07

「――そこまで!」
鋭い声で我に返った。
聞こえた声にはっと顔を上げると、演練会場のホログラムが解かれ、乾燥した平地からひたすら広いコンクリート壁に覆われた無機質な部屋が審神者の前に現れた。
『お疲れ様でした。これにて演練を終了いたします。次の組がスムーズに入場できるよう、どなた様もお忘れ物のないよう、速やかに退場ください』
続いて退場の自動アナウンスが流れ、審神者はその音の元へと顔を向ける。
スピーカーの横にあるモニターを見上げれば、審神者と、対戦相手の情報が帯状に記された画面が映る。
ほどなくして審神者の情報がグレーアウトされ、相手の審神者の情報だけが残った。
灰色に塗り潰された審神者の情報の横に黒星が記される。二つ、三つと続くそれに審神者は見上げたまま立ち竦んだ。
書き足された黒星をしばらく眺めていると、審神者の元に苦々しい表情を浮かべた仲間が帰ってきた。
皆、それぞれ悔しそうな顔をしており、その表情を見て審神者はやっと演練に来ていたことを思い出す。
(ああ、そうだ……)
そして、先日に引き続きまた負けてしまったことも。
(……また負けたんだ……)
そんな表情をさせてしまったことに審神者の胸が痛み、なんと励ませばいいのかと励ましの言葉を必死に探す。
先日も審神者の見誤りのせいで同じ表情をさせたばかりだというのに、また苦い思いをさせてしまった。
こういうのは負けが続くと良くない。だからこそ今日は保険に彼を連れてきたというのに、その彼さえ負けてしまった……いや、負けさせてしまったということか。
ここ数日はそれまで普通にこなしていた演練が急に勝てなくなり、連敗が続く。
うまく登っていた階段に頭から落っこちていくかのようだった。たった一度躓いただけなのに、止まることなくどんどん転げ落ちていく。
私は今まで、どうやって演練に勝っていた……?
――主、と呼ばれ、連日先鋒を任せていた仲間が申し訳無さそうに審神者へと敗戦を告げた。
すまない、なんて言って欲しくも、言わせたくもないのに、告げられた謝罪が審神者の肩にずしりと伸し掛かった。
いいや、ショックを受けている場合ではない。実際に刃を交えたのは審神者ではないのだから。
審神者が仲間に励ましと労いの言葉を選んでいる時だった。隊列の奥から呆れと少しの苛立ちを含んだ、深い溜息を聞いた。
思わずびくりと肩を震わせ、そちらを見ると、空色の双眸が審神者に向けられた。
「少し、疲れているんじゃないか」
心配の言葉が、鋭い視線のせいで「ひどい演練だった」と言われている気がした。
事実、ひどい演練だったと思う。
惨敗とは言わないが、審神者の拙い指示に対してなんとか相手に食い付けたのは、彼等の実力のおかげだ。
それを咎められる気がして吐かれた息にひどく怯えてしまうが、きっと彼に責める意図はないと必死に言い聞かす。
「え……、そ、そんなことないよ。どうして?」
「今日の演練は……、いや、最近の出陣は……、なんだかアンタらしくない」
「私、らしく……?」
敗戦が続き、勝つということを見失っている審神者に、審神者らしく、という言葉は随分と曖昧だった。
眉を顰めながら指摘されたことに、審神者は微かに首を傾げる。
私らしくって……、なんだ……?
問い掛けると、蒼い目は審神者をじっと見据えた。
「何を焦ってるのか知らないが……、アンタはアンタらしく、審神者をしっかりやってくれればそれでいい。俺はアンタにそれ以上も以下も望んでいない」
頭から被った布を翻し、審神者の横に冷たい風が過ぎた。
先程言われた審神者らしくという言葉が引っ掛かり、思考が前へと進まない。そればかりか、続けられた審神者らしく、それだけをこなしてくれればいいと残された言葉が棘を残す。
審神者らしく、とはなんだ。
歴史を守ること?
多くの時間遡行軍を倒すこと?
強い刀剣男士を育成すること?
より良い戦績を残して勝ち続けること?
刺さった言葉が頭の中で木霊し、やがてそれ以上も以下も望んでいないし、求められていないと、弱りかけた審神者の心を蝕んだ。
振り返れば、審神者を残して皆が演練会場を出て行こうとしていた。
こちらを振り返ることなく退場の準備をする背中達に、そのまま一人置いて行かれる気がして審神者は慌てて声を上げた。
「――……だ、大丈夫……! 次こそは、頑張る……頑張る、から……!」
引き取めるようにして大きな声を出した審神者へ、同情的な視線が皆から向けられた。
その中、先頭に立つ空色の双眸が審神者を貫いた。
「頑張るって、何をだ……?」
ぐっと寄せられた眉にたじろいでしまいそうだった。
それでもここで挫けてはならないと、審神者は小さく顎を引いて彼を見据えた。
せっかく自分の元に来てくれた彼に、彼等に、呆れられるような審神者にはなりたくない。
そう、そのためには……。
「……さ、審神者として……勝てるように……」
向けられる空色の目をなんとか引き止めたくて口にした言葉は、自分でも違和感を覚える言葉だった。
――あれ、私が目指していたことは本当にそれだっただろうか……。ううん、でも、勝てないと意味がない。だって勝たなければ何も残らないじゃないか。勝たなくては、審神者としていられない。勝たなくては……、勝たなくては……!
「審神者として、勝つ……か……――」
どこか寂しそうに繰り返された言葉に審神者は気付けなかった。
それよりも、審神者として認めてもらえるには、審神者としてここに立ち続けるには、という言葉が頭から離れなくて、思考が何かとすり替わって占領されていく。
戦績を残さなくては。
審神者として、勝たなくては。
でなければ、国広は、国広から……――。

