06


「――と、本丸の案内はこんなもんだな。まあ、しばらくは弟御と行動を一緒にするといい」
そう言って白衣のポケットに両手を入れたのは、この本丸で初めて鍛刀されて顕現した薬研藤四郎だった。
かつて天下を収めた男の元にあったというその刀は、背丈は子供のそれだというのに、紫がかった黒髪と切れ長の藤色の瞳のせいか、随分と大人びた印象を髭切に与えた。
いや、大人びた印象も何も、この本丸に集まるのはどれも永くあった刀剣達ばかりなのだから当たり前だ。
「兄者、何かあったら遠慮なく言ってくれ。薬研ほどではないが、一足先に顕現した分、少しは詳しいぞ」
「うん、頼りにしているよ」
高い塀に囲まれた広い庭先、つい先日顕現したばかりの髭切は薬研藤四郎から本丸の案内を受けていた。せっかくだからと先に顕現した弟の膝丸も連れて本丸内を周ったのだが、その途中でこの身を得た経緯を聞かされた。
時は二千二百と五年。
歴史改変を目論む歴史修正主義者に対抗すべく、時の政府は物に眠る想いを目覚めさせる力を持つ審神者より、刀剣男士という付喪神を呼び起こした。
髭切達刀剣男士は審神者の元、歴史修正主義者によって使役される時間遡行軍の過去への攻撃を阻止するために各時代へと送り出されるのだが……。
(審神者って……、最初に会った女のコのことかな……)
先日その審神者と挨拶を済ませたが、俯くばかりで一度も目が合わなかったのでどうも印象が薄い。なんとか思い出そうとしても小さな肩と頭しか思い出せないし、髭切の方が上背があるせいで尚更顔が見えにくかった気がする。
ただ目が合わずとも挨拶をされ、微かに震えた声色と、審神者を心配そうに見守る弟や薬研、最初に選ばれた……初期刀と言ったか……山姥切国広の気遣うような顔を見て、俯いた先に何かを抱えていることを知る。
(……あれが、今代の主……)
申し訳無さそうに丸まった背は、もうずっと重たいものが彼女に伸し掛かっているようで、見ていて心配になる。
ただ、顕現したばかりの自分に何ができるのかと言えば、今は戦うことだけだろうか。
臣下として寄り添うにも、彼女のことを知らなさすぎるし、そこまでする義理もない。
依代がずっと人の側にあったせいか、誰かあの子の背中を支えてあげればいいのに……とは思うが。
(それに、勘違いでなければあの子は……)
ふと、髭切の鼻を微かな香りが掠める。
香りの元を辿るように顔を向けると、そこには先程薬研から教えてもらった審神者の執務室があった。
ここから少し離れた執務室から、初期刀の少年と審神者が出てきた。
ふたりは部屋を出て扉の前で一言二言会話をしていたが、この距離では何を話しているかは聞こえない。
ただ、初期刀の少年は頭から布を被っているし、審神者は下を向いているので、明るいやりとりをしているようには見えない。
しばらくそれを眺めていると、審神者が更に頭を俯かせた。
肩を震わせたようにも見えた審神者に、初期刀の少年はぎくりと小さく後退り、踵を返してその場を去ってしまった。
取り残された審神者はしばらく床を見詰めて動かなかったが、部屋に戻ろうとした瞬間、髭切がこちらを見ていることに気付き、怯えたように部屋へと戻ってしまった。
ぴしゃり! 勢いよく閉ざされた部屋の戸に、途中から審神者に気付いた薬研が気まずそうに頬を掻く。
「あー……、いや、すまない。大将は今、その、具合が悪くてな……」
審神者の態度を謝る薬研の声を聞きながら、髭切は途切れた残り香を、静かに、深く、胸に吸い込んだ。
「……随分と『感じ』のいい子だね」
「どうか気を悪くしないでくれ、兄者。本当は心優しいただの娘だ」
「あ、ううん、その『感じ』じゃなくて」
「今は少しばかり元気がないが、以前は主自ら手料理を振る舞ってくれたくらい、純朴な娘なのだ」
