小説 | ナノ

夏と麦茶ときゅうりとスイカ


畳に寝転び空を見る。
縁側に垂らした簾越しの抜けるような青空。入道雲が流れていく。
────リン。
風鈴の音。やっとだ、と涼風を待つ。

「……ありゃ」

夏の装いの家屋を通り抜けた風に、望んだほどの勢いはなかった。
掬い取られたわずかな熱も、あっという間にまた戻る。汗ばみ、畳との間に熱が籠る感覚。

「暑いなあ」

でも悪くはない。
家具のほとんどが、連絡船もない島々へ出向いて求めた品だ。趣味に合わないものは一つもないし、突然甲高い声で歌い出したりもしない。
旅の途中で見かけた部屋を再現するのは時間も手間もかかったが、その分大きな達成感があった。
……また何か、熱中できることを探さないと。

ふう、と木目の綺麗な天井に向けて息を吐く。目を閉じるとまだ新しい畳の香りが意識にのぼった。一番好きな香りだ。一番?
あの人のにおいは何番目だろう。畳の香りの地位が揺らぐ。もうずっと会っていない人を思い出して、ころんと横を向いてみた。
簾が揺れて風鈴が鳴る。

「あー……暑い」

風が今度こそ強く吹き抜ける。だけど記憶の中の甘い香りは留まって、どこにも行ってはくれなかった。



カタクリ様の艦隊を脱走して三年になる。
兄妹のような心地良い関係。彼との距離をそう表現できなくなったのは何歳の時だったか。

彼のために死んだ直属の部下の遺児。もしくはそこそこ使える若い部下。彼から見た私の立場はそんなものだ。
多少甘やかされてはいたし、調子に乗っていたことも認める。けれどそれ以上の立場をねだることなんて、冗談でもできなかった。
だから逃げ出したのだ。
ほしいものが手に入らないことに耐えられないなんて、我ながら海賊らしい。カタクリ様の教育の賜物だ。脱走したけど。

「……暑い」

井戸まで行けばきゅうりが冷えている。好物のためでも身を起こす気にはなれなくて、ころりと転がり目蓋を下ろした。




『はー、暑い。きゅうり齧りてー…』
『うるせェ」
『!?」

船室の木椅子へぐったりと体を預けて、十五分くらいか。
三又槍『土竜』の手入れに没頭する直属の上司はポケットを探ったかと思うと、ノールックでジェリービーンズをこちらに弾いた。服の衿に穴が開く。

『首を……狙いましたね……?』
『よく避けた』
『退職したい』
『……来る者は拒まず』
『去る者は殺すってね! はあ…』

遠征の道のりはまだ半ば、夏島に錨を下ろして半日。
一番豪華で涼しい船室、すなわち船の主の部屋でさえこの暑さだ。自室に帰ったら死ぬのではないかと思う。
年中お菓子に優しい気候のトットランドに厳しい夏は来ない。だから、こんな暑さに出会ったのは久しぶりだった。前回夏島を経由した遠征は二年前だったか。

あの時の私にはまだ、カタクリ様の船への乗船を許されるほどの力がなかった。だから正式な乗組員ではなく、詳しくは知らないが、多分カタクリ様のお付きのような立場だったのではないかと思う。
だったのではないか、なんて曖昧な認識しか持てていないのは、お付きの仕事なんてさっぱりしていなかったからだ。
ただただ大好きな『カタクリ兄さん』と遠出できることが嬉しくて、その足元を走り回っていた記憶しかない。ああ本当に、

『若さって怖い』
『ガキが何を言ってやがる』
『えへへ』

もう子供じゃないですよ、とは言わない。カタクリ様が私を船室に入れてくれるのは相手が「ガキ」だからだ。

『野菜なんぞ齧って何が楽しい』
『きゅうりは真夏の風物詩ですよ』
『妙な嘘を吐くんじゃねェ。……アイスクリーム、そうでなきゃスイカか葡萄だろう』

確かにそうだ。でもカタクリ様は知らないんだ。

『密かに野菜を愛する地下組織があるんです』
『フフ……弾圧だな』
『だから隠れてるんじゃないですか』
『お前が言ってるのはジェラート用の野菜を扱う店のことだろう。お前が出入りしていたのは知っている』

ふざけやがって。土竜から少しだけ視線を上げたカタクリ様は叱るようにそう言って、小さく笑った。
ちょっと、悪質な嘘を吐いてみようか。

『あの野菜屋さんがトットランドから逃げたい人たちの集まりだって言ったら、信じます?』
『……名前』
『甘いものに飽きた人にトットランド住まいは……』

最後まで言うことは出来なかった。僅かに鋭さを宿した視線が私の体を硬直させる。
経験から、自分が度を越えた悪戯をしてしまったのだと分かった。

『名前。……あれはお前の父親も関わってた店だ。冗談でもそんなことは言うな。もし、おれがそれを本気にしたらどうするつもりだ』

土竜が脇に置かれる。手招きに従ってカタクリ様の隣へ座った。真剣な瞳。
私はとても、嫌な気持ちになった。

『おれの近くで育ったお前にはまだ分からねェだろうが、ウチで生きる以上、いつかは理解しなきゃならねェ』
『……カタクリ様の立場とか?』
『あァ、そうだ』

らしくない。この人はこんな世話焼きな性質ではないのに。
────死んだ部下の代わりに父親の役目を、って?
冗談じゃない。そんな年の差でもない。彼を父親だと思ったことはなかった。

