05

何もない、がらんどうの部屋に立たされ、女性の声を聞く。
『お疲れ様でした。これにて演練を終了いたします。次の組がスムーズに入場できるよう、どなた様もお忘れ物のないよう、速やかに退場ください』
物柔らかな口調と声色は自動アナウンスだった。
広い空間にその声は虚しく響き、審神者は弾かれたように顔を上げ、戻らなくちゃとアナウンスに促されて踵を返した。
瞬間、踏み出した足が深く沈み出した。
足は地面を捉えることなく、ずぶりずぶりと沈んでいく。
見れば、審神者の周辺だけに黒い沼のようなものが広がり、審神者だけが飲み込まれていくではないか。
――誰か!
掴まるものもなく、もがけばもがくほど沈んでいく体に審神者は声を上げた。
しかし確かに張り上げた声は音にすらならなかった。
審神者の体は誰に気付かれることなく、深く深く飲み込まれていく。
すると、沼の側で誰かの足を見た。
その足は全身を隠すような大きな布を頭から被っており、薄汚れたその布から見事な金糸の髪を覗かせた。

『最近の出陣は、アンタらしくない』

低い少年の声を聞いた。
少年は氷を含んだような冷たさと固い声で審神者を突き放し、黄金色の隙間から、真っ青な空色の双眸を見せた。

『アンタはアンタらしく、審神者をしっかりやってくれればそれでいい。俺はアンタにそれ以上も以下も望んでいない』

見下される目に、氷を飲みこんだように胸が冷えた。
それでも審神者は、沼に飲み込まれているのも忘れて少年へと声を上げた。
何か、この少年に言わなくては、伝えなくてはならないことがあったはずだ。
そう声を上げたが、声は音になってくれなかった。
それだけでなく、発した審神者自身、今さっき発した言葉が何だったのか、口を開いたそばから忘れてしまう。
――言いたいことが……、伝えたいことがあるのに。
はくはくと口を動かすだけになっても審神者は、少年に向かって懸命に声を上げていた。
その内、もがく審神者を無様だと少年が不愉快そうに眉根を寄せる。

『頑張るって、何を……?』

言われて、自分が少年に向かって発していた言葉がそれだと気付く。
思えば口が勝手にそう動いていたような気もする。……でも、いや、本当に伝えたかったことはそれだったか。それだけ、だったか。
何か大事なことを伝えそびれていないかと思った時。
少年が、空色の双眸で審神者を鋭く見据え、先の言葉に顔を歪めて続けた。

