高低 | ナノ
「どうして?」
男は微笑んだまま、こてりと首を傾げた。
まるで言っている意味がわからない、とでもいうように。
「犬が飼い主の命令を聞かないなんて道理はないだろう?あの人が俺にカルデアのマスターを殺せと命じた。だから俺はここにいる。
…来い、アヴェンジャー。」
聞き覚えのありすぎる遠吠が聞こえた。
首なしの兵士を背に負うた、復讐の狼。
「ロボ…!それにヘシアンも…!」
「ほんとは灯真ちゃんは殺すなって言われてるけど、うん、うっかり殺しちゃっても『願えば』いいだけだ。」
「…『願う』?」
ハチ、と呼ばれた男の漏らしたつぶやきをマシュが聞き返す。
「この世界じゃみんなそうやってる。
 君だってそうだったじゃないか、灯真ちゃん。
 そもそもは君が■■■■の■■を願ったから始まったんだぜ。」
また、ノイズだ。
同時に、灯真の頭がズキズキと痛み始めた。
光が明滅する。
誰かの、それもよく知った誰かの慟哭が耳の奥で聞こえた気がした。
「灯真さん!!」
ガギィン、と硬い金属の音が目の前から聞こえ、灯真はハッと我に帰る。
金属の擦れる音とともに、灯真の前に回り込んだマシュがその盾で灯真の首を刈り取らんとしていたヘシアンの獲物から彼女を必死に守っている。
「狙いは私たちってよりも、」
「灯真さんを殺すことが優先なんですか。」
「さあて。」
男は、あいも変わらずに微笑むだけだ。
「に、逃げよう、」
灯真の唇から、震える声が漏れた。
「た、戦っちゃダメ、あの人は、強い、」
全員死んじゃう
ふるふると震える灯真の顔は、恐怖ですっかり青ざめている。
「でも、ロボさえなんとかできれば、」
「ダメなの!!」
藤丸の言葉を、灯真は遮った。
その視線は依然としてハチと呼ばれた男に釘付けになっている。
否、蛇に睨まれた蛙のように、そちらから視線を離すことができないでいるのだ。
「ハチさんは、お義父様の腹心の部下なの。あの人は、強い。このSWORD地区で、敵う人がほとんどいないくらい。」
『灯真ちゃんの意見に私も賛成だね。彼、サーヴァントでもないくせに強い魔力反応がある。ありゃもはやバーサーカーだ。』
「あはは、そんなに褒められると照れちゃうな。でもまあ、」
逃がすつもりはないんだけど。
目の前の男が一瞬で消えた、と思った。
「マスター!!」
マシュの悲鳴が聞こえる。
藤丸の青い目がまんまるに見開かれて、上に向いていくのを見ながら、立香もそちらを見上げた。
世界がスローモーションになったように、なにもかもがゆっくりだった。
間近に迫ったグレーの目が、すぅ、っと釣り上がる。
暗転。
立香は何もわからなくなった。

「立香!」
バチ、と何かが爆ぜるような音がして、藤丸の目の前で立香の体がぐらりと揺れる。
「おっと、」
意識を失ったらしい立香を受け止めた男は、出力間違ったかなあ、と未だバチバチと紫電を放つスタンガンを見つめる。
「まあ、いいや。
 このままあんたたちを殺して灯真ちゃんを連れ帰るのは簡単なんだけど、それだと面白くないからさ、俺とちょっと遊んでよ。」
「お前、何を、」
「君らが無事に俺から逃げおおせられたらこのお嬢さんは無傷で返そう。
 逆に君らが逃げられなかったら、俺はこのお嬢さんをぶっ殺す。そんで、君たちは灯真ちゃんをこっちに返す。」
50:50だろ、と肩をすくめる男に、灯真はひどい、と肩を震わせる。
『藤丸くん、心苦しいだろうけど今はとにかく逃げてくれ。
 おい、そこのバーサーカーもどき。
 君は約束は守る方だろうな?』
ダヴィンチちゃんの声に、心外だな、とでも言わんばかりに男は首をかしげる。
「俺は卑怯は嫌いだ。
 んーそうだな。このお嬢さんをしまっておく部屋も用意しなきゃだし、30分ハンデをあげるよ。
 その時間で、隠れるなり逃げるなり、この世界からいなくなるなりすればいい。」
にこにこと笑った男は、ロボの背に意識を失った立香を乗せ、じゃあまたあとでねーとのんきに手を振って。
現れたとき同様にあっという間に姿を消した。


シュー、シューとか細い音がする。
浮上しかけた立香の耳が捉えたのは奇妙な音だった。
あれ、私また変なところでレムレムしたんだろうか。
そんなことを考えながら目を開けて。
目に飛び込んできたのは、つぶらな黒曜の瞳と、ちろりと差し出された二又に別れた細長い舌だった。
とっさに悲鳴を押さえ込んだ自分を褒め称えてやりたい気持ちでいっぱいだ。
蛇はそのつぶらな瞳をキラキラとさせながら、立香に興味津々と言わんばかりにゆっくりと身を乗り出している。
毒がないといいな。
そんなことを思いながら、蛇を刺激しないように立香はそろそろと体を動かす。
「キミコに気に入られたみたいだね、君。」
そんな中で突然声をかけられたものだから、立香の肩が飛び跳ねた。
一人だと思っていた部屋の中には、もう一人別の誰かがいたらしい。
「だ、だれ?」
叫び出さなかったのは、あの過酷な人理修復で培われた精神力のおかげだろうか。
「僕?
