桃源は見つからぬまま
愛と情熱の国ドレスローザ。その国に生まれながら、私の心にはずっと、燃えるような想いが無かった。
彼に容姿を少しばかり気に入られて愛人の一人になった後もそれは同じで。王宮の片隅に住まい、たまに呼び出されては体を重ね、少しだけ話をして金銭と舶来の物品を与えられる。
そんな日々を過ごすうち、いつしか彼を深く愛するようになったけれど、それはこの国で尊ばれる、すべてを押し流す奔流のような激情ではなかったと思う。それは暖かく、穏やかな……
「ドフィ」
病床の自分を見下ろす、愛しい男を見つめた。
「……死ぬのか、名前」
「死なない人は、いないわ」
私の答えが気に入らなかったのだろう、彼は口をへの字に曲げて黙ってしまったけれど、どうやら立ち去ることはしないようだ。
肺を病に侵されて長い。起き上がって彼の体温に安らぎを求める力はなかった。
「ドフィ」
逡巡の後、彼の体が近付いてベッドが少し揺れる。腰かけた、とすぐには気付けないくらい、もう自分の視界が危ういのだと悟った。
「……なんだ」
「来てくれて、ありがとう」
嬉しいの、とても。微笑みと共に涙が溢れた。彼はやはり何も言わない。構わなかった。
「ドフィ、あと少しだけ……側にいてほしい」
あと少し。彼が付けてくれた医者は何も言わないけれど、自分の命の終わりは何となく分かった。
言葉が勝手に零れる。それを彼に言い残すことが、まるで義務だと言うように。
「ドフィ、『約束の場所』のお話を覚えてる?」
天上の楽園のお伽噺を、いつか枕辺で彼に語って聞かせたことがあった。
「……ああ」
意外ではなかった。彼はいつだってそうだったから。
「見つけたの」
楽園を見つけた。そう言って名前は心底嬉しそうに微笑んだ。
掠れた声だ。ドフラミンゴの耳には、その呼吸に混じったひどい異音がはっきりと聞こえていた。
愛しているのかと自身に問えば、さあなと曖昧な答えが返る。
他の愛人と比べて何か際立ったものがあるわけではなく、劇的な思い出もない。そこにあるのはどうやら柄にもなく穏やかな感情で。それが愛なのか、考えたことはなかった。
寝室に呼ぶのがこの女だけになり、いつからか外出にまで伴うようになっていた、だけで。
「名前。なあ、」
柔らかな丸みを描いていた頬は少し痩せ、艶やかだった髪もその煌めきを失している。それでも穏やかな気性を映す瞳はそのまま。
「なあに、ドフィ」
苦しいだろうに、口を開く度に命が縮まると分かっているだろうに。律儀に返事をするのが名前らしかった。
「おれはお前に、もう喋らなくていいなんて言わねえぞ」
そんな無欲で優しい男になる気はない。側にいて欲しいなら、と脅すように続けた。
「話せよ。すべて、寄越せ」
────おれがお前を殺してやる。
嬉しい、と女はまた笑った。
開かれた唇はいつかおれが好みだと言ったルージュで彩られている。静かに紡がれる言葉が、零れ落ちる白砂のように広がっていく。
「私たちは色んな物を得て、失って、生きて、死んでいくわ。最初と最後が、命ね。失うたびに、ねえ、ドフィ……とても、悲しい思いをしたわね」
過ったのは血を分けた弟に打ち込んだ弾丸の軌跡と、残酷なほど軽い引き金の感触。弱音を吐いたことも過去を話したことも無かったが、不思議と心に驚きはなかった。
「失われない、変わらないものなんて、ないの。……どこにも、ない」
探したけれど、とおれを見つめたまま浮かんだ憂いの表情に耐えられず、女の体を抱きしめる。
「おれが憎いだろう」
随分細くなったと驚いて、どうしておれの部屋にずっと置いてやらなかったのかと遣る瀬ない思いに襲われた。
思わなかったのだ。治らない、など。
「いいえ、ドフィ」
言ったでしょう。
「私、楽園を見つけたのよ」
渇いた大地を潤す慈雨のように穏やかな声。表情を見たいと思うけれど、掻き抱いた体を離すことが出来なかった。
「そんなに珍しいものじゃないの。変わらないものでも、きっと、ないわ。……あなたが好きなの」
────愛しているのよ。
伝えたくて仕方がないと言うように耳元で囁かれた言葉は馬鹿みたいに優しい。
「最後の旅には何も持っていけない、なんて……馬鹿みたいだって気付いたの。命の終わりって、何も……特別なものじゃないのよ」
う、と咳き込んだ名前の背中をさすってやると、きゅっと抱き付かれた。たとえおれが医者を呼ぶかと言っても、きっといらないと言うんだろう。
おれの顔を仰ぎ見るようにして名前が笑う。支えていなければ、もう首を保つことも出来ないようだった。
「ただ、変わらなくなる、だけなの。だからね、あなたへの愛を、私、最後まで。……永遠に、抱いていられるわ」
凄絶なほど穏やかな笑み。さっき名前の喉を駆け上った血はルージュに隠され、そのかんばせを汚しはしなかった。
「愛は、変わっていくもの。もしかしたら、いつか……失われる日が来たのかもしれない。でも、まだその日は来てないわ。だから、」
楽園にいるのよ。
その言葉を再度唇に乗せた直後、名前の腕は力をなくした。
「名前っ!」
声を荒げれば、辛うじて開かれた瞳と目が合う。
焦点が合っていない。
もしかすると、もうほとんど見えていないのかもしれなかった。
「願いを言ってみろ」
思ったよりも冷静な声が出た、ように思う。冷酷には聞こえなかっただろうかと心配する自分に気付いて愕然とした。この想い、は。
「……ド、フィ」
「ああ、……なんだっ、言え!」
沈黙は耐え難い焦燥を生んだ。名前が視線を彷徨わせる。おれを、探しているのか。
「……ここにいる」
ぽろり、と名前はまた涙を流した。
「嬉し、い……ドフィ……夢、みたい」
途切れがちな声は、それでも幸せを湛えている。
「願いを、言え」
懇願だった。言葉に応えて唇が開かれる。
「愛して、る、って……言って。ドフィ……」
それが名前の最後の言葉だった。
「…………愛してる」
────愛してる、愛してる、愛してる!
────おれはとうに、名前、お前を愛してた。
名前はおれの言葉を聞いてから逝っただろうか。分からない。ただ、名前の幸せを疑う気はしなくて。
だからその死がおれに、弟の時のような類の痛みを与えることはなかった。
ある日、彼はふと空を見上げた。王宮の窓は広く、彼が雲の切れ間に彩光を探すのを邪魔しない。
約束の地、楽園には至れぬまま。日々は過ぎていく。現世の無常を嘆くことはしない。
「……おれも、まだ。お前を愛してるぜ……名前」
だから何も恐れることはなかった。
終わりの瞬間も、その先にあるかもしれない世界のことも。
いつか訪れるその時に、きっとお前を想うから。
探し続けた桃源郷
――きみを想ったあの日あの場所――
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BGM:“三寸天堂”嚴藝丹
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