「手料理?」
別に審神者の態度を悪く言ったわけではないのだが、訂正する前に髭切は首を傾げる。
どう見ても手料理を振る舞えるような状態に見えない審神者に不思議そうにすれば、薬研が苦笑しつつ、でもくすぐったそうに話した。
「まあ、大将に言うと『こんなの手料理でも何でもない』っていうんだが……。本丸に新しい仲間を迎えるたびに、ホットケーキを焼いてくれたんだ」
「ホット、ケーキ」
懐かしそうに話す薬研の目には、その時の審神者の姿が映っているのだろうか。
ひどく愛おしそうに、藤色が揺れていた。
「ああ。本当にただのホットケーキなんだが、どうしてかそれがすごく美味くて……」
「ふぅん……?」
今さっき大人びて見えると思っていた薬研が、急に背丈に合った表情を見せたことに、少しだけそのホットケーキとやらが気になり、髭切は膝丸を見た。
「お前も食べたことがあるのかい?」
「ああ、一度だけ。主のホットケーキは本当に美味しかったぞ。ふかふかなんだ」
「ふかふか……」
この身を得てまだホットケーキを食したことはないが、ホットケーキを知らないわけではない。それは主にふかふかしているものではないのか、と微かに眉を寄せると、薬研が膝丸へと眼鏡奥の目を得意げに細めた。
「なんだ、ふかふかしか食べたことがないのか。しっとりもなかなか美味いぞ」
「なに、しっとりもあるのか」
「一度だけ、しゅわしゅわも食べたことがあるぞ」
「しゅ、しゅわしゅわ……!? それもホットケーキなのか!?」
「ホットケーキだ」
「むう……、奥が深いな、ホットケーキ……」
そんなに美味しいものなのか。ホットケーキ。
突如始まったホットケーキマウント(?)に髭切は眉を寄せた。
古株の薬研藤四郎が審神者を庇うのはわかるが、弟の膝丸さえそんな様子を見せられると、なんとなくその主が気になりだす。
「…………」
話題のせいか、体の内からほのかに甘いもの感じて髭切は胸を抑えた。おそらくこれは、先程吸い込んだ審神者の霊力だ。香った先の執務室を再度眺め、気配を紛らわすには十分な距離があるのを確認して思案する。
この距離からの視線に気付く『感じ』の良さと、微かに吸い込んだ果物にも似た甘い香りに、髭切は少しだけ審神者への興味がわいた。
今の彼女がどうしてあそこまで陥ってしまったのかは知らないが、あれだけ感じが良ければ余計なものまで拾って気も塞いでしまうだろう。
そんなもので、彼女本来の力まで蓋をしてしまうのは実にもったいない気もする。
うまく導いてやれば、彼女はきっと……。
髭切は顎を一撫でし、たった今、己の頭の中で描いた絵面に頷く。
(――…………ふむ、悪くない)
どんな理由でこの身を得ようが、源氏の重宝として名を持つ限り、その名に恥じぬような振る舞いが求められる。何故ならそれが髭切であり、その想いが集まってこその髭切だからだ。
手を貸しても目覚めぬのならそれまで。
導いて途中で挫けるのならそこまで。
(それなら、一度くらいは手を引いてやってもいい)
導くことができた先に立つあの娘が、真っ直ぐと背筋を伸ばす姿を想像すると、頭を出した興味がむくりむくりと出てきた。
するとどうだろうか。髭切の脳内には、あの娘を惣領として立たせる考えが次々と浮かんでくる。
――長生きしてると、後輩の成長が楽しみなんだよね。
深く俯き、丸まった小さな背中を思い出し、さあ、あの娘をどう育てようかと髭切は口の端を持ち上げた。





空が、遠い。
青い空にかかる薄っすらとした白い雲が流れていくのを、審神者は色のない目で見上げていた。
窓から暖かい陽の光が差し込み、四肢の力が入らない体はそのまま溶かされていく。
眩い光は力無く落とした瞼の裏まで差し込み、まるでこの世界にお前の居場所などないと審神者を排除するようだった。