「審神者として勝ち続けて、それで……――それで、どうするんだ?」

その時に向けられた、真っ青な空色がやけに目に焼き付いた。




「くに……、ひろ…………」
自分で漏らした寝言で目を覚ました。
瞼を薄っすらと開けた途端、目の端から涙が溢れて、寝ながら泣いていたことを知る。
溢した涙は頭下の枕に吸い込まれていった。
横になったまま、目だけで周りを見渡すと、外は日が暮れ、部屋は差し込む夕日で黄昏色に染まっていた。
今は何日目だろうか、四日目か、五日目か。
いいや、自分には、あと何日残っているのか。
もう、だいぶ日付感覚が危うい。ここにいる時間が永遠のように感じられる。
こんな状態で、自分は本丸に戻れるのだろうか。
戻れる資格があるのだろうか。
「寝てて大丈夫だよ」
持ち上げかけた頭を、誰かが撫でるようにして枕に戻した。
温かい手が僅かに耳を擽り、避けるようにしてそのひとを見る。
そのひとは審神者が横になっているベッドの端に腰を下ろしていた。
窓から差し込む夕暮れの光に、薄い色の髪が色を落とし、青と赤を重ねた二藍に煌めいていた。
その中に浮かぶ梔子色の目が、外の光を含んで夕日色に輝く。
「わたし……」
「お散歩したあと、すぐ寝ちゃったんだよ」
意識を失うまでの記憶が曖昧だ。外へ連れられたその後、どうなったのだろうと髭切を見ればそう返された。
確かに、アパートの周辺を歩き終えたあと、沈むようにベッドに倒れ込んだ気がした。
髭切が寝やすい姿勢に転がしてくれたような記憶が微かにある。
髭切が最後に見た時とは違う服を着ているので、おそらく日は跨いだのだろう。
「何か食べるかい? ゼリーとホットケーキくらいしかないけど」
布団の中に潜った審神者の肩に髭切が触れた。
そのまま布団に包まって無視をしようかと思ったが、散歩前に無理矢理ゼリーを突っ込まれたことを思い出して目だけを出した。
「……ホットケーキは、もういらない」
「そうかい? まあ、僕が作ると焦がしてしまうからねえ」
……なんで焦がす前提なのだ。
ちゃんと作り方も教えたというのに。
布団の中から髭切を見るが、にこにこと微笑む表情に審神者の睨みは届いていないようだ。
「ホットケーキを食べるなら、僕は君のホットケーキがいいな。君が作った方が美味しい」
「……何もしたくない……」
「うん。コンビニで適当に済ませるから大丈夫だよ。……でも、またいつか、食べさせてくれると嬉しいな」
「………………」
せっかくこちらに来たのに、美味しいものを食べさせてやれていないことが申し訳ない。
申し訳なく思っているのに、何かしてやれる体力も気力もない。
なんてひどい審神者なのだろう。
戦績が悪いうえに、逃げるようにして仕事を休んで、護衛についてきてくれた刀剣男士にお礼らしいこともできない。
こちらに戻ってしたことは、せいぜいホットケーキを焼いたくらいだ。何の変哲もない、ただ焼いただけのホットケーキ。
それでも、なんだか一生分のホットケーキを焼いた気がするのは、事あるごとに髭切がホットケーキの話題を振ってくるからだろうか。やけに耳につく。
だいたい、なんでそこまでホットケーキにこだわるのだろうか。
新しく顕現した刀にホットケーキを焼いていた話をされたが、聞いても、そんな、たいした料理でもないのにと思ってしまう。

