だいじょぶ、です……大丈夫です


その顔は誰がどう見たって大丈夫じゃないだろう。ミケはつい先日、話したばかりのナマエのことを思い浮かべ、ふう、とどこか重たい溜息をついた。

ナナバから相談を受けた時、僅かに信じられないその内容に驚いた。だが目の前のナナバの深刻な表情を見て、彼の話しが本当であればナマエの身体がもたないと思い、言われるがまま部屋を用意したものの。


リヴァイとナマエの関係が崩れ、行く当ての無いナマエが一人途方に暮れている、等。そんな話しを誰が信じるだろうか。

少なくとも二人の関係と、リヴァイ自身の性格をよく知っている者はまず信じない。ハンジ辺りはきっと「有り得ない!」と大声で言い、笑い飛ばすだろう。それほどリヴァイはナマエと言う存在に執着していた。

他者が見ても伝わるほどの愛情を彼女に向けていた。


きっとナナバの早とちりか勘違いだろう…そう思っていた。彼女の顔を見るまでは。


ミケさんっ


自分の名前を呼び、駆け寄ってきて笑う。いつも通りの彼女。昔から変わらないミケに対する行動。声だけ聞けばそれはいつも通りの彼女と大差無かった。声だけを聞けば。

ふと見せる表情は酷く愁いを帯びていて、顔色は青白く優れない。目の下にくっきりと付いた隈が余計にナマエを弱らせて見せる。


…ミケさんは、やっぱり…知ってますよね


弱々しく笑う彼女に痛感した。ああナナバの言っていた事は事実だったのか、と。

本当にリヴァイはナマエ以外の女と関係を持ち、傷つけ、そしてあれだけ執着していた存在を手放したのか。あれだけ愛しげに見つめていたナマエを。

大丈夫だ、と笑ったナマエ。少しも上手くないその笑顔はミケではなく、自分を誤魔化す為のものだったのだろう。

大丈夫ではないのだ。大丈夫なはずがない。けれど立ち止まれないから、負の感情に飲まれてしまう前に大丈夫だ、と口にすることで弱い自分を誤魔化しているんだ。



「……」



ふと、ミケは立ち止まった。自分に出来ることは何だ。何をしたらナマエはまた穏やかに笑うことが出来るのか。あの状態では危険だ。あんな気の抜けた、酷く淀んだ心のまま壁外調査に赴いたら間違いなく死ぬ。

いくら今まで生き抜いてきた実力があっても、あれでは巨人に勝てない。ただ喰われるだけの餌になってしまう。

そうはさせたくない。穏やかな彼女を、何もしないまま失いたくない。

今、彼女の心を穏やかに出来る者。それはきっと自分でも無ければ他でもないあの男なんだろう。そう結論付けるとミケの足は一人の者に向かって迷わず進んだ。



「リヴァイ」

「…何の用だ?お前が俺に話しかけるなんて珍しいこともあるんだな」

「話しがある、この会議が終わったら少し付き合え」

「悪いがそんな時間はねえ。次の壁外調査までに班の編成を済まさなきゃならないんでな」

「……ナマエの事だ、と言ってもか?」



その瞬間、リヴァイの纏う空気が変わる。切れ長の目は一層細くなりミケを鋭く睨む。まるで触れるなと言わんばかりの鋭い視線。けれどそんな視線にミケが怯むはずも無く。フンといつも通りに鼻を鳴らした。



「この会議が終わったら隣の空き室に来い」

「……」



それだけ言うとリヴァイの返答を待たぬままミケはさっさと自身の席に付いてしまった。



・・・



会議が終わり、改めて受け取った資料に目を通す。

新兵を含めた初めての壁外調査だからか、いつもより調査内容が甘くなっている。大部隊の為に作った航路の視察だけ、とは。この内容だと巨人との遭遇が限りなく低い。

一見、新兵の為の簡単な調査内容に思えるが、エルヴィンの本来の目的は恐らく違う。新兵を壁外に連れ出すことじゃない。言ってしまえばこれはおまけだ。

いつもとは違う部隊の編成、メンバーの入れ替え。本来の目的は、兵士個々の特性と言った所だろうか。これは部隊編成に骨が折れそうだ、とミケは溜息を吐きながら、自分が先程指示をした空き室の扉を開いた。



「…早いな、」

「…話しがあるつったのはてめえだろ」



扉を開けるとそこには既にソファに腰掛けたリヴァイの姿。早いのは話の内容が彼女の話題だったからだろう、と確信を持つものの言葉には出さぬまま、ミケは向かい合う形で反対側のソファに腰掛けた。