うるさい、放っておいてくれ、大人しくしてるじゃないか。
そう払いたくても、形のない光はひたすら審神者に注がれる。
本当は光の届かない部屋の隅で小さく蹲っていたかったのに、「どうせ座るなら日が当たるところがいい。気持ちいいよ」と言って窓辺まで引きずられてしまったのだ。
「主、ゼリーなら食べれるかい? ほら、ちゅーって吸うやつだよ」
「………………」
もう指先を動かすのも億劫な体を運んだ……いや、無理矢理引きずった男を一瞥し、審神者は掠れた声で返す。
「いらない……」
「でも、結局昨日も何も食べていないだろう? これ、一日分のビタミンが取れるんだって。きっと美味しいよ」
ぼやけた視界の中、白っぽい何かが審神者にずっと話しかけてくる。
「ほしくない……」
もうイエスかノーに近い言葉しか返していないのに、それでも白っぽい何かは審神者に話しかけてくる。
うるさいと思うのに、低くもなく、高くもない、柔らかい音程の声はやけにはっきりと聞こえてくる。
外から聞こえる鳥の囀りや、帰宅途中の小学生の声、配達のバイクの音はずっとノイズがかかったように雑音として認識されるのに、その声だけはっきりと聞こえるのは、その持ち主が人ではないからか。
「食べたって……、味、しないもの…………」
「そうなのかい?」
白い何かが騒がしいくらいにぱちぱちと瞬きをする。そして差し出してきたゼリー飲料を一度引っ込め、蓋を取って吸口に口をつけた。
じゅるっと一口吸った音に、いやお前が飲むんかい、と心の中で突っ込む。
「ちゃんと味するよ? 桃の味だ」
毒味でも終えたように再度差し出されたそれに、そりゃそう書いてあるのならその味だろうと思うが、そう返す気力もわかない。
味がわからないのではない、味覚がないのだ。
そう返したとしても、それから会話が続くと思うと無駄に話を広げたくなかった。それでも首を傾げたまま返事を待たれ、審神者は目線を合わせずに答えた。
「ほっといて……もう、ずっと前から味覚がない…………」
それだけの言葉を口にするだけでも息切れを起こしそうになる。これ以上は口も動かしたくない。
白っぽい何かから少しでも距離を取ろうと気怠い頭を反対側に移す。ごつ、と窓に額が当たり、ざりざりと髪とガラスが擦れた。
もう、いい。
何かをするのも億劫だ。
だって何をしても何にもならないじゃないか。
ならばもう、何かをしようとして失敗するより、何もしない方が何も起こらない。失敗もしない。
そう、何も。このまま、このまま何もせずに、誰からも知られることなく消えてしまいたい。
「………………」
ふと、先まで鬱陶しいくらい話し掛けてきた何かが急に静かになり、審神者は目だけをそちらに向けた。
その先には、寂しそうに笑う――髭切がいた。
その表情に審神者ははっとして、頭を上げた。
「僕のホットケーキ、美味しいかわからなかったんだね」
「……あ…………」
しまった。
味覚がはっきりとしていないのに、髭切が作ってくれたホットケーキに対して「美味しかった」などと嘘を付いていたことがバレてしまった。
せっかく作ってくれたのに味がわからなくて、でもがっかりさせたくなくて、適当な感想を言ってしまったのだ。
どうしよう、流石の彼も怒るだろうか。
適当なことを言うなと声を上げるだろうか。
軽蔑するだろうか。
呆れる、だろうか。
審神者の脳裏に、金色の髪をした少年が大きく肩を落として溜息をつく姿が過った。
瞬間、ぎゅう、と胸が押し潰されるような苦しさに襲われる。
は、は、と息が切れだし、じっとりとした冷えた汗が流れた。
どうしよう、失敗した。また、失敗した。
思ったそばから、もう、失敗してしまった。どうして何もかも失敗するのだ。何度、何度間違えれば私は……!