――アンタの作るホットケーキはうまい。

わざわざ話題にするものでもないだろうと瞼を降ろした時、いつか、国広が言ってくれた言葉が過った。
新しい刀を迎えるたび、歓迎の意味を込めてホットケーキを焼けば、国広がそう言ってくれたのを思い出した。
「国広も……」
「……うん?」
付き纏う疲労と眠気に襲われながら山姥切国広の名前を零せば、優しく相槌が返ってきた。
続けるつもりはなかったのだが、返ってきた相槌があまりにも心地よい声色で、審神者は気付けば口を動かした。
「国広も……、私の作ったホットケーキ、美味しいって言ってくれた……」
「うん」
髭切の声は、眠気を誘うようにして審神者の言葉を引き出す。
「それで?」
「それ、で……?」
「うん。それで……?」
「………………」
柔らかな声に促され、審神者は微睡ながらも続きを口にした。
「……新しい子を迎えた日は……、その子だけじゃなくて、本丸にいる皆にもホットケーキを焼いてたの……。皆が食べたいって、言うから……、美味しいって言ってくれたから…………」
「嬉しかった?」
「…………」
聞かれて、一瞬だけ答えに詰まった。
嬉しかったのかと聞かれて、どうだったのか心の中で首を捻ると、あの時笑っていた自分が「うん!」と元気よく頷いて、ひょっこりと顔を出したのだ。
「……嬉し、かった……」
それは、とろとろと動いていた審神者の口を借りて喋り出した。
「皆、たくさん食べてくれて、国広も、手伝ってくれたのに、何枚も食べて、そんな綺麗な顔してよく食べるねって言えば、綺麗とか言うな、ってムッてしたあとに、また何枚も食べるの……」
口にすれば、その時の国広の表情と、本丸の広間で皆とホットケーキを囲んだ風景が浮かんだ。
楽しかった思い出に浸るように瞼を下ろせば、その時の賑やかな声が蘇ってくるようだった。
「アンタの作るホットケーキはうまいって、その時、国広が言ってくれて……」
「うん」
「……ただの、ホットケーキなのに……。誰が作っても同じなのに……」
あの頃は、良い戦績を残せなくても楽しかった気がする。
皆がいて、国広がいて、ホットケーキを囲んで笑い合っている内は、何にも囚われることなく、審神者をやれていたように思える。
目覚ましい活躍などしなくても、あの頃の自分の方が、皆に囲まれて、審神者らしかった。
審神者として活躍しようなんて思ってもいなかったのに、その時の方が審神者らしかったなんて、おかしな話だが。
今は、どうだろうか。
新しく顕現した刀をいち早く本丸に招くことに、演練で良い戦績を残すことに、任務でいい評価を得ることに、一人躍起になっている。
せっかく審神者らしく頑張っていたというのに。
――でも、それって本当に求めていたことだっけ……?
皆に囲まれ笑っていた審神者が、首を傾げて問いかけてきた。
審神者として何も考えていなかった頃の自分に指摘され、心臓がぎゅっと縮む。
(そんなの、知らない、もう、疲れたのだ、私は……)
「――同じじゃないよ、君が作るからだよ」
考えることを放棄するように枕に頭を沈めると、髭切が審神者の言葉を拾って続けた。