『結婚話があるってほんとですか』

一番手近にあったものを投げるみたいに、そんなことを口にする。
またそんな噂が流れているのか。そう言って眉間の皺を深くするカタクリ様を私ははっきりと想像できた。けど、そうはならなかった。

『あァ』

言わなきゃよかった。言わなきゃよかった! 息を詰めた馬鹿な私を、カタクリ様はじっと見ていた。

『言いたいことがあるなら言え』
『お幸せ、に』
『……。もう出てけ』

世界一不幸になってしまえばいい。なんて咄嗟に思うほど性格が悪くはなかったので、私はただ俯き、心にもない言葉をなんとか吐き出した。
その日の内に、遠くの島へ向かう連絡船へ紛れ込んで艦隊を離れた。



────カラン。
音を立てたのは氷をグラスいっぱいに入れた濃いめの麦茶。
うん、まあまあ幸せだ。失恋からの逃避はそれなりの成功を収めていた。
仰向けのままぱたりと腕を放り出せば、まだ温んでいない、ひんやりとした畳に魅了された。
ころりころり。一畳隣の新天地は最高だ。三十秒ほどのことだが。

「…あれ」

蝉の声がしない。



顔に掛かる蔦を切り捨てながら道を進んだ。
道は一応、木の枝や蔦が通行の邪魔をしないようトンネル状に整えられているのだが、ここは住人も少ない島の辺境。トンネルの高さは女一人の身長にしか配慮されていない。

(本当にこんな所にいるのか)

あの馬鹿は。ふつふつと湧いてきた怒りに任せて前方に掛かった枝をバキバキへし折る。森の生物が脱兎のごとく逃げ出す気配を感じた。
三年前、突然姿を消した名前。あいつは昔から隠れ鬼が上手かった。

森は突然途切れ、井戸の向こうに見慣れない造りの一軒家が見えた。乾いた植物の茎か何かで編まれたカーテンのようなものが、家の中を隠すように揺れている。
足元の井戸を何となく覗くとクソ忌々しい最後の記憶の象徴、きゅうりが竹籠に入って沈められていた。鮮やかな緑色。無駄につやつやしている。
安穏とした生活の空気が腹立たしくて、とりあえず井戸をモチで塞いでやった。まどろんだ気配を睨み下ろして、息を吸う。

「────名前!!」


びりびりと夏の大気を震わせた、懐かしい声に跳ね起きた。
隠す気のない気配は数百メートル先から丸わかりで、だからこそ数分前から自分は明晰夢でも見ているんだなと思いこんでいたのだけれど、その叱声で実感する。
ざ、という音と共に眩い光が襲い来る。
縁側を覆う簾は二枚一緒に吹き飛んで、視界から消えた。
さっきまで簾越しにうっすらと見えていた存在と目が合う。不穏な音が縁側から聞こえた瞬間にはのしかかられていて、唇に、

「…!? ん、んん! う、あ」

唇が押し当てられたかと思うとすぐに熱い何かが割り込んできた。性急な……キスだ、と理解して瞠目すると、彼の長い睫毛がぼんやり見える。
長年カタクリ様の周りをくるくる付きまとっていたが、口元を見たのは初めてだ。
突飛な行動から逃避する頭の片隅で、こんな風になってたのか、と驚き目に焼き付けようとする現金な自分が顔を覗かせている。絶えず触れる牙は鋭かったが、私を傷つけはしなかった。
最初はカタクリ様の気の迷いか何かだなと弁えていた私の心が、それを彼の狂おしい感情の発露だとしか思えなくなるまで、キスは続いた。

「っは、」
「……」
「名前」
「……」
「寝てんじゃねェ!」
「…む…無茶な…」

どれだけ肺活量が違うと思うのだ。
押し倒された状態のまま怒鳴られ、肩を揺さぶられる。息を整えようと試みつつ、なんとか目を合わせた。

「おれが出て行けと言ったからか」

何のことだろう。そう言えばあの日の最後にそんなことを言われたんだったか。正直辛すぎてあの時の記憶はそのほとんどが消去済みだ。

「いいえ。……私を始末しに来たんですか?」

それならとっととやってほしい。好きな人に嬲られるなんて最悪だ。

「違う」
「じゃあなんでキスしたんです」

ふい、と視線が逃げる。

「……顔が赤い、ですよー……?」

ぼ、と顔を赤くしたカタクリ様に殺気のないのを良いことに、恐る恐る戯れかけてみる。ちら、とこちらを見た彼は一言、お前もだと呟いた。
お互い、およそ経験したことのない性質の沈黙が落ちる。

「麦茶……飲みます?」
「……あァ」

そそくさと彼の体の下から這い出て台所へ行こうと立ちかけると、硬い手に引き留められた。色んな考えが溢れて振り返れずにいると、そのまま声が続く。

「おれは、結婚してねェからな」
「え、」
「スイカも冷やせ。きゅうりだけじゃなく」
「は、い」

ゆっくりと紡がれる言葉にはどこか縋るような響きがあった、ような気がした。自分の顔がどれくらい真っ赤になっているのか、鏡を見なくても分かる。カタクリ様の腕だって、さっきより、もっと。

「時々来る」
「あ、あの」
「嫌だと言ったら連れて帰るぞ」
「……は、畑でスイカ、作りますね。……たくさん」

風鈴が鳴る。
麦茶のグラスが結露して、ついと水滴が流れ落ちた。

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