『――それで、どうするんだ?』



――浅い夢を見た。
いや、夢というほど寝入っていない。
過去の出来事をなぞって、そこでうつらうつらとしてしまっただけだ。
顔を少し持ち上げれば、小さなアパートの一室に審神者はいて、あの場所から抜け出せたことに息を震わせ、小さく息をついた。
髭切の朝食が終えた後、ローテーブルの端で少しだけ休憩していたら意識が混濁したようだ。
昨夜はあまり寝付きが良くなかったので、きっとそのせいだろう。
(今日で、三日目…………)
こちら側に戻って、早くも三日目を迎えていた。
一週間で戻るとした休暇は、もう残り四日だ。心身を休めるなんて言って出てきたが、調子は良くなるどころか……。
(悪化している気がする……)
朝食を終え、部屋の窓辺でくつろぐ髭切の姿を横目に、審神者は何も入っていない腹を抑える。
昨日、クレープなんてものを食べたせいか、あれからずっと胃の辺りがきりきりして朝食どころではなかった。
(あと、四日で良くならなきゃ……)
本丸を離れることを伝えた時、薬研が『一週間でいいのか、もっと長く休んだって……』と休みの日数を増やすよう言ってくれていたが、審神者は一週間が限度だと思った。
一週間なら、ほどほどに長く休めて、本丸に戻ったときの感覚も鈍らない。きっと、すぐに業務に戻れる。
そう、七日間が限度だ。
それ以上本丸を空けて戻ったときに、ただでさえ居場所のない自分の席が無かったらと思うと……。
「……あ……」
――がちゃり。何も入っていない胃に飲み物くらいと思って開けた冷蔵庫の中は、からっぽだった。
一週間の滞在でただでさえ入れないようにしている冷蔵庫は、寂しいくらいに何も入ってなかった。
何も入っていないのに中身を冷やし続ける冷蔵庫はまるで自分のようだと、審神者は冷えた虚空を眺める。
そういえば、昨夜髭切が喉がかわいたと言って牛乳を開けていた気がする(結局、公園で買ったクレープは食べ切れず、髭切が二つ食べきってくれたのだ)。
審神者は窓の外を眺める髭切を一瞥する。
髭切は昨日買ったシャツとチノパンという簡素な格好だったが、ただ座っているだけでも絵になる姿は変わらず、この部屋には不釣り合いだった。
やはり見慣れることは一生無さそうだと腹をさすりながら、審神者は鞄から財布だけを取り出した。
「あの……、コンビニで、牛乳買ってくるから」
クレープを食べた後からなんとなくやりとりがぎこちなくなっている(いや、そう思っているのは審神者だけかもしれないが)。髭切と目を合わせたくなくて視線をそらしながら言えば、外を眺めていた顔がこちらに向き、ゆっくりと立ち上がった。
「コンビニ?」
既に玄関へと体を向けた審神者の元へ、髭切がとことこと歩み寄る。
近寄る気配に審神者は逃げるようにして靴を履いた。
「うん。何か買ってくるものある?」
「ううん、ないけど……。僕もついていこうかなって」
その言葉に、嫌な予感が当たったと審神者は背中を向けたまま顔を顰めた。
なんとなく、そんなことを言い出しそうな気がしたのでさっさと部屋を出ようとしたのに、痛む胃に気を取られて振り切れなかった。
「いいよ……、すぐそこだし」
「すぐならいいだろう? 僕も行くよ。最後に牛乳を飲みきったの僕だし、荷物持ちくらいするよ」
そんなことしてくれなくていい。
昨日から髭切に振り回されてそろそろ限界なのだ。
今この場にいることに比べたら、荷物くらいどうってことはない。
それよりも、いい加減一人になりたくて仕方がないし、苦手な相手と同室で息が詰まりそうなのだ。
「大丈夫、髭切は留守番してて」
「でも……」
「いいって……、ここにいて……」
「いや、一緒に行くよ。君、なんだか顔色が悪いみたいだし」
「……っ」
誰のせいだ……!
髭切の方へと向けている体がぴりぴりとざわつく。
というのも、昨日聞いた髭切の言葉がずっと頭の中に残っているのだ。
君が否定するものではないと、自分の意志をはっきりと伝えてきた髭切に、審神者はどうしようもない劣等感を抱いた。
相手は永くあった付喪なのだから張り合う事も比べる事も無いというのに、それ以前に、髭切の言葉を素直に受け止められず、否定さえした自分の心がひどくみすぼらしいように思えて、昨日からずっと苦しいのだ。
