むかえに きた!
ぴら、と鼻先に降ってきた紙切れ。考えるより先に声が零れる。
「ロシ―?」
私は呆然と身を起こした。なのに、寝室に人影は見つからない。また夢を見たのだ。重い澱みが帰ってきて、思わず顔を両手で覆う。
────頬に、紙の触れる感触。心臓が跳ねた。お世辞にも上手いとはいえない文字が、小さな紙片に書き付けられて、間違いなく、ここにある。
「ロシ―」
枕元にあった手燭を掲げる。外はひどい雨だ。
「ロシー!」
雷と、泣き叫ぶ誰かの声が聞こえる。あの日の私の声だ。行かないでと言ったのに。彼は帰ってこなかった。
ベッドサイドの燭台が浮き上がる。風もないのに揺れる炎を、私は呆然と見上げた。
燭台が宙をただよう。
いつか二人で見上げた花火を巻き戻すようにひゅうと落ちたオレンジが、視界の底、ベッドの上で、ぱっと広がった。
.
「ただいま。聞いたよ、名前さん、まだ病院なんだって? 大丈夫なのかい」
「それが……」
火は通りがかった郵便配達人によって消し止められ、焼けたのはベッドの一部に留まった。
本人もすぐに助けられて、火傷は首に一ヶ所、たとえるならフライパンが指先を軽く掠った程度。跡も残らないはずだ。
そう医師が言うのを、Aは名前の隣で聞いていた。
「だからね、無事のはずなの。でも……」
Aがそう言ったきり黙り込んでしまったので、Bは荷物を置いてAをソファへ促した。
どんな問題が起きた? 考えたが、見当がつかない。頼りのAはまだ核心を言い淀んでいる。
「もしかして名前さんが言わないでって言ったのかな。それなら、」
「いいえ、……違うの」
目を伏せたAはBの婚約者だ。愛しい人の動揺した様子に、Bは心を痛めた。彼女の前にしゃがみ、手を握って訊ねる。
「彼のことかい?」
堰を切ったようにAの頬を涙が伝った。
「そう、そうよ! なんてこと……」
AはBの胸で泣いたあと、鞄から古びた紙片を取り出した。
薄く黄変したその古紙は、一部が煤で汚れている。火事で燃えてしまった、『彼』の形見の一部だろうか。
Aほど親しくはないとはいえ、Bもまた名前とは旧知の仲だ。幼馴染への同情を表そうとしたBはしかし、硬直する。
『むかえに きた!』
数年前に死んだ男の字。一度だけ見る機会があった、彼の筆跡。それが今、Bの婚約者の手にあった。
「名前は炎を前にしても逃げないで、この書き付けを握りしめていたそうよ。まるで何かに捕まったみたいに、動けずに……。
病院で郵便屋さんに聞いたの。ええ、彼が名前を助けたの。
それで私、名前にとって、これがとても良くないものに思えて……咄嗟に……」
「僕でもきっとそうしたさ。今は名前さんの話を聞くべきじゃないかな。病室に一人かい?」
「ええ。そう思うわ。一緒に来てくれる?」
「勿論だ。でも本当に、」
一体何が……
……
.
病室に着く前に、二人は困惑顔の看護師に呼び止められた。
「名字さんの姿が見えなくて」
Aは瞠目した。繋いだ手に力を込める。
脳裏を過ぎった恐ろしい考えには、震えるほどの現実味があった。
名前と心から愛し合っていたという、名も知らない彼。
もうすぐ日が落ちる。
連れて行こうとしてるんじゃ、ないよね。
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