「ナマエとの事を聞いた」

「……」



前置きは必要ない。さっそく本題に入ると、ソファに肘を付き、そっぽを向いたままだったリヴァイの表情が横顔でも確認出来るほど険しいものになった。



「何故ナマエを傷つけた、だとか…何故他の女に移ろいだ、だとか…そんな言葉でお前を責めたい訳じゃない。そんな理由、俺が聞いたところで何の意味も無いからな」

「…説教じゃねえなら何が言いたい…俺を笑いに来たのか?」

「違う」



横目でギリと睨むリヴァイに対し真正面から向き合ったまま、ミケは言葉を考えた。

ナマエに謝れ、ナマエの所に行ってやれ。それではただの説教になってしまう。何より自分からの言葉でリヴァイが行動しても意味が無いのだ。誰かに言われたから会いに来た、ではナマエの心を余計に傷つけるだけだ。

リヴァイが自発的に行動ができ、尚且つこの男を突き動かす事の出来る言葉は、恐らく。



「今では無いにしても…いずれナマエは他の男に奪われるぞ」

「……っ」



今日初めて、リヴァイは真正面からミケと視線を合わせた。それも眉間に皺を寄せ、酷く驚いたような、言ってしまえばリヴァイらしくない顔だ。



「今は傷ついたナマエを、ただただ心配している」

「……」

「本人も気付いてない感情だと思うが…寄り添ってやりたいんだろう、ナマエに」



見て分かった。ナナバの感情を。

きっとナマエどころかナナバ本人ですら気付いていない感情にミケはいち早く察することが出来た。

理由はナナバの見せた表情。ナマエに対する彼の表情は、前に一度似たものを見たことがあった。



「まだナマエとの関係が始まる前のお前と同じような顔をしていた」



思いやった言葉が、彼女に向けて囁かれる声音が、見つめる視線が。

ナナバの見せる仕草、それら全てが昔のリヴァイと酷似していたのだ。



「…どいつの事を言ってやがる」

「言えないな。勘違いするな、俺はお前を応援しているわけじゃない。ナマエを傷つけたのは間違いなくリヴァイ、お前だ」

「……っ」



かと言ってナナバの味方か?と聞かれたらそれも違う。どちらかと言われたら、ミケの中で優先されるのはナマエだ。彼女の味方であり、彼女が本来の姿を取り戻してくれるのなら、相手がリヴァイだろうとナナバだろうと、どちらでも構わない。

しかし、今と問われたら。今ナマエを穏やかに出来るのはどちらなのかと、聞かれたら。



「…俺は遠い未来でナマエの穏やかに笑う姿を見たいんじゃない。今なんだ」



リヴァイが行動せず、ナナバが彼女に寄り添い続ければ、遠い未来でナマエは元の明るくてけれど穏やかな笑顔に戻るだろう。ナナバとの関係が進展していなくても、多くの時間が彼女を癒すだろう。

けれど望むのは、あるかどうかも分からない未来じゃない。この時代に生きる人類は全員、死と隣り合わせなのだから。例外は無くナマエにも約束された未来は無い。

元の穏やかで明るい彼女に戻る前に、傷ついた心を抱えたまま死んでしまう事だって在り得るのだ。いや、そちらの方が可能性が高い。



「俺にも約束された未来は無い…そうなる前に、と思っただけだ」



もしも自分が近い未来死んでしまう事があるならば、せめてナマエを。

そこまで考えるとミケは自分の考えを嘲笑うように小さく鼻を鳴らした。死ぬ時の事を考える等不毛だ、とでも言うように。



「このままで良いと思うなら、そのままそうしていろ」

「…」

「だがその時は、ナマエに訪れる次の幸せの邪魔はするな、一切関わるな」



その相手がナナバだとしても。他の誰かだとしても。

突き刺すように告げるとミケは「話しはそれだけだ」と言い、ソファから立ち上がった。何も言わぬリヴァイに背を向け扉へと歩き出したが、ドアノブに手を掛けた時、ミケは振り返った。



「リヴァイ」

「……」

「お前、ここ数日あまり眠れていないんだろう。隈が酷い」



ナマエに向けて言った言葉をそのままリヴァイにも伝えると、ミケは静かに部屋から去っていった。

分かっていた。ナマエが眠れない理由がリヴァイなのであれば、リヴァイの隈の理由もまたナマエなのだ、という事を。

頼りなく、けれど暖かなナマエ。そんな彼女が少しでも早く、また穏やかに笑う日が来る事を胸の中で祈った。





「……」



部屋に残ったリヴァイの表情は険しいまま。

ミケの言葉が何度も頭の中で反芻する。ナマエの側に誰かがいるという事実。自分ではないその者がナマエを癒して始めている。腹の中がドス黒い熱さを覚えた時、先程の会議で受け取った資料がグシャリと音を立て皺を作った。