「君が想いを込めて作るからホットケーキは美味しいのさ。僕達付喪は人の心を受けて、名前を、魂を、得た。そんな僕らが、想いのこもったものを口にして美味しいと感じるのは当然のこと。主である君なら、尚更さ」
地平線に沈む、夕日を見ているようだ。
綺麗に蕩けた双眸に、しかし審神者は鼻白んだ。何を適当なことを……、と小さくせせら笑いもして、国広に言われた言葉の続きを思い出す。
「私……、そんなすごい人じゃないよ……。だって、国広にも言われた……。国広が言ってくれた言葉が嬉しくて、にこにこしてたら、本丸の主なのに、そんなにへにゃへにゃで大丈夫かって」
でも、国広はわざとらしく呆れた顔をして、少し間を置いてからふっと笑ってくれた。
冗談だ、とからかわれて審神者もむくれつつ国広を小突いたが、顔を見合わせている内にどちらともなく笑い合ってしまった。
そんな他愛ないやりとりを国広とできることが嬉しかった。
何気ないやりとりではあったが、ホットケーキを囲んで皆で笑い合う幸せな風景に、自分を慕ってくれる皆を眺めながら、審神者は心に決めたのだ。
ここに、自分の元にきてくれた皆を、大事にしたい。
だから私は。
「だから、国広と……、私の本丸にきてくれた皆に……――」
――そう、審神者として私は…………。
続けようとした言葉を切り、審神者は横になったまま静かに目を見開いた。
「………………」
「……主?」
髭切が首を傾げる。
頭の中で笑っていた過去の自分が、いつの間にか消えていた。
……いいや、消えたのではない。
「あ…………」
審神者は薄く口を開き、唇を震わせた。
色んな所をひっくり返して探したはずの何かに、指先が触れた気がした。
探しても、探しても、見付からなくて、その内、何を失ったかさえも忘れかけていたもの。
そう。
(……そうだ、そう、だった……。だから私は……)
記憶が、想いが、フラッシュバックする。

――いいんじゃないか、一週間くらい。俺達のことなど忘れて、羽を伸ばす時間も必要だろう。

思い出すと共に、幾度となく現れる金糸の髪と蒼い目の少年の姿が脳裏を過った。

――出陣がないんだ、何か起こるはずがない。だから俺達のことなど気にせずゆっくり休むといい。

それまでずっと出てこなかったというのに、見付けてからここに仕舞っていたことを思い出したかのように、次々と思いが蘇ってくる。

――少し、疲れているんじゃないか。

記憶の中の少年が、審神者の前へと立った。

――今日の演練は……、いや、最近の出陣は……、なんだかアンタらしくない。

薄汚れた布を深く被り、そこから見える蒼い目はいつも審神者をきつく睨んでいた。
何もできない審神者として呆れられるのが辛くて、怖くて、長くその目を見つめ返すことができなかったが、揺れたようにも見えた双眸を、いま、恐る恐る見つめ直した。
見詰めながら、いつだったか髭切が『君の知る彼は、君にそんな目を向ける子なのかい?』と言っていたことを思い出す。

――何を焦ってるのか知らないが……、アンタはアンタらしく、審神者をしっかりやってくれればそれでいい。俺はアンタにそれ以上も以下も望んでいない。

そして、気付く。
……いつから。

――審神者として勝ち続けて、それで……――それで、どうするんだ?

