彼女との距離が分からなくなった。

歪み始めた。

どう距離を縮めればいいのか分からない。どうすればあの男のように彼女を笑わせることが出来るのか分からない。

触れ方も、話し方も、全て分からない。

これまで致命的なほど、そういった事に興味が無かった。女は性欲処理としてしか扱ったことが無かったからだろうか。


ナナバ!


だからまるで真似るように、ナマエに自分の名を呼び捨てにさせた。けれど、空気がぎこちなくなるばかりで望んだ結果は出ず余計に距離が開いた。

話しかける時、どうすればいいのか分からなくなって口数が減った。折角ナマエと同じ空間にいても、何も話せない事が多くなる。喜ばせる話題が見つからない。

話しかけられても相槌すらまともに打てなくなっていた。

目が合った時、どんな表情をすればいいのか分からなくなった。ナマエと目が合うと変に意識してしまい、眉間に皺が寄ってしまう。そんな顔を見せたくなくてすぐに目を逸らすようにした。


そして。


まるで練習をするように、他の女に触れるようになった。


どうすれば悦ぶのか。それまで性欲の処理として扱っていた人間に、最愛の彼女を重ね、触れた。

そんな事をした所で意味など無いのに。相手は彼女ではないのに。

繰り返し、繰り返し。夜になると部屋を出て別の女の元へ通う。今思えばナマエに触れられないもどかしさからくる欲求もあったように思う。

ナマエに触れているような錯覚の中、出すものを出せばそれなりの満足感は得れていたからだ。


けれど、その辺りからナマエの穏やかな笑みが無くなった。


いつもどこか無理をしている。まるで機嫌を伺うように、変に低姿勢で。この時気付けば良かったのだ。自分がしている事がいかに彼女を傷付けていたのか。気付くべきだった。


り、リヴァイ…


たどたどしく名前を呼ぶその声が、どれだけ震えていたか。怯えていたか。泣きそうだったか。

気付くべきだった。

気付けない俺は彼女との微妙な距離感は、あの男と過ごす時のような空気感が出来ないからだ、と勘違いをして。


悪い…。


寝ている彼女に囁いた懺悔。それは空気を作ってやれない事に対して。いつまでも気まずい空気しか作ることが出来ない事に対して。

あの男、ナナバのようになれない事に対して。


けれど、その気持ちはある日、一変する。



えへへ、嬉しい



それは久々に顔を合わせ夕食を共にした時。

不意にナマエが穏やかな笑みを浮かべて見せた。あの時のような。始まりの時に見た。ずっと見たかった笑みだった。

俺は何もしていない。ただ、思った事を伝えただけだ。

そこで初めて気付いた。他を真似る必要はないと。

ただ、感じた事を感じたままに言葉にすれば、ナマエは応えてくれる。

お前の作る食事は美味い、と。今みたいに伝えてやるだけで笑ってくれるのなら。それでいい。十分だ。


だから、もう必要の無い関係は切るべきだと思った。


俺個人の気持ちで他者を傷付けてしまったのなら、それを謝罪して終わらせようと。



そんなの、あんまりじゃないですか…ッ!

抱くだけ抱いて、彼女が大切なんて!

そんなの私は認めない、絶対…認めないんだから…!




ヒステリックに叫んだ女。言われることは覚悟していた。それだけの事をした。暴言なら甘んじて受けようと思っていた。

だが。



あんな女に私が負けるなんてありえない…!

あんな…っ…あんな、へらへら笑うだけで何も出来ない、兵長に甘えるだけの女…!

寄生虫みたいな女…!!




その言葉が、驚くくらい自分の心を冷ややかにさせた。



俺はアイツに寄生されてるつもりはない。むしろ逆だ。だが、てめえは何だ?俺に縋り付くてめえこそ、寄生虫だろ。

違うか?



