08

そこはひどく暗く、寒いところだった。
息をすれば肺さえ凍ってしまいそうな、寂しくて恐ろしい場所だった。
一歩先すら見えない暗闇の中、肌を刺すような空気だけが全身を襲ってきて、怖くて痛くて、少しも動くことができなかった。
この世にはもう、自分に声を掛けてくれるものなどいないと諦めていた。
当たり前だ、もう一歩も進むことができない自分を一体誰が振り返ってくれるのだ。
ならばずっと、このまま、誰に気付かれることなく、小さく息を潜めて存在を消してしまおうと蹲っていた。
そうして、ずっと闇の中に身を沈めていた時だ。
空を仰ぐと、静かに浮かんでいる月に気付いた。
確かにずっとそこにいたはずなのに、暗闇しか見えてなくて、その時にやっと月の存在を認めたのだ。
途端、その月の輝きが眩しくなって、暗闇に沈めていた体を照らしだす。
再び、できない自分の姿がはっきりと輪郭を見せて「嫌だ、やめてくれ」と叫んだが、纏った闇を光に溶かされ、何も纏っていない姿になって改めて自分の形を知った。
そして、穏やかな月に照らされて思い出す。
……ああ、そう言えば自分はこんな形だった。
いつからか、色んなものが付き纏って、自分の形をすっかり忘れてしまっていた。
見上げれば、月は微笑んでいた。
怖いものだと隠れるようにしていたというのに、そこに浮かぶ月はずっと自分を見守って、微笑みかけていた。
あの空は自分を見張っているのだと勝手に思い込んで、気付こうとしなかっただけで、本当はずっと微笑んでくれていたというのに。
眩しい月へと手を伸ばす。
白銀の光は指の隙間から零れ、何も纏っていない審神者を優しく包み込んだ。
触れて初めて、その光がとてもあたたかいことを知り、審神者は涙を流した。


「――…………」
暗く、寒いところから目を覚ましたようだった。
それでも指先があたたかいのは、髭切が手を握ってくれていたからだろう。
カーテンの隙間から差し込む朝日に薄っすらと目を開けると、すぐそばで眠る髭切がいて、審神者は静かに息を吐く。
安堵にも似た一息のあと、髭切が同じベッドで横になっているのを見て、ずっと手を握ってくれていたことを知った。
「……おはよう」
濃く長い睫毛が伏せられた綺麗な顔を眺めていると、その睫毛が持ち上がり、深い梔子色を見せて三日月を描いた。
長い睫毛に縁取られた梔子色の目が、審神者を視界に入れて瞳孔を収縮させたのを見て慌てて返した。
「おっ……、おはよう……」
反射で返すと、握られた手に僅かに力が加わり、審神者は焦ってそこから手を引き抜いてしまった。
なんだかとても恥ずかしいことをしていたような気がして、誤魔化すようにして目元を拭いながら体を起こす。
(……あ、れ…………)
すると、起こした体がやけに軽いように思えた。
ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、ずっと靄がかかったような頭もすっきりしている気がして、何でもない部屋が新鮮に見えてくる。
景色がいつもよりワントーン明るく見えるような、目に映るものの輪郭がやけにはっきりとしていた。
世界はこんなにも明るかったのかと見渡していると、その視界の端に黒いものが映り込んだ。
視界を掠めた瞬間、目が合ったかのように小さな光が点滅した。
そしてそれを視界に入れて審神者はベッドから足をおろした。
端末が光っていた。
寝起きも手伝い、ふらふらの体でそれが置かれているテーブルの元へ行くと、一定の感覚でライトを点滅させ、何かの通知を知らせていた。
(青の点滅……、確か、これは…………)
点滅するライトにつられ、端末に手を伸ばした時だ。
「……大丈夫かい?」
端末に触れた手の上から、ふらつく体を支えるようにして別の手が重なる。
「これは、君にとって毒かもしれないよ」
確認するように、審神者の目をじっと見詰めながら髭切が言った。
真っ直ぐと見詰められる双眸からまた心を探られている気がして怯えかけたが、……違う、そうじゃないと飲み込んで審神者は端末を胸に抱えながら振り返った。
喉が、張り付く。声が震えそうだ。
――……それでも、私は……。
「……毒、じゃない。ちゃんと、目的を持って使えば、これは、毒じゃない、…………はず……」
「………………」
手にした端末が、以前よりも比べ物にならないくらい軽く思えて驚いた。審神者は落としてしまわないよう、端末を強く抱きながら髭切を見上げた。
見失った目的を見付けた今、自身にも言い聞かせるように答えると、見下ろす髭切が「へえ」とおもしろそうに目を細めた。
「いい答えだ。それなら、目的を持って使うところを僕に見せてごらんよ」
少し強気に返しただけでも胸がどきどきと鳴っているというのに、髭切の目が鋭く光って見えて、今度こそ竦みそうになった。
それでも、やっとその目を本当の意味で見詰め返すことができた気がして、両足に力を込める。
深い梔子色の目に、今の自分はどう映っているのだろうか。
失った目的を取り戻したといえども、一日そこらで気持ちの切り替えができるほど器用ではない。見下される目に気持ちがめげそうになる。
(でも、もう二度と見失うことはしたくない)
審神者は緊張の息を吐き出し、端末を強く抱える。
すると、白くなるまで握った手に、髭切の手が添えられた。
「その前に」
拭いきれない不安に俯きかけた顔を、髭切の声が引き上げた。
「朝ご飯、食べようか」
「え……?」
「それを確認するのを後回しにしても、死ぬわけじゃないんだし。ひとまず朝ご飯、食べようよ」
ね、と言った髭切の微笑みが穏やかなものになった。
その笑みに一瞬気が抜けそうになったが、確かに、本当に緊急性があるものは、端末の通知を切ろうが電源を落とそうが、けたたましい音が鳴るようになっている。
そう、だからこの通知を後回しにしても死ぬわけではない。
極端な考え方ではあるが、そう考えると判断がしやすい。
通知の内容は気になるが、審神者は抱えた端末の腕を解き、恐る恐るそれをテーブルの上へと戻した。
「…………でも……」
しかし食べるという行為に、不安が顔を出す。
食べて大丈夫なのか、味がわからないくせに食べるのか、また失敗してしまうんじゃないかと怖くなって具合が悪くなりそうになったが、端末を置いた代わりに、髭切の手が審神者の手を取った。
「大丈夫。もう、大丈夫だよ」
ゆっくりと、絵本の終わりを読みあげるように繰り返された言葉に、顔を出した不安がじゅわりと滲んで融けていく気がした。
今朝は、まるで世界が生まれ変わったように頭も体も軽い。
根拠もないその笑みに後押しされたように、いや、慰めも根拠もないからこそ、審神者はほっと息をつくように小さく頷いた。
「うん……、ありがとう」


