛され、讃えられ。そうされるほど、孤立していく。一人になっていく。
一番孤立しているのはリヴァイだった。
初めましてリヴァイ兵士長。私はナマエと言います
出会いは、彼女が調査兵団に所属してすぐのこと。
緊張して引きつった顔をしていた癖に、目が合った途端その緊張は引っ込み。続いて浮かんだのは、あの穏やかな笑顔。
へらへら笑う、おかしな女だと思った。けれど出会ったその日から目が逸らせなくなって、いつも何処かナマエの姿を追っていた。
あ、リヴァイ兵長
人の輪の中にいても、名を呼んで微笑みかけてくれるナマエに。
きっと、初めから。恋をしていた。
「…自分のした事は分かってるつもりだ…」
「うん…」
「…だが、諦めきれねえんだ…アイツを」
その発言にハンジは目を見開いて驚いた後、どこか嬉しそうに笑った。
「そう思うなら、縋りつけばいい。貴方から離れていこうとしてるあの子とちゃんと向き合って、縋り付いてでも引きとめればいい」
「…」
「みっともなくたっていいんじゃない?」
君は他と変わらない、人間なんだから。
ハンジの言葉にリヴァイは小さな声で「そうだな」とだけ呟くと、窓の外。夜空に浮かぶ月を眺めていた。
「それにしても、まさかリヴァイが駐屯兵団のお友達だったなんて…はあぁ…」
「…何の話しだ?」
「ナマエから相談を受けていたの!…何で気付かなかったんだろうなあ、私…」
ああぁ、と項垂れるハンジ。
ナマエから駐屯兵団のお友達の事を相談されたのは随分と前のこと。よくない噂が流れてるお友達が、まさかリヴァイだったとは、誰が思うだろうか。
分かっていたらもっと早くリヴァイと話しをしに来たのに。
「私はどんな顔をしてナマエに会えばいいのか…地味にナマエを苦しめるようなことばかり言ってたし…気まずかっただろうなぁ…こうやって二人の部屋まで用意して帰るところ無くして…」
「…俺の前で言うのか?」
「当たり前でしょう!言い足りないくらい!…それにしても、ナマエになんて言って謝ろう…」
とうとうテーブルにベタンと倒れ込むハンジの姿を見て、リヴァイはまた窓の外へと視線を動かした。
「アイツは…そういう事を気にする奴じゃねえだろ…」
「…ん?」
「自分の悩みに気付いて貰えなかったからと言って怒るような、そんな小さい奴じゃねえ」
きっと、笑って許す。「遠回しな言い方をした私が悪いんです」と。きっとそう言うだろう。
ハンジはリヴァイの横顔をジッと見つめると、呆れたように溜息混じりに呟いた。
「分かってるじゃないナマエのこと」
「…」
「ちゃんと話しなよ。次の壁外調査が終わった後にでもさ」
「…ああ」
今は行くのは、ナマエのモチベーションに関わるから。下手なことは出来ない。それはリヴァイたち上官だから分かること。
「ハンジ」
「なに?」
「悪いな」
「それは、ありがとう、って意味として受け取っておくよ」
|