いつから国広は、私を"寂しそうに"睨んでいた? ……と。

「……わたし、は……っ」
喉元まで出掛けた言葉に息を止めると、代わりに熱いものが込み上げて視界を滲ませた。
体から何かが出たがっているように思えた。
どっと込み上げてくる何かを吐き出したくて、でも出なくて、代わりに伝えたい想いが涙として流れ出てくるようだった。
(そうだ、わたしは……、私は……)
力の入らない腕で上体を起こす。
震える腕で上体を支えると、涙は重力に沿ってはらはらと零れ落ちた。
「主」
優しい声に呼ばれて振り返ると、ずっと微笑みかけてくれていた髭切が居た。
塞ぐ審神者に笑いかけ、ずっとそばに居て声をかけてくれていたのに、苦手だと決め付けてその存在を突っぱねていた存在が。
「ち……、ちがう、忘れてたわけじゃないの……」
髭切は流れる涙をひとつ、またひとつ指先で拭ってくれた。
その指先がどうしようもなくあたたかくて、優しくて、また新たな涙を誘っては審神者の胸を苦しくさせる。
「うん。思い出せたんだね、君が本当にしたかった事」
溢れる思いは、仕舞い込んでいた場所から取り出し、触れた途端、洪水のように押し寄せた。
見失い、忘れかけた審神者を詰るように、でも二度と忘れるなとばかりに。
「違うの……、ずっと、ずっと、そこにあったのに、どうして、こんな大事なこと、忘れて……」
「うん」
「成績を、良い戦績を、残さなくちゃって、私、いつの間にかそれだけしか頭になくて……私……」
「うん、いい成績を残すのも君の目標だった。君の本当に頑張りたかったことの延長線上にあったから、先を見過ぎて、本当の目標の方を見失ってしまったんだね」
長い指先が頬に触れるたび、髭切が涙から審神者の心を拾い上げてくれているようだった。
しゃくり上げる審神者を、髭切はひとつひとつ、宥めていく。
剥き出しの心に触れられているようで恥ずかしいはずなのに、今はどうしようもなくその指に縋って泣いてしまいたかった。
「君の目標は、ずっと君の近くにあった。だからこそ見失ってしまったのだけど、ずっとここにあったんだよ。でも、もう大丈夫。だって君はちゃんと見つけ直した」
夕日のようだと思った目は、外から差し込む光を失ってももあたたかく審神者を包んでくれていた。
(違う、この目は、このひとは、瞼の裏を刺すような夕日ではなくて、これは、これは……)
「ずっと一人で探して、見付けられなかったから辛かったんだね。見付けられないって泣き叫んでも良かったのに、そうしなかったのは、君が心のどこかで、ちゃんとその目標を忘れていなかったからさ」
その目を、存在を見詰めながら審神者は目を閉じる。
優しく抱かれた肩に、手に、ぬくもりに、そのひとを月のようなひとだと思った。
肺が凍るような、よく冷えた真っ暗な夜。
一人目覚めてしまった深い夜に見上げた、白銀の月。
ずっとそこにいてくれたというのに、夜にならないとはっきりと姿を見せてくれなくて。
でも、一人の夜は寂しいと怯える審神者に、大丈夫だよと優しい光を注いでくれる。
あんなにも怯えていた闇の正体に、彼を知って、形に触れて、向き合えば、こんなにもあたたいひとだったと気付く。
(ああ……、もしかして、彼もそうなのかもしれない。私がそう思っているだけで、国広も…………)
ぎしりとベッドが軋み、髭切が審神者へとそっと寄り添った。
「偉いね、よく思い出せたね。いいこ、いいこ」
こつんと小さく重なった額から柔らかな髪が溢れ、月の光に触れた気がした。