審神者は腹を引き掴みつつドアノブを回した。
冷たいドアノブを手に取った瞬間、まるで自分のはらわたを掴んだような気がして、きりきりと絞られる感覚に審神者は両目をきつく瞑った。
(お腹が痛い。引き千切れる。でも、はやく、早くここから、髭切から、逃げ出さなくちゃ)
本丸から逃げ出すようにしてやってきた場所から、また逃げ出すのか。
そう思うと、情けなさに目の奥から涙が込み上げる。
でも、空っぽのはずの腹から逆流してくる吐き気の方が強かった。
もう、いい。かっこ悪くてもいい。
はやく、この男から、この存在から、逃げ出して堪らなかった。
はやく、はやく。でなければ……。
「――僕も一緒に」
「こないで! 近寄らないで!!」
審神者の後を追おうとする髭切に、つんざくような声を上げた。
梔子色の双眸が驚きに見開かれる。
まんまると形を描いたそれに、審神者も思わず振り向いて唇を震わせた。
本丸でさえこんな声を上げたことはない。いや、今まで生きてきた中でこんな攻撃的な声を上げたのは初めてだ。
面食らったような顔にだんだんと血の気が引き、自分の感情に押し流されてひどい態度を取ったことに審神者は目を彷徨わせた。
「…………あ……、あの……、ぎゅ、牛乳、買ってくる、だけ、だから………………」
違う。そんなことよりも謝罪だろう。
大きな声を出して、ひどいことを言ってごめん、と。最初に謝らなくちゃ。
そう思っているのに、震える唇は別のことを喋っていた。
謝らなくてはと思いつつも、私は悪くない、追い掛けてきた髭切が悪いのだ、と言い張る自分もいて、頭と心がぐるぐると目を回す。
(ああ、どうして私は……、こんな事もできない…………)
自分の感情も押し殺せないほど追い詰められていることに、その場に蹲って泣いてしまいたかった。
よりにもよって、この男に感情を乱した姿を見られたのが耐え難かった。
感情に左右されるなんてことはない、余裕と落ち着きに満ちたこの男に。
すぐにカッとなって言い返さないあたり、またこの男の器の大きさを見た気がして惨めな劣等感に苛まれる。
(やってしまった…………)
取り繕うこともできない状況と放ってしまった言葉に、審神者の視線は足元に落ちていた。
いずれそうなってしまうのではないかと懸念していたことが、想像以上にひどい結果として審神者に降り掛かる。
取り返しもつかないのに、それでも謝罪が出てこないのは、初めて人に対して拒絶する言葉を放った動揺が大きいせいか。
どうしてこうなってしまったのだと、ここに至るまでの経過を思い起こすも、それさえもつらい。
「……牛乳、僕が買ってくるよ」
呆然と床を見下ろす審神者に、髭切が言った。
「主は休んでて。何か食べれそうなものあったら、買ってくるね」
感情のまま声を上げた審神者に対して、髭切の態度は優しいものだった。
さらに朝食を食べてない審神者に対して、気遣うような言葉さえかけて、髭切は部屋を出て行った。
(……最低だ)
小さな部屋に、髭切が出て行った扉の音が静かに響く。
(最低だ、最低だ、最低だ最低だ、最低、最低、最低!)
扉が閉まった音を聞いた途端、込み上げてきたのは自責の言葉と涙だった。
目が焼けるほどの熱い大粒の涙が視界を覆い、ぼやけては審神者の世界を滲ませる。
「……うっ……う、あ…………っ」
なんてひどい態度を取ってしまったのだろう。
髭切は審神者を心配して付いていこうとしてくれていたのに。
そもそも彼はくじ引きで決まっただけの、ただの護衛なのに。
そんな髭切に対して力の限り「こないで」と叫んでしまった。
髭切は、ただ護衛として言ってくれたというのに。
「ごめん、なさい……、ごめんなさい……っ」
きっと渋々護衛に付いてきてくれたはずなのに。
こんな自分と一緒なんて誰だって嫌なはずなのに。
狭い玄関で崩れるようにして蹲り、審神者は嗚咽を漏らした。
その場に髭切はいないというのに、居なくなってから繰り返す謝罪に何の意味があるのだろうか。
それでも口をつく言葉はそれだけで、尚更自分が何もできない人間だと思い知らされて、審神者はその場で何度か嘔吐いた。
「――……お、……えっ……げほっ、……おえっ……」
昨日のホットケーキから何も食べていないのだ。嘔吐いて出てくるのは微かな唾液と涙だけ。
