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マグカップで繋ぐバルコニー


今朝は寝坊をしたらしく、ブルーベリーの葉には朝露が流されないまま載っていた。
三つの鉢植えはどれも少し乾いて、昨日遅くに帰ってきた隣人がやはり朝の水遣りを怠ったことを示している。

「眠ィ……仕方ねェな」

そういうおれはたった今起きたところなのだが、それはそれとして良い朝だ。ボロアパートの小さなバルコニーであくびをした。
取り出しかけた葉巻をしまう。少し身を乗り出して隣のバルコニーにぶら下げられたじょうろを回収し、のっそりと洗面所へ向かった。

隣人、名前が隣に越してきて、もうすぐ二年になる。
「こんにちは」「おう」なんて最低限の会話から始まった隣人との会話も最近はこなれて、「職場で貰ったんだけど、いる?」「おー、貰うわ。ありがとな」といった具合にまで『進歩』した。まだ戸を叩いたことはないが、バルコニーがあれば十分だ。

おれ達の関係の変化に進歩とかいう言葉を最初に使ったのはカクだった。
どうやら酒場で酔った時、おれは彼女が分けてくれたラザーニャ・アッラ・ボロネーゼが美味かったことを口走ったらしく、以来奴らは事あるごとに名前とのことを聞いてくる。
「何もねェよ」と答えたのは真実ではあっても少しよそよそしい感じがして、本当は「ダチだ」と言い直したかったが、邪推されることは目に見えていたので、言わなかった。

「進歩、進歩なあ」

顔を洗い、歯を磨いて、無駄にちゃんとした造りのじょうろに水が溜まっていくのを眺める。
持ちやすいな、これ。構造のバランスが良いんだろう。仕事のつもりで真面目に見れば、細部の処理もきちんとされていた。つまりこの小さなじょうろはそれなりに良い値段がする。

「どこに金かけてんだ」

別にガーデニングに熱中している訳でもないだろうに。パセリ、バジル、ブルーベリー。観賞用の庭というよりは、食料畑である。
もしかしたら彼女は、金遣いが下手な人間なのかもしれない。
そういえば前に「なぜか貯金が増えない」とかぼやいてたな。原因これかよ。

「教えてやるか」

ちゃんと貯めて良いアパートを探すように言ってやらねェと。なにせ男ばっかのボロアパートだ。カクは「このアパートに女は呼べんのう」と首を振っていた。まったくもってハレンチな野郎だが、つまりここは女にとって幸せな場所ではないのだ。
それなりに気に入ってるんだがなあ。
……名前もそう思ってるんなら、余計なお世話なんじゃねェか?女の気持ちは分からねェが、あいつはダチだし……

コトリ。

「……あ」

水を入れ過ぎたじょうろが小さすぎる洗面ボールの不安定さにバランスを失って傾ぎ、ノズルが床に水を注いだ。


水路を挟んで立ち並ぶアパートはどれもボロいが悪くない。アクアラグナに耐える家をと、何十年か前の大工が気合を入れたんだろう。

「パーウーリー!あのかっこいい船、もう出来たー!?」
「まだだー!」

向かいの窓で、いつもの坊主が手を振った。将来有望な船好きだ。

「進水式、決まったら教えてー!」
「おう!」

機嫌良く笑って手を振り返すと、「服着た方がいいよー!」と言い逃げされた。下は履いてるっつの。人をヘンタイみたいに言うんじゃねェよ。
ちょうど真下を通った水上屋台でいつものオヤジが笑ったので、少しじょうろを傾けてやった。おかみさんに笑われちまえ。

「ったく」

お世辞にも上等とは言えないこの小さなアパートの唯一の美点が、このバルコニーだ。
バルコニーがある、ということ自体もそうだが(葉巻を吸うなら室内より外が好きだ)、おれの前に住んでた奴が手すりへ勝手に施したらしい彫刻が、なかなか良い出来なのだ。

「このレベルなら、絶対名前くらい聞いたことあると思うんだけどなァ」

はー、と息を吐いて石の柱を撫でる。
大家のオヤジめ。家賃を一年滞納しなかったら前の住人の名前を教えてやるとか何とか、出し惜しみやがって。これほどの腕なら案外、ガレーラの彫刻師だったりするのかもしれない。
彫刻は支柱の一本一本にぐるりと施されていて、顔を上げれば水路からも十分見えるのだが、今のところそんな素振りを見せた者はいなかった。水路からおれに声をかける者すら気付かないのだから、人の目なんてあてにならないものだ。