***

「かつての主達は、自分を奮い立たせるために僕を使った。僕にはその力があると思ってね」
ベッドに横たえた審神者の側に寄り添い、髭切は濡れた頬を指で軽く拭ってくれた。
「でもその力の元って、君達が僕に対してそう強く願ってきたもので、僕の力ではないんだよ。僕の力なんて本当は微々たるもので、あの子達の果たしてきたことは、確かにあの子達自身が果たしてきたことなんだ」
不思議な気持ちだった。
あれほど苦手だと、怖いと思っていた髭切と、こうして同じベッドの上で寄り添っている時間が。
でも、日が落ち、暗闇に包まれた室内で見る髭切は、白っぽい髪もあって柔らかな光を纏っているように映った。
それは髭切を尚更人ならざるものに見せて、まるで月を眺めているような穏やかな気持ちにさせた。
「僕はあの子達の物語だったり、出来事だったり、その時抱いた言葉にしきない感情や、覚悟をたくさん受け取ってきた。だから大丈夫。君が君自身の力で立ち直ろうとしていたこと、一人で苦しんでいたこと、僕はちゃんと知っているよ」
眠る前の絵本を読み聞かせるように、髭切は微笑んでいた。
「忘れそうになったら僕を握ればいい」
その微笑みを眩しそうにして目を細めると、審神者の手の上に髭切の手が重なった。
「君の心は、確かに僕が覚えているから」
冷えた指先に、そっとぬくもりを移そうとする髭切に審神者は戸惑う。
しかし、その戸惑いごと髭切が手を絡め取った。
ゆっくりと絡まる固い指先に、まるで刀でも握らされているようだと思った。
「髭、切……あのね……」
髭切という形を探りながら、審神者はその手をおずおずと握り返した。
馴染む場所を探しながら指を動かすと、髭切は好きにしていいとばかりに手の力を緩めてくれた。
「うん」
緩んだ指先に審神者は少しだけ安堵して、髭切に触れた。
「審神者なった時、私、嬉しかったんだ」
「うん」
「こんな自分でも、頑張れることがあるんだって思った」
「うん……、うん……」
審神者の吐露を遮ってしまわぬよう、静かに、ゆっくりと返される相槌がひどく心地よかった。
その相槌に促されるようにして、審神者は訥々と自分のことを語り始めた。
「最初は何がなんだかわからなかったけど、平凡な自分でも、何か特別に頑張れることがあると思ったら、やりがいっていうのかな……、そういう気持ちが出てきて、もっと自分にしかできないことを頑張ろうと思えるようになったの……」
「うん」
「でも、蓋を開けてみれば、私よりすごい人はたくさんいた。色んな人を演練で見て、すごいって思って、自分はやっぱり平凡なんだって改めてわかって、すごく惨めだった。恥ずかしかった」
わかっていたはずなのに、審神者になり、皆が慕ってくれる内に自分は平凡だという感覚が鈍っていたようだ。
特別な存在にでもなったつもりだったのか、演練で負けた時、結局自分はその程度なんだと気付かされて打ちのめされた。
自分が頑張ったって所詮月並み。特別に頑張れることなんてない。自分にできることなんて最初から限られているじゃないか、と。
「そうしたら、せっかく私のもとにきてくれた皆に申し訳なくなって、もっと頑張らなくちゃって思ったんだけど、だんだん何をどう頑張ればいいのか、何を頑張るべきなのかわからなくなった」
だから、わかりやすい戦績という数字を追い始めた。
自分が追い求めるべきは、数字ではなかったというのに。
結果、追い詰めれば追い詰めるほど首を絞めるようになってしまい、皆の前で顔を上げることができなくなってしまった。
「でも、違った。良い戦績を出すのは、本当に私が頑張りたかったことじゃなかった。……国広も、そんなこと、最初から望んでなかった……」
ずっと違えていたのは自分だ……。
国広は何度も手を伸ばして引き戻そうとしてくれていたのに。
……叶うのなら、再度あの手を握り直したい。
そう願いながら、審神者は髭切の手を握り締めた。
「髭切……、私ね……、わたし、私は……、審神者として、一緒に戦ってくれるあなたたちに敬意を示すために、相応しいひとでありたい」
「………………」
触れた瞬間、指と指が馴染んだ気がして強く握り込んだ。
すると、髭切が静かに目を見張った。
濃く長い睫毛に囲まれた目が大きく丸を描き、その目に審神者を映す。
その瞳から自分の姿が消えてしまわぬ前に、審神者は告げた。
「戦績とか、そういうので自分の心を支えるんじゃなくて、もっと、自分自身の力で」
本当に、頑張りたかったこと。
「審神者として。あなた達の主として、相応しいひとになりたい」
審神者として勝ち続けることではなく、共に戦ってくれる仲間として、頑張ってくれる皆に対して相応しいひとであること。
見るべきは、耳を傾けるべきは、戦績や周りの視線ではない。
「そんなの、皆最初から思っているよ。君は僕達の主だ」
「髭切……」
「でも、違うんだよね。君の思っているところは、もっと別のところにあるんだね」
馴染んだものが手に吸い付くように、髭切の手が審神者の心を絡め取った。
そして横になったまま、髭切が小さく頷いた。
「うん。君が君であろうとする想い。話してくれてありがとう」
「……髭切の前の主達に比べると、ちっぽけかもしれないけど」
「主」
「でも、私にとっては、とても、大事なことだから」
比べるような言葉に髭切が口を開いたが、審神者はすかさず続けた。
するとそれを聞いた髭切は嬉しそうに微笑んで、審神者の頭を胸に抱え込んだ。
「うん。誰がどうかじゃない。僕はずっと、君の話が聞きたかった」
髭切の胸に抱かれ、体が強張った。
しかし、あやすようにゆっくりと叩かれる背中の振動に、審神者は目を閉じる。
触れるぬくもりが泣きじゃくりたくなるほど優しかった。
微かな緊張は解れたが、次第に肩が小さく震え出してしまった。
髭切は何も言わず、審神者の震えが止まり、やがて眠りにつくまで背中を叩いてくれた。