それでも吐き気は止まらなくて、口端から溢れる唾液をそのままに、審神者は玄関で嘔吐き続けた。
「…………は…………、はあ……」
散々空嘔をした後、吐き気が少しだけ遠のき、色のない目をそっと持ち上げた。
気を抜けばまた吐いてしまいそうだが、審神者の目に黒い影のようなものが映った。
それを見付けた瞬間、黒い影だけがはっきりと見えて、審神者は靴を脱ぐのも忘れてよろよろと手を伸ばした。
本丸から持ってきたボストンバッグから顔をのぞかせた黒い影。
それはノートぐらいの大きさと薄さの、通信端末機だった。
震える手でそれを掴み、指先で端末の画面を光らせる。
電源を入れる前の黒い画面に審神者のやつれた顔が映ったが、これまで見てきた中で一番ひどい顔だった。
せっかくの休みにこれを持っていくのか、と言った薬研の言葉が過る。
きっと、こんなことをしてる場合じゃない。
薬研の言う通りだ。これは触らない方がいい。
これがあるせいで休まるものも休まらない。わかっている。
でも、置いていくべきのものをこうして大事に持ってきてしまったのは、こんな薄っぺらいものが唯一、審神者が審神者としてあれるものだったからだ。
(仕事……、そうだ、仕事しよう…………)
これが手元にある内は、どんなに戦績が悪かろうが、髭切にひどい態度をとろうが、なんとか審神者でいられるはずだ。
本丸から逃げ出した自分は、髭切を拒絶した自分は、もういらない存在なのではないかと思う心が、懸命に審神者という存在に縋ってしまう。
「未読…………、三百…………」
電源を入れると、メッセージの未読通知が百、二百、三百と増えていく。
わかっていたことだが、たった三日触らなかっただけでこんなに増えていくメッセージに、その分自分が置いてかれている気がして審神者は急いでメッセージアプリを開く。
頭の中でがんがんと警鐘が鳴る。
見てはいけない。見たらまた気持ちが塞ぐ。
わかっていても、これを見ている内は審神者でいられる気がして、止めることができなかった。
(これ以上、誰からも置いて行かれたくない……)
震える手が新たな画面を開く。
開けば、それは審神者の精神を画面の中へと引きずり込んだ。
先まで確かに現世のアパートにいたというのに、たくさんの文字が審神者を襲うようにして絡み付く。
「……っ」
夥しい文字と情報量に、目の前がぐらりと歪んだが、数日休んでいた頭が突如動き出して処理を始めていく。
心臓がどくどくと鳴り出し、興奮にも似た高揚に頭が熱くなる。
それでも審神者は画面に指を滑らせながら、大事なものと、そうでないものを一つ一つ確認しながら処理を続けた。
あっという間に五百近く溜まったメッセージの中、本当に重要度の高いものは限られている。
どうせならそれらだけを送ってくれればいいのに、どうしてか情報共有として送られてくるどうでもいいメッセージばかりが数を占める。
その中に埋もれている重要なメッセージを読み落とさないよう、滑りそうになる目を慎重に凝らし、未読の数を減らしていく。
(大丈夫、読める、読めてる……)
未読メッセージの数を減らしていくと、胸を叩く心臓がだんだんと落ち着いてくる気がして審神者は細く息を吐いた。
本丸にいた頃は新しい情報を仕入れるどころか、文字を見ることすら辛かった。
苦しいのは変わらないが、前ほど読めないわけじゃない。
大丈夫、まだ大丈夫……。
私はまだ審神者でいられる……。
そう自分に言い聞かせ、メッセージを読み進めていた時だ。
「……っ」
一つのメッセージが審神者の目に飛び込んできた。
その文字を見た瞬間、頭を横から殴られるような衝撃がして目の前が真っ暗になった。途端、文字を追っていた目がどこを読んでいいのかわからなくなり、うろうろと彷徨う。
「あ……、あ……」
そこには、演練会場で手合わせをした新人審神者が、また新たな戦果を上げたと華々しく書かれていた。
脳裏に演練で負けたときの記憶が走る。
審神者として多少の自信が出てきたところだった。
後輩には先輩として、連れてきた刀剣男士には本丸の主として、それらしくあろうとしてきたのに。
あの日から審神者は一つ一つのぼってきた階段から転げ落ちていくような日々を送り、本丸の皆からは腫れ物に触るような目で見られ、初期刀の山姥切国広からは……――。