 伊賀崎孫兵。この部屋の持ち主。ここは僕の可愛い恋人たちの部屋なんだけど、ハチさんがどうやら面倒臭くなってここに君を突っ込んだみたいだね。」
薄暗がりの部屋にようやく目が慣れると、首元に変わった柄のネクタイを巻いた青年が立香がいる場所とは反対の壁に持たれている。
いや、あれはネクタイじゃない、蛇だ。彼は首に、蛇を巻いている。
「こ、恋人って、」
もしかして、この蛇たちのこと?
相変わらず立香の膝にするすると巻きついて、チロチロ舌を出す蛇を見つめて問えば、そうだよ、と答えが帰ってくる。
「僕が世界中から集めてきた可愛い子たちだ。君の膝に巻きついてるのがアオダイショウのキミコ。この子が僕の一番の恋人のジュンコ。」
名前を呼ばれたからか、もぞりと赤いネクタイもどきが蠢き、チロチロと舌を出す。
「あの、ここはどこか、聞いても?」
「ここはSWORD地区を支配する山狼会の本家。君はハチさんにさらわれてここにきたんだ。」
ハチ。
あの、グレーの目の男。
捕まって、さらわれたのなら何故自分は拘束されていないのだろうか。
これでは逃げてくれ、といってるようなものだ。
「ああ、いっておくけど。」
ここを逃げたらおそらくすぐに君の大事な兄弟やら仲間が殺されるよ。
瞬間強化を足にかけようとしていた手が止まった。
青年は、あいも変わらずに立香には目もくれず、首元の蛇を撫でている。
「あなたは、どうしてここに?」
「僕?そりゃあ僕が山狼会のトップ3の一人だから。
 …なのになんで君になにもしないのかって?
 僕は人間には興味ないんだ。君とその仲間が生きていようが野垂れ死のうが、どうでもいい。」
けど。
「あの人から殺せって命令されてるからね。時と場合によっては面倒だけど君を殺さなくちゃいけないかもしれないね。」
青年の目には、何の感情も写っていない。
そのことに今まで若干の安堵を覚えていた立香は急速に背筋が凍り付くのを感じた。
この人は、本当に私のことなんてどうでもいいのだ。
この人にとって、人間は有象無象の塵芥に過ぎない。
ありありとそんな様子が見て取れる。
藤丸、マシュ、灯真さん、なんとか逃げ延びて。
立香が自分の服の裾をぎゅっと握りしめるのと、ガン、という鈍い音とともに薄暗い部屋の中に光が満ちるのは同時だった。
「君がこの部屋に来るなんて、珍しいね。」
現れたのは、無精髭を生やした赤法被の男。
蛇と孫兵に一瞥をくれたその男は、孫兵からの問いかけに応えることなく、ずんずんと部屋の奥まで歩いてきて、立香の腕を掴んだ。
「来い。」
「ちょ、痛いっ!」
ぎちり、と腕に食い込んだ指は予想外に力がこもっていて、立香は思わず悲鳴を漏らす。
「連れ出すのかい?あんまり感心しないけど。」
「うるせえ。こいつはハチが捕まえてきたんだろ。」
「そうだね。」
「だったら達磨の捕虜(モン)だろ。」
孫兵の無表情が、そのとき初めて崩れ去った。
ぽかんとしたような、あっけにとられたような、その表情に立香は腕を掴まれているというのにあれ、この人意外と顔が幼い、と場違いなことを考えてしまう。
「それは…うん、たしかにそうだけれど、…本気で連れ出すのかい?」
「あぁ゛?
 あの野郎熨斗つけて送りつけてきやがったのはてめえのとこの頭イかれたカシラだろ。
 嬢ちゃん、あんたペット飼ったことあっか。」
「へ?え、えと、」
脳裏にほんの一瞬、カルデアのもふもふ枠がよぎる。
いやまて、エジソンはもふもふ枠の一人だけどペットじゃないぞ、と頭の隅に追いやりながら、あ、あります、と答えればならわかるだろ、と男は不機嫌そうに続ける。
「ペットのやるこたぁ、全部飼い主の責任なんだよ。
 だから嬢ちゃんの身柄は達磨が預かる。
 なんか文句あっか。」
そう言い切った男に、立香はこれはちょっとやばいんでは、と一人視線を彷徨わせる。
正直いって、孫兵の方が逆鱗に触れなければいろいろ過ごしやすそうな人間なのに。
「……オーケイ、飼い主がペットのおもちゃを引き取りに来た、ってことにしておくよ。
 もしかしなくとも、あの子の差し金?
 驚いたな、君は個人的な感情で動きそうにはないと思ってたのに。」
「いくら怠惰な俺でも超えられたらキレるラインはあんだよ、蛇野郎。
 あのサイコパス野郎によろしく言っとけ。」
赤法被の男はそのまま立香の腕をぐいぐいとひっぱり、明るい外へと連れ出した。
人気のない、武家屋敷のような日本家屋の中を男はずんずんと歩いてく。
「あ、の!
 暴れないし逃げないんで離してもらっても?!」
「うるせえ。黙ってろ。
 てめえを無理やり連れてってるように見せかけなきゃならねえんだよ。
 あーめんどくせ。
 何だって俺はこんな面倒自分から抱え込んじまったんだか。」
そのまま腕を引っ張られ続け、中型のバスのような箱型の車に立香は押し込まれた。
「連れて来てやったぞ。」
「すまないな、日向。恩にきる。」
猛スピードで発車する車の後部座席に座っていたのは、灯真がお義姉様、と読んだあの黒衣の女性だった。
「あなた、」
「手荒な真似をしてすまなかった、カルデアのマスター。
 …その様子じゃ、墓は見たようだな。」
移動の暇つぶしだ、少し聞いていけ、と女は煙管をくゆらせ、ふぅ、と紫煙を吐き出した。
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