かといって、買い足しに出掛けてもいない冷蔵庫の中には先日髭切が買ってきてくれた牛乳と、使いかけのホットケーキミックス、卵くらいしかなく、外で食べるか材料を買いに行くか少し悩んだが、髭切が「僕がホットケーキを作ろうか!」なんて目を輝かせながら言うので、審神者は「ちょっと待ってて」とフライパンを手に取った。
「できたかい? 目玉焼きホットケーキ」
「うん。いや、ガレットね」
座って待ってて欲しいと言ったにも関わらず、待ちきれないとばかりにうろつく髭切に、調理している間も何度か言い直した間違いを審神者はすかさず訂正した。
「目玉焼きホットケーキって、長くない……?」
「でもそれ、ホットケーキの粉で作るんだろう? ホットケーキミックスを使ったレシピはどれも同じ味だって言ってたじゃないか」
「いや、まあ、そうなんだけど……」
連日ホットケーキでは芸がないと、審神者は余っていたホットケーキミックスを使ってガレットを作った。
薄く伸ばして焼いた生地の上に卵を乗せ、卵を囲むように生地の端を畳めば、なんちゃってガレットの完成だ。
それなりに上手くできたと思ったのに、横から『目玉焼きホットケーキ』なんて言われるのは少し不満だった。おまけに今それを言うか、と思うようなことまで言われ、せめてお食事クレープあたりに留めてもらいたかったのに、刀剣男士からすればどれも些事なのかもしれないと審神者は諦めた(いや、しかし『ホットケーキ』という単語は覚えられて『ガレット』は覚えられないというのは、いささか納得がいかない。というか、覚える気がないとさえ感じるのは、最早その刀自身の性格だろうか)。
「…………」
いつだったか。似たようなことがあったと審神者はぼんやりとガレットを眺めた。
「主?」
隣に立った髭切から皿を渡され、審神者ははっとして受け取った。
心配そうにこちらを見る髭切に、苦笑を浮かべる。
「前に、スフレパンケーキを作ったことがあって……。その時も国広と薬研から『しゅわしゅわホットケーキ』って言われて……。何度も言い直したのに、ふたりとも全然覚えてくれないの」
「ああ、僕も聞いたことがあるよ。しゅわしゅわホットケーキ。美味しかったって薬師の子が言ってて、食べたことがない弟が残念がってた」
そんな、凝った手料理でも何でもないのに。
それでも審神者の知らないところで話題になっていたとは、何だか面映い気もして審神者は肩を竦めた。
「なぁに、そのホットケーキマウント」
「それほど君が作ってくれるホットケーキを、皆は楽しみにしているんだよ」
出来上がったガレットを皿に乗せて手渡すと、髭切が仕上げに塩を振ってくれた。
本当はブラックペッパーがあれば良かったのだが、限られた調味料では塩があっただけでもありがたかった。
でも、何かを不便に思ったのは、ここに来て初めてだった。
それまで何かをするのさえ億劫だったのに、きちんとしたものを作りたいなんて思えたことに、自分自身驚いた。
「……帰ったら、作ろうかな。ホットケーキ」
気付けばそんなことを口にしていた。
ぽつりと零した言葉はとても小さな声だったが、ガレットを並べたテーブルの向こうで、髭切は目を細め、頬を緩めた。
「うん。皆、喜んでくれるよ」
髭切と向かい合ってテーブルにつけば、カトラリーを渡される。
朝日に照らされ、淡く輝く髭切の髪を見詰めながら、審神者は眩しそうに、でも嬉しそうに微笑み返した。
「うん」
手にしたフォークでガレットの薄い生地を一口取る。
ぷつりと割った卵を絡め、それを頬張ると、ほんのり甘い生地と塩の味がした。
「……髭切……」
「うん?」
「ガレット……、しょっぱいよ……。塩かけすぎ……」
「ありゃ」
口の中に広がるのは、甘みより塩気の方が強かった。
じんじんと痺れるような塩の味に、審神者は涙ぐみながらもへにゃりと笑った。
「でも、美味しい。すっごく美味しいよ」
塩気の強いガレットを食したあと、審神者は髭切に見守られながら届いたメッセージの確認をした。
内容は、長期休暇最終日である明日、本部へアパートの鍵を返すついでに寄って欲しいという内容だった。
送り主は、審神者の本丸エリアを統括する責任者――エリア長からだった。

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