「――主」

大きな手が審神者の目を塞いだ。
「今は休暇中なんだから、そんなものは見なくていいんだよ」
塞がれた視界の中、ゆったりとした声に囁かれる。
食い付くようにしていた画面から引き剥がすかのように、目元を覆った手で後ろへと引き寄せられた。
「大丈夫。焦る必要なんて、これっぽっちもないんだよ」
背中に温もりが触れ、冷え切った審神者の体に熱を移す。
拒絶してしまったひとの声がすぐそこで聞こえ、どうしようもない審神者を宥めてくれていた。
「ちが……、大丈夫じゃない、わたし、がんばらなきゃ、もっと、もっとがんばらなきゃ、いけなくて、みんなに置いてかれて、国広にだって、呆れられて……」
触れる優しい手に、やめてくれ、こんな人間、あなたが慰める価値もないと涙が溢れる。
「彼がそう言ったのかい?」
「目が、国広の目が」
「本当に? 君の知る彼は、君にそんな目を向ける子なのかい?」
「…………っ」
「何もかも杞憂だよ。慎重なことはいいけれど、ありもしない心配をするのは疲れてしまうよ。心がすり減ってしまう」
「でも……、でも、私は……っ」
「うん、君は?」
「わたしは…………っ」
覆われた視界の中で審神者はもがいた。
泥のような暗い気持ちから這い出るように、その先にあの時笑い返してくれた山姥切国広がいる気がして、必死に手を伸ばす。
闇の先、薄汚れた布を頭から被った人影を見た。
その人影は布から眩しいくらいの金髪を見せ、審神者はその名を呼んだ。
しかし声は届かないのか、それとも出ていないのか、人影は審神者に振り向きもしないで先を歩き出す。
審神者はそれでも影の名前を呼び続けた。
何度も、何度も。
体が重い。
闇に飲み込まれてしまいそうだ。
でも、どうかその前にもう一度、あの時見た笑顔が見たい。
――国広!
やがて審神者の声が届いたのか、影が立ち止まる。
そして、よく晴れた日を思い出させるお日様色の髪から、真っ青な空色の瞳を見た。
「――………………わからない…………」
だらりと、審神者は伸ばした腕をおろした。
「もう……、なにをどうがんばればいいのか、ずっとわからない…………」
泥の感情に口を塞がれ、掠れきった声が出た。
闇の先に立っていた国広はもうそこにはいなかった。
国広は最後に、侮蔑の色に満ちた目を審神者に向けて行ってしまったのだ。
もう、ずっと、そんな色しか見ていなかったから、そんな国広の顔しか思い出せなかった。
――ああ、頑張るって、どうすればいいんだっけ。何をすれば頑張ったことになるんだっけ。
ずっと結果が伴わなくて、頑張ることを頑張っているだけで、体と心がぼろぼろになって、使いものにならない自分だけが浮き彫りになっていく。
どうして、どうしてこんな私になってしまったのだろう。
私は一体、何を頑張りたかったのだろう…………?
「…………もう、いい…………」
暗い泥が審神者を覆う。
覆われたところからどろりどろりと体が溶けていく気がしたが、もう国広に見捨てられた自分など、形を成す必要もない。
「…………つかれた……」
両目を閉じる。
もう、何も頑張りたくない。
だって何をしても結果に繋がらない。
それはもう、何もしないのと同じだ。
そうだ、最初から自分は、何もしてなかったじゃないか。
――……ああ。じゃあ、いい。
もう、何もしたくない……。
「――……うん。そうか。それは、つらかったね」
泥のように溶けていく体を、温かい手が掬い上げた。
「………………」
こんなどろどろの存在を誰がすくってくれるのだと泥の中で目を開ける。
「出口の見えない暗闇は誰だって怯えてしまう。いいさ。今はそれでいい」
そこには、梔子色の双眸が審神者を見下ろしていた。
「無理にそこから出る必要はないんだよ。元気になって、その気になったらまた頑張ればいい。じっとその時を待つのも立派な戦略だ。それに、もしかすると出口の方からきてくれるかもしれないよ」
何が楽しいのか、そのひとは泥にまみれた審神者をにこにこと見下ろしては、大事にその体を抱き上げた。
もう形を保っているかすらわからないその体を、温かい手が零すことなくしっかりとすくいあげる。
「大丈夫。今は形を忘れてるだけで、君の思いはずっと君の中にあるはずだよ。一緒に、君が何をしたかったのかを思い出そう」
深い、梔子色の目が柔らかく細められる。
濃く長い睫毛に囲まれた瞳の中に、黒真珠が浮かんでいることに気付く。それは闇の中でもわかるほど黒々としているのに、優しい光を纏っている気がした。
それは、何処かで見た何かを思い出させる。
あれは、何処で見たんだっけ。
何を見たんだっけ。
探るように目の前のひとを見れば、そのひとは嬉しそうに笑った。
「やっと僕を見た」
梔子色の双眸のひとが言う。
「はじめまして、今代の僕の主。僕は源氏の重宝、髭切さ」

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