言い切ると、静まり返った空気。

嘘は言っていない。寄生しているのは俺の方だ。共に在りたいばかりに必死に繋ぎとめようとして、他の男の真似事をした。

もし女の言うとおり、本当にナマエが俺に寄生していると言うなら、願ってもない事、むしろ本望だと言える。

宿主が受け入れる寄生は、もはや寄生でもなんでもない。

それは単なる、共存だ。

そうだ、俺は共に在ることを望んだんだ。だから他の真似事をした。そうすれば近付けると思ったから。けれど違う。共に過ごす中で、距離を近付けて行けばいい。

華やぐ笑顔も、ふくれっ面も、まだ見ることは出来ないが。

今日のように、ふとした瞬間に笑ってくれればそれだけでいい。そうした日々の中で新しい表情を見れるようになればいい。


ナマエにこれまでの事を謝ろう。そうして、元の距離感に戻そう。無理をさせてすまなかった、と言ってやろう。

気付くのが遅いと呆れないだろうか。言い方を間違えて傷付けてしまわないだろうか。

また、笑ってくれるのだろうか。



いろいろな事を思い浮かべながら、自室へと戻ろうとした時。不意に腕を掴まれた。

何だ、と紡ごうと、顔を上げた瞬間。唇に触れた熱。反吐が出そうなそれに、振り払おうとした瞬間。


パキリ


後ろで枝が踏み折られる音がした。

咄嗟に振り返ると、そこには最愛の。



……わ、たし…っ

…すみません、私なんだかお邪魔してしまったみたいで‥っ



違う。

やめろ、やめろ。そんな顔で笑うな。違う。

今にも泣きそうな瞳を誤魔化すように浮かべる笑みは酷く痛々しくて、見るに耐えなかった。

名前を呼んでも反応してくれない。

必死に笑みを作るが、視線を合わせようとはしない。



もう…行きます、ので…申し訳ありませんでした……兵士長、殿



こんな結果を望んだんじゃない。

ナマエ、と呼んだ声に彼女は振り返らない。すぐに追い掛けて話そうと思った瞬間、再び腕を掴まれた。


これは、報いよ


一瞬、ヒヤリと冷えた思考。そうだ、この結果になる可能性はあったんだ。ナマエが傷付く可能性はあった。これは裏切りじゃないかと、心の何処かで分かっていた。

それなのに。


絶対、認めない…諦めない…


そう、呟く女の手を振り払うと、すぐに追い掛けた。

向かったのは自室。いてくれ、と願ったが彼女の姿は無い。どこに行ってしまったのか分からない。すぐに自室を出ると、夜間でも入れる場所を探して回った。

けれど、そのどこにも彼女の姿は無く。

結局、日が昇る時間になっても俺はナマエを見つけることができなかった。

翌日も、その次も寝ずに待っていたが戻ってこない。探しに行こうかと思ったが、すれ違いになるのを恐れて待つ事しか出来なかった。

そうしていくうちに、彼女は俺の元からいなくなった。

これは、報いだ。ナマエを傷付け、泣かせた報いだ。


どうして、思えなかったんだ。少しずつ距離を縮めればいいと、真似をする必要はないと。何故気付くことが出来なかったんだ。

失った自信が、失った者は。







コンコン



「誰だ…?」



深夜、不意に聞こえたノック音に閉じていた瞳をゆっくりと開いた。わざわざこんな時間に、自室に来るような奴がいただろうか。

怪訝な顔のまま、少しだけ扉を開いた。



「やあ、リヴァイ…こんばんは」

「クソ眼鏡…何の用だ?」



固定砲台の視察に行った日以来の顔合わせに、自分の顔が歪むのが分かった。それに気付いているのか、当の本人はいつものように笑みを浮かべたまま。



「ここで話すのも難だからさ…入れてよ」

「断る。壁外調査も近いんだ、ゆっくりさせろ」

「違うでしょ。ナマエがいないからでしょ?」



言葉に詰まった。それを察したのか、ここぞとばかりにハンジは言葉を繋げる。



「私が二人のために用意した部屋にナマエがいないから、それを私に見られるのが困るから。だから入れたくないんでしょう?最近おかしいな、とは思っていたけど…そりゃあ、そうか…あれだけの事をしたんだもんね、ナマエもいなくなる訳だ」

「……」

「ミケから全部聞いた」



ねえリヴァイ、私と話しをしよう。