「ナマエ」
「…あ、リヴァイさんっ」
名前を呼ぶと穏やかな笑みを浮かべてくれる彼女。まだ自分の名前を呼び捨てにしていなかった、関係が始まって数ヶ月という、間もない頃。
「今日の執務は終わったのか?」
「はい、今日は午前の鍛錬だけだったので…先ほどお昼を食べ終わってぼんやりしてました」
「そうか。ちょうど俺も昼が終わった所だが…どこかで話しでもするか?」
そう言うと少しだけ目を見開いたあと、すぐに照れ臭そうに笑って「はい」と頷く彼女の姿に、驚くくらい穏やかな気持ちにされていた。
名前を呼ぶと、振り向いてくれる。微笑んでくれる。
それだけのことに酷く惹かれ、自分だけしか見ないだろうその表情に独占欲のような気持ちすら芽生えていた。
自分だけの。そんな自信にすら近かった。
この気持ちが淀むことは無いと、思っていた。
「ナマエ」
「え……あっ、ナナバ!」
あの日、二人の姿を見るまでは。
・・・
「リヴァイ……ちょっと、リヴァイ!」
「…何だ?」
「何だ、じゃなくて、平気って聞いてるんだけど!」
「何ともねえよ…」
目の前で騒ぐ同僚の姿にリヴァイは大袈裟なほど大きな溜息を吐いた。
ハンジの巨人語りに飽きて他のことを考えていたのは事実だが、少し余計なことを考え過ぎていたらしく、僅かに苛立つ気持ちがあった。
「それならいいけど、何からしくないなぁと思ってね」
「俺がお前の巨人語りを最後まで聞いたことがあったか?」
「はいはい、そうでした。にしても、久々に書類以外の仕事が来たと思ったらまさかリヴァイと二人なんてね」
重い立体起動を装備したまま行く先は、空を覆うほど大きくそびえ立った壁の上。
「何でてめぇと二人で固定砲台の視察なんかしなきゃならねぇんだ」
「その言い方は酷いなぁ」
ケラケラ笑うハンジは、壁に向かってアンカーを飛ばす。それと同時にリヴァイも諦めたようにトリガーを引いた。
「……」
仕事だから仕方ないとしても、昨日の今日だ。少し頭の中を整理する時間が欲しかった。今も頭に残る彼女の声と顔。
…お忙しい所、申し訳ありませんでしたリヴァイ、兵士長
そんな風に距離を作りたかった訳じゃない。逃げるように目を逸らし、必要以上の敬語を使うナマエの姿に、胸が焦げ付くような感覚がした。
は、はなして…くださ、い…!
拒絶を望んだ訳じゃない。
けれど、拒絶されても文句を言えない程、酷なことをしたのは自分自身。彼女の気持ちをズタズタに引き裂き、傷付け、踏みにじった。
そう分かっているのに、彼女の腕を掴み無理矢理にでも引き寄せようとした自分の愚かさ。勝手さ。
もう私は、十分わかってますから!あなたが私に興味無かった事も、だから他の女性を見つけようとしていたことも!!
違うんだ。そうじゃない。そんな風に泣かせたかった訳じゃない。そんな風に声を荒げさせたかった訳じゃない。そんな顔をさせたかった訳じゃない。
いつからか、目が合ってもあの時のように穏やかに微笑んではくれなくなった。
一番求めた物を、
「リヴァイ!やっぱり今日変だよ!降りるー?」
ハンジの声にリヴァイは思考を止めた。風を切り、上空へと昇る僅かな時間でここまで考えてしまうとは。
「降りねぇよ…」
「落ちたらシャレにならないからねー!」
「そんなヘマをすると思うか?」
「まぁ、本人がそう言うなら私はいいんだけど……リヴァイといい、ナマエといい最近変じゃない?」
「……っ」
「ん?……え、ちょっと何その顔…ねえ、リヴァイもしかしてナマエと」
壁の上はすぐそこ。ハンジがそこまで言いかけたその時、見えたのだ。
「ナマエッ!!」
リヴァイではない声が彼女の名前を叫ぶ。
反射的に視線を向ければ、ガクンと傾いた彼女の身体を引き寄せ、抱きしめたまま倒れ込むその姿。
リヴァイが壁の上を踏みしめたとほぼ同時だった。
「焦った…」
ナマエの身体をナナバの腕が、まるで彼女を守るように包み込んだのは。
自分は触れることすら出来なかったのに。強引に掴むことしか出来なかったのに。
言葉が出なかった。
駆け寄ることも出来ない自分はなんなのか。眺めているだけの自分は、なんなのか。
「あれ……あれってもしかして、ナマエじゃ」
「降りる」
「は!?え、ちょっとリヴァイ!?」
ハンジが振り返るよりも早く、身体を再び中に浮かせると急降下させた。
何かを言える立場ではない。だからこそ、ジリジリと焦げ付くような、むせ返りそうな気持ちに襲われるのだ。何も出来ない、許されない。それだけのことをしたのは自分自身。
ジリジリと焼けてしまいそうなこの感覚を思い出した。
この感覚は、
「やあ、ナマエ」
「ナナバ、久しぶりだね!」
「所属兵団が決まってからみんなバラバラになってしまったからね…ナマエは変わりない?」
快活な声。華やぐ笑顔。駆け寄って行くその姿を見て、何かが失われていくような気がした。
いつも穏やかに笑う彼女のあんな姿を見たことは無かった。大人しくて穏やかで、そんな彼女ばかり見ていたから。
「ナマエはやっぱり駐屯兵団の方が良かったんじゃない?」
「どうして?」
「どこか抜けてるから」
「ちょっと…ナナバ!」
自分が見ることの出来ない、自分ではさせる事が出来ないその表情に。
ジリジリと焦げ付くような痛みが胸に広がった。
それだけ。たったそれだけの事で。
俺は、自分自身が求めたものを手放す事をした。
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