「ありがとう」
きつく両目を閉じた前を、髭切の指が掠めた。
大きな手が通り過ぎると、さらさらと前髪を撫でられ、開けた視界から柔らかく目を細める髭切を見た。
「味がわからないのに、頑張って食べてくれたんだね」
手を差し伸べられ、びくりと震えた審神者の耳に髭切が触れる。すくった髪をかけられ、そこからはらはらと髪がこぼれ落ちた。
「……ち、ちが…………」
礼を言った髭切へ首を振る。しかし、また口にした言葉が間違ったものだったらどうしようという不安が押し寄せ、喉を塞いだ。
違う、お礼を言われるほどの人間ではない。
髭切がそう思ってくれるような気持ちでついた嘘ではないのに。
そう撤回したいのに、口にした先からまた傷付けてしまわないかと思って、怖くてなって一言も喋れなくなってしまった。
「――えいっ」
「んぐっ……!?」
突然、震えるだけの半開きの口に硬いものが押し込まれた。
押し付けられたそれに前歯が痛んだが、細い飲み口から勢いよくゼリーが飛び出してきて審神者は慌てて口を窄めた。
「食べられないわけじゃないんだよね。なら、とにかく食べないと」
「んーっ!」
髭切の手がぎゅっとゼリー飲料の腹を潰し、審神者の口の中に中身が流れ込んできた。
一気に流し込まれたそれを反射的に嚥下するものの、すぐに逆流しそうになった。
込み上げる気持ちの悪さに戻すかと思ったが、ゼリーはつるりつるりと落ちて喉奥を通り過ぎてくれた。
懸命に飲み込み、吐き出さずに済んだことにほっとしたが、空っぽの体に何かが入った感覚が気持ち悪い。
「健全な魂は肉体から、だっけ? まあ、いいや。それを飲み終わったら次はお散歩に行こう。ずっと座りっぱなしだと体がなまっちゃうからね」
「散歩……? な、なんで……」
「えっと、お世話……? いや、介護……? なんて言ってたかなぁ」
こてん、と小首を傾げ、すっとぼけた髭切に僅かに苛立ちを覚える。寂しそうに笑った表情に傷付けてしまったかと思ったが、今は小憎たらしく目を細める髭切に、もしや飲ませるために気を引いたのかと睨め付けてしまう。
「……行かない、行きたくない……」
「おや、僕ひとりで好き勝手歩き回っていいのかい?」
「……そんなの……、好きにすればいいよ…………」
コンビニで買い物ができれば何も問題ないだろう。もう好きに過ごせばいい。
長く話して、疲れた。咥えたゼリー飲料を支える腕さえしんどくて、ぽとりと手を床に落とす。
しかし、落とした手はそのまま髭切へと拾われる。そのままそっと握り締められた手に髭切を見た。
「……なに」
「お散歩行こう」
「行かないって言った……、好きにすればいいって……」
「うん、好きにするよ。だから連れて行こうかなと思って」
ぐい、と取られた手ごと腕が引かれる。
指先さえ重たいと思っていた体が髭切の力で簡単に動き、浮き上がった腰に審神者は必死に腕を引き戻した。
「い、嫌だ……行きたくない……」
「なら踏ん張ってごらんよ。……ほら、しっかり手を繋がないと、僕が好き勝手に連れ回してしまうよ。どこかに飛び出してしまう前に君が繋いでおかないと」
手を放したら飛び出すなんて……、犬か! 既に玄関に向かって体がずるずると引きずられて行く。懸命に踏ん張って見せるも、髭切の進む足も手を引っ張る腕もびくともしなくて、最後はしがみつくようにして懇願してしまった。
「い、嫌……、人が多いところは嫌……」
「うん、人が少ないところにしよう」
外出すること自体が嫌なのだ! それなのに無理矢理外連れ出そうとする髭切に、ここまでついてきたのはくじ引きでたまたま決まっただけではなかったのと疑いたくなる。
優しいのか、厳しいのか、まったくわからない。
ただ、まるで審神者を更生しようとあれこれ世話を焼く髭切に困惑してしまう。
だって、あの髭切だ。良くも悪くも他人に興味がなさそうで、側に置くのは弟の膝丸くらいで、その膝丸から色々と世話を焼かれているようなあの髭切だ。
でも、髭切だろうが誰だろうが、もう頑張れる気が起きない自分に構わないでくれと願う。
