▼  萌芽






(1180年/大樹の節)






振り返った彼女の髪と制服の裾が靡いた。目が合う。
微かにざわめいた気がして、鼓動の無い胸に手を当てた。名を呼ぶために、息を吸う。





――――――




フォドラの中央に位置するガルグ=マクは山領であり、大樹の節は春先の暦であっても未だ冬の名残りを感じさせる。寒冷な北西から訪れた者たちにとっては快適な一方で、温暖な東南から訪れた者たちはその肌寒さに身を竦める。タロム港を包する町長の娘、レイネ=ヴァステンリユクもまたその一人であった。

「っくしゅ!」

高所の風は一層強く、冷たい。レイネは冷えた指先をさすって学生寮の屋根上から眼下を見下ろした。
生徒は思い思いの場所に散っており、それぞれの時間を過ごしている。と言っても、話題は大方「次期皇帝/国王/盟主の危機を助けた凄腕の傭兵」のようだった。

三寮合同合宿と称して企画されていた課題は、先んじて現地に到着していた級長三人を含む学校関係者が山賊に襲撃されるという予想外の事態により中止となった。
三国の次期頂点が一同に会する場を収めるという重責、重ねて山賊の襲撃に耐えられなくなり行方をくらませた教師が居たことからも、入学直後の課題とするには教師たちにとって胃が痛かったことだろう。

――そんな国の要人を救った人物とあれば、入学間もない生徒たちにとっては仲を深めるこれ以上無い会話になる。

やれ熊のような巨漢だっただの、顔に大きな傷があっただの、的確な指示を出す青年だっただの、もはや本来の情報の痕跡があるかも疑わしい。
レイネは根も葉もない噂話に付き合うことに疲れて、誰も来ない屋根の上でひとり空を仰ぐ。

だから自分を探して回っていた新任教師の気配など、欠片も気付くことはなかったのだ。




―――




コン、と硬質な靴の音が背後からしてレイネは振り返る。同時に横風が髪を攫おうとし、また背後の何者かの外套もはためいた。
無感情の瞳と視線が繋がる。青年だった。年頃は生徒と変わらないか、少し上。黒を基調とした鎧から学校関係者ではないことが分かる。

「レイネ」

名を呼ばれて首を傾ぐ。さて、知り合いに居ただろうか。
レイネの交友範囲は狭い。彼女自身が意図的に浅く狭く人と付き合っているせいだ。ゆえに人の名前と顔を忘れることは滅多に無い。
視線は繋がったまま。青年の表情がぴくりとも変わらないので、レイネは気まずさを覚え始める。なぜじっと見つめてくるのか。

「ええと……ご用は」
「覚えていない?」
「……すみません、どこかでお会いしました?お名前は」
「ベレト」

……ベレト。どこか聞き馴染みのある響きだ。そして寡黙な出で立ちに引っかかるものがある。

「昔、髪を梳かしてもらった」
「あ…ああー!あの時の!傭兵の!」

駄目押しの一言を受け取ればなるほど、無機質な瞳と深緑の髪色はいつか出会った少年の面影がある。

「ごめん、久しぶりだから気づかなかったよ。もしかして入学するの?」

質問は左右に否定される。

「そっか。あなたのお父さんも一緒?」
「ああ」
「相変わらずあちこち転々としてるんだね」

今度の質問には返事はなく、やはりレイネをじっと見つめるだけだった。

「しばらくの間になるのかな。よろしくね」





―――











「いやあ、しっかしあの傭兵が青獅子学級の教師になるとはなあ」

宛先の無い大きな独り言めいた問い掛け。その内容に引っ掛かるものを覚えてレイネはクロードを見上げた。
次期盟主という肩書きに肩をこわばらせる時期もあったものの、クロードの胡乱ながらも快活な人柄はすぐに学級に馴染んだ。

「あの傭兵?」
「そ。俺たちを助けた、あの傭兵。お前も会ったろ?着任前に生徒に挨拶して回ってたみたいだから」
「父親の方ではなく?」
「ああ。そっちは空いてる騎士団長の席に座るらしい。教師になるのはその息子の方だってよ」
「ベレトが教師……?や、確かに教師は一人逃げたって話だけど……」
「もしかして知り合いか?」
「ええ、まあ。でも子供の頃に父の紹介で一度会ったきりだったから」
「知り合いねえ。向こうはそう思ってないかもしれないぜ?」
「確かにあの淡白な性格じゃ、知り合いと認識されてるかどうかも怪しいかも」

後ろ向きに話をつなげたレイネの態度は嘘や謙遜を言っているようには見えず、クロードはおやと片眉を上げた。
件の新人教師に金鹿学級で気になる人間が居るかと訊ねた際、彼がややあって最初にレイネの名を上げた事はクロードの記憶に新しい。
あの無感情を人の型に嵌めたような傭兵の記憶に残り、僅かでも興味を引いていることの希少性に本人は全く気づいていないのだ。本当にたった一度会っただけなのだろうか?それとも、相当鮮烈な出会いだったのか。

クロードは隠すように当てた指の下で口角を上げる。
これは事と次第によっては――面白くなるかもしれない。

「あー、クロードくんが悪い顔してるー」

ヒルダの目ざとさを受けて諸手を上げる。

「悪い顔とは心外だな。なんたって俺は学生の本分を楽しもうとしてるだけだ」
「本当かなー」
「ああ本当だとも。楽しまなくちゃな。なあレイネ?」

飛ばしたウィンクの先。レイネはきょとんと瞬いたあとに柔らかく笑った。

「そうだね。せっかくの学園生活だもの」

突如帰還した伝説の傭兵。大司教から異例の大抜擢を受けたその息子。フォドラの未来を担う次期当主が揃った三学級。
何かが起こる――何も起こらないわけがない。いや、既に始まっている。

「さーて、これからどうなるかね」

ガルク=マクに在籍するこれからの一年間で大きく未来が変わる。確信に則って、クロードは未来を計算し始めた。勝算はある。重要な手札となり得る存在はひとり、目の前にいる。