「いいけどよ」

わざわざ顔を上げて探さなくとも、おれたちの町は美しい物で満ちている。そういうことだろう。

とは言っても、この彫刻は当然この部屋以外にはないので、おれが気にしていないだけで、このボロアパートには他にも何か良いところがあるということになる。そこそこ部屋は埋まっているようだし。
築数十年、床は軋み、ヤガラを停めておくための水路だって、他と比べれば遠い。眺めは悪くないが、このウォーターセブンで「眺めが悪い」と言い切れる場所なんて、それこそ数えるほどだろう。……良いところ、あるか?
ま、鼠は出ない。他に何がある?人によっちゃ職場や行きつけの店に近いとか、そういうこともあるだろうが。

「……そういや知らねェな」

名前のことだ。仕事仲間や幼馴染たちと同じように思っているのに、好物や酒癖はおろか、仕事場も知らない。どこかのレストランの厨房係らしいが。

「っと、」

どうもまだ目が覚めてなかったらしい。水に浮いた土が鉢植えから流れ出る直前に腕を引いた。
始業時刻にはまだ少しあるが、そろそろ出ないと借金取りが集まり始める時間だ。とっとと行くかとシャツを掴んだ。


「やっと行ったか……」

解放感に浮かれながら食料品の店が立ち並ぶ通りをひやかしていたら、ふいに名前が視界の端から現れた。

「わ、パウリー」
「おう! 買い物はもう終わったのか?」
「あれ? パウリーもいた?」
「いや、借金取りから隠れてた」

辺りをうろつく借金取りたちにその場から動くことも出来ず、八百屋の客を延々と見る羽目になったのだ。

「しつこい奴らだ」と右肩をまわしていたら、「またなの」と笑ってくる。「お前だって同じようなもんだろ」と抵抗して「借金はないよ」と言い負かされたのは数か月前の苦い思い出だ。

「向こうも仕事だからね、そりゃあしつこくもなるって」
「チッ……分かってるよ」

仕事だからこそ、日没近くまで待てば、こうして気楽に歩くことも出来るのだ。

「帰ったらさ、バルコニーで煙草でも吸っててよ」
「なんかくれんのか?」
「ふふ、いい反応するね。コーヒー淹れようかなと思って。どうかな?」
「へえ。コーヒー好きなのか?」
「実はね」
「そりゃ楽しみだ」

バカ舌じゃねェけど気の利いた感想は言えねェぞと予防線を張ったら、彼女はいいよそんなのと笑った。
ふと横切った夕刊担当のニュースクーに会話が途切れた時、職場を聞こうかと思ったが、やめておく。「進歩」。進んだ先に何があるかなんて、分からないものだ。

「じゃあ今度、パスタでも作ってやるよ」
「え?料理出来るの?」
「簡単なのならな」

この町に生まれたなら、どんな立場の子供でも最低限の料理は教わるものだ。

「バルコニーに受け取り箱とか作ってもいいかもね」
「ん?」
「おすそ分けしたくても時間とか、合わなかったりするからさ。お皿が入るくらいの」
「……それ、いいな」

進歩でも、停滞でもない。名前の提案はとても魅力的に思えた。

「明日にでも廃材貰って来るわ」
「作ってくれるの?」
「一番安上りだろ」

既製品を買うよりずっと、美しく仕上げる自信もある。
あの彫刻と同じくらい、良いものを作ってやろう。次の住人ではなく、彼女のために。


バルコニーでおざなりなガーデニングをする隣人、名前はいい奴だ。
勤め先も趣味もまだ知らないが、時々美味い料理を貰ってきては分けてくれて、よく笑って、変な遠慮をしない。
コーヒーが好きで、食器選びの趣味が良い。
そういう奴だ。
受け取ったコーヒーのマグは男が持つには華やかで華奢なデザインをしていたが、不思議と手に馴染んだ。
やはり見る目は確からしい。これが貯金失敗の一因であることも確かだが。

「……美味いな」

進むでも、停滞するでもなく。
深く、染み入るように。
ずっとこのままでいたいと呟く心はまだ、この感情に名前を付けない。

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