こんな自分に費やす時間さえもったいなくて、無駄だと思ってしまう。
これ以上何を頑張ればいいのかわからなくなってしまったのだ。
何をしても結果に繋がらない。
それなのに失敗にはしっかり繋がってしまって、何もできない自分だけが取り残されてしまう。
そんな自分に割く時間がもったいないし、また何もできない自分にこれ以上がっかりしたくない。
「髭切……、い、家に帰りたい…………」
部屋を出て、アパートの階段を下りたところで審神者が言った。部屋にいるだけなのも辛かったが、外に出るのは尚更苦痛に感じる。
誰かと遭遇してしまわないかと周囲を見回すが、でも目が合って認識されるのが怖くて結局は俯いてしまう。遭遇する知り合いもいないというのに、でも、全世界の人間から非難の目を向けられている気がして怖いのだ。
「まだ出てきたばかりだよ」
そんな審神者を引きずりながら、髭切は背中で返した。
ぐいぐいと引っ張る髭切は一体どこに審神者を連れて行こうとしているのか。
「で、でも……、あの…………、め、メッセージ……、確認しないと……、すぐに、溜まっちゃうから……」
何処にも行きたくない。それだったら家で端末を見ている方がマシだ。
そんな気持ちで端末に届く未読メッセージについて触れれば、先をゆく足はぴたりと歩みを止め、こちらへと振り返った。
「外に連れ出したのは、あれが君の近くにあるからだよ」
「……ど、どうして……」
「それは、君も十分わかっているように僕は見えたのだけど」
穏やかに見下される目に、小さく震えてしまった。
怯えると、梔子色の目が子供に向けるような目で優しく細くなる。
「どうして、毒だとわかってて飲んでしまうの?」
食べてはいけないと言い聞かせられていたものを食してしまったかのように、審神者は背中を丸めた。
「そ、れは……」
俯いた先で、目が収まる場所を忘れたかのようにぎょろぎょろと泳ぐ。
髭切の言った通りだ。わかっている。
あれが、今の自分を苦しめるものだというのはわかっている。何をして、何をすれば苦しむなんて、自分でももう嫌というほどわかっている。
けれど、それでも、自分の首を絞めてでもこなさいといけないのは……。
見ないといけないのは……。
「だ、だって、頑張らなきゃ……、私、もっと頑張らなきゃいけなくて……」
「どうして?」
「ど、どうしてって……、みんな、頑張ってて、私も、頑張らなくちゃ、いけなくて……。みんなに比べたら、私の頑張りは足らなくて、だから、だから結果に繋がらなくて、つ、辛くても、私の辛さなんて、みんなに比べたらたいしたことなくて……、私、もっと頑張らなくちゃいけなくて……」
頑張らなくてはいけないという言葉を重ねる。
もっとうまく伝えたいのに、言葉を尽くしても結局は自分が頑張るしかないのだという結論に辿り着いてしまい、それしか口にできない。
もっと、もっと頑張らなくちゃいけない。
重ねるたび、その言葉が肩に、背中に、のしかかって体が縮こまってしまう。
その内一歩踏み出すことすら難しいくらいに体が重くなり、立ち竦む。
ずぶりずぶりと、足元が沼にでもなったかのように地面に飲み込まれていく感覚が訪れた。
ああ、また泥のような感情に支配されてしまう。
最早抗うことすらできなくて、ただひたすら暗くて重たい感情に押し潰され、ぎゅっと目を瞑った。
その時だった。
「――主」
落ちていく体を、手を、誰かが取る。
自分に課した言葉に潰されそうになる体を、誰かが強く引っ張り上げる。
見上げると、陽の光に透けて輝く白銀の髪が見えた。
「君が辛いと思った気持ちは君のものだよ。誰のものでもない。ましてや、誰かと比べるものではないよ」
淡い色を纏った髪は、陽に当たってふわふわと揺らめき、優しく煌めいていた。
眩し過ぎる陽の光を遮り、代わりに淡い色の髪が穏やかな光を放つ。
それは、よく冷えた、真っ暗な一人の夜に浮かぶ月を思い出させた。
ふと目を覚ましてしまった時に見上げた、優しい光を纏う白銀の月。