疲労の色が濃い審神者の頬はここに来る前よりも痩けていたが、先に比べると顔色はだいぶいい。
声さえ殺して泣き続ける姿をいじらしく思いつつ、腕の中で眠りに落ちた審神者に髭切は小さく安堵する。
『感じ』がいいことに気付いてはいたが、まさかここまでとは思ってはおらず、端末にこもった念にさえ負の気を受ける体は性格が真面目とか、優しいとかでは補えない審神者としての霊力があった。
物に眠る想いを目覚めさせる力。
その根底にある物に込められた想いに寄り添う心。
彼女はその力にひどく優れていた。
優れ過ぎて、拾わなくていい気まで拾ってしまい、こんなことになってしまったのだろうが、拭った涙の純度に、彼女の中の悪い気が少しずつ抜け出しているのが窺えた。
負の気を溜め込み過ぎて、夢見どころか眠りさえ浅くなっていた審神者の意識は常に混濁していて、危なっかしく見えた。
くったりと眠ってしまった審神者に触れ、今度こそいい夢を見れるようにと髭切は目元に溜まる涙を舐めた。
そして口の中に含んだ瑞々しい甘味にぽつりと零す。
「……甘い、んだよなぁ……」
出会ったときよりも、彼女の甘い香りは一段と濃く香るようになっていた。
溢れていた霊力を収める器が間に合ってないからかとも思ったが、この安心しきった寝顔を見る限り、器からはみ出していた霊力は安定しており、この甘い香りも収まっていいと思える。
であえば、何故ここまで髭切を擽るように香るのか。
(甘い、果実みたいな匂い……)
まだ青くも、瑞々しい香りを放つ果実のような……。
髭切はその匂いを確かめるように審神者へと鼻を近付ける。
(そんな、まさか……)
そして、まだ青いままの果実に傷が付かないよう、小さな体をそっと抱き寄せた。

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