「どうして、そんなになるまで頑張りたいんだい?」
「……わ、たし……私、何も残せてない……、私は審神者だから……、成績……、いい成績を、残さなきゃ…………」
「いい成績を残す。それは、君が本当に頑張りたかったことかい?」
「わたし……、私が頑張りたかった、のは…………」
「君の言う『頑張っている皆』は、一体誰のことだい? 他の審神者? それとも別の誰か?」
「皆は…………、みん、な、は…………」
頑張りたかったのは……。
皆とは。
何かが、喉元まで出かかった。
でもそれは、声になる前に消えてしまう。
まるで昨夜見た夢の内容を思い出せないような、でも確かに夢を見たことだけは覚えていて、ひどくおぼろげなものだった。
深い色をした目が柔らかく細められ、審神者の手を握り直す。
こんなに綺麗な顔をしているのに、触れると刀を扱うに相応しい固い手をしていて未だ驚いてしまう。
「僕は刀を使って戦うことができるけど、君のように美味しいホットケーキは焼けない。君は僕のように刀を使って戦うことができないけど、美味しいホットケーキが焼ける。それでいいんだよ。できる事と、できない事は、ひとそれぞれさ。だから、それを苦しい事と受け止めるのも、ひとそれぞれ。君の頑張った、辛いと思った心は君だけのもので、君にしかわからないことだよ。君が感じたその心を、君自身が蔑ろにしてはいけない」
道迷い、泣きじゃくる幼子の手を引くように、髭切は審神者の手を握り締める。
「それでも、その心を残して置きたいのなら、その心を僕らに託すといい。君たちの抱いた心を、気持ちを、忘れないために、僕達はこうして物語を残してきたのだから」
「………………」
心を、物語を、託す。
その言葉をよく馴染ませるように、髭切の手にきゅ、と力がこもる。
握らされたのは髭切の手……というよりも、もっと大事なものに思えた。
「さあ、手を握って。しっかり握らないと、僕達に振り回されてしまうよ」
その手に、よく、馴染ませてごらん。
そう言った髭切の手を審神者はこわごわと握り返す。
手は固く、大きく、審神者には重たく思えた。
でもそれが髭切なのだと思うと、その形を確かめるように触れ続けた。
重たく思ったのは、その手に、たくさんの想いを託されたからなのか。
「私…………、私は…………」
形、感触、温度。
指先でひとつひとつ知ろうとすると、髭切が擽ったそうに話した。
「君は、すごく真面目なんだね。考えなくていいことまで考えるから、領分以上のことをして自分を追い詰めてしまう。…………でも、そんな君の脆さが、愚かさが、僕はいとしいと思ったよ」
深い梔子色の目は何もできない審神者を見下ろして、それがいとしいと口にした。
脆いと言われた言葉が鈍く胸に刺さったが、見上げた目は審神者が思っていたよりも穏やかなもので、それが指摘ではないことを語っていた。
――その目が、苦手で仕方がなかった。
真っ直ぐと見詰められる目は、まるで自分の主として相応しいかどうか見極めているようで、注がれると息が詰まって仕方がなかった。
でも、その目が今、審神者をいとしいと口にした。
少しもそらされることなく、真っ直ぐと審神者を見詰めて。
「心を残すことは、受け止めることは、とても大きな勇気がいるよね。でも、何かに託してみれば、案外すんなり運ぶかもしれない」
こんな、何もできない審神者にいとしいなんて言葉を送るなど意味がわからなかったが、そんな風に思われていたなど知りもしなかった(きっと、髭切から見れば今の審神者の姿は毛糸に絡まった仔猫を見ているような気持ちなのかもしれないが)。
「しっかりと僕を握ってごらん。君に僕を、よく馴染ませてごらん」
この男は、こんな自分をどうしたいのか。
考えたいのに、髭切の手を握っている内にまた意識が深く沈んでいくような気がして、審神者は抗うことなく目を閉じた。

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