04

山姥切国広とホットケーキを焼いている夢を見た。
本丸の広い厨房にふたり並んで立ち、次々とホットケーキを焼いていく懐かしい夢。
今はもう焼くこともなくなってしまったが、この頃は新しい仲間が増えるたびに歓迎の意味を込めてホットケーキを焼いて食べたものだ。
出来上がるのは捻りもないただのホットケーキだったが、それでも皆は審神者が作ったものに喜んでくれて、特に国広は自分も手伝っているのにも関わらず二枚、三枚とたいらげるのだ。
綺麗な顔してよく食べるねと言えば、お決まりの台詞の後に「アンタの作るホットケーキはうまい」と言ってまた黙々と食べてくれるのだ。
それを聞くたび、初めてふたりで作ったホットケーキを思い出して審神者は嬉しくなった。あの時焼き上がったホットケーキはまっ黒焦げで、バターと蜂蜜をつけても炭の味しかしなかったが、今まで食べたどのホットケーキよりも格別に美味しかった。
国広も同じことを思い出して言ってくれているのかと思うと、思い出の中のホットケーキはよりいっそう美味しく感じられた。
国広のホットケーキは焼きすぎて表面がかちかちだったが、中まできちんと焼けていて美味しかった。
口に含むとやっぱり焦げた味もついてくるのだけど、それもまた美味しいと思えたのだ。
「――……焦げくさ……」
思い出すだけであの時の焦げた匂いがする……、と夢と思い出の狭間を微睡みながら審神者は目を覚ました。
懐かしい光景を思い出させる夢だったからか、焦げた匂いも追い掛けてきたのかと起き抜けの頭で思った。
しかし、やけに鼻につく匂いにこれは夢じゃないと脳が警鐘を鳴らした。
「焦げくさい!」
飛び起きた瞬間、そこはいつもの本丸ではなく懐かしいアパートの一室だった。
一瞬、また違う夢でも見始めたのかと思ったが、違う、休暇を取ったのだと思い出してベッドから足を下ろす。
そのまま部屋の入口を見れば、扉を一枚隔てた向こうから焦がした匂いが強くなって審神者は声を上げた。
「髭切!?」
安否確認と何が起きたのかと扉の向こうにいるはずの名を呼んだ。
昨夜、ベッドが一つしかない部屋を見渡して寝床はどうしようかと悩んでいると、キッチン前の狭い通路を指さして「僕、あそこでいいよ」と髭切が言った。
もちろんそんなところで寝かせられないと審神者は強く言ったのだが、髭切はさっさと布団を敷いてはそこに寝転がってしまったのだ。
こんなところで髭切を寝かせたなんて膝丸に知られたら……と震える審神者をよそに「じゃあ、おやすみ」と扉を閉められた昨夜から一体何が起きたのか。
勢いよく扉を開けると抑えられていた煙にむわっと襲われたが、その先に髭切が立っているのが見えて慌てて駆け寄った。
「髭切……っ、大丈夫っ!?」
「ありゃぁー……」
煙が立ち上がるコンロの前に髭切は立っていて、困ったような声を出しつつもむくむくと立ちのぼる煙をどこか楽しそうに見上げていた。
笑っている場合ではない。審神者は急いで煙の元を確認して火を消し、同時に換気扇のボタンを押した。
幸い、火にかけたフライパンを焦がしただけで燃えてはおらず、火災にならなくて良かったと心の底から安堵した。
とんだ寝起きだと顔を上げると、審神者の心配などどこ吹く風な髭切が朝の挨拶を告げた。
「おはよう、主」
「……おはよう…………」
この状況下でにこやかにおはようが言える髭切に顔が引き攣る。
「あの、何していたの……?」
フライパンと髭切を交互に見て、審神者は顔を顰めた。よく見ればシンクが粉っぽい。卵の殻も落ちているし、牛乳も口を開けて出しっぱなしだ。
昨夜所狭しと敷かれた布団は玄関の方へと押しやられているし、流しに転がっている卵の殻の数に一体どれくらい割ったのだろうかと気になって疑問は尽きない。
「うん? 朝ごはんを作ろうと思って」
「朝ごはん?」
「うん、昨日ホットケーキの作り方を教わったから、僕もできるかなと思ったんだけど」
どうしてか焦げてしまったんだよね、と不思議そうにする髭切に、焦がしたのはホットケーキだったかとフライパンを覗く。
その上には真っ黒な炭の塊のようなものが歪んだ円を描いており、審神者は溜息と同時に肩を落とした。
「……なんで、また、そんな……」
急に作ろうと思ったのか。
ホットケーキなら昨夜三枚も食べていたではないか。昨日の今日で食べ続けたら流石に飽きてしまうのではないかと小さく呆れると、髭切は可愛らしく小首を傾げて答えた。
「朝起きてご飯が用意されていたら、君がびっくりするかと思って」
「…………」
思いも寄らない返答に審神者は目を丸くさせた。
……髭切が、朝食を……?
(私を驚かせるために……? …………なぜ……)
どうして髭切が審神者のために朝食を作るのだ……、と瞬きを繰り返していれば、そんな審神者の反応に髭切は嬉しそうに目を細めた。
「驚いた?」
ほんの少しの茶目っ気を滲ませた髭切からは、びっくりさせてやるというよりも審神者を喜ばせようとしていたのが感じ取れて、その行為に悪意がないことを知る。
キッチンは煙たく焦げ臭いが、それが審神者を思ってからの行動だとわかってしまうと……、朝から驚かせないでくれと言おうとした気力が削がれてしまった。
「……ある意味びっくりは、した……」
項垂れつつ審神者が率直な意見を述べると、髭切は「ふふっ」と笑って肩を震わせた。
「ごめんね。焦がすのは僕も想定外だった」
焦がしてしまったことを想定外としつつも、肩を落とした審神者を見て嬉しそうにする髭切の様子に、やはり何を考えているのかよくわからない男だと審神者は思った。
でも、朝食を用意しようと思ってくれた髭切のその笑顔は、裏表がないように見えて、つい眺めてしまう。
(……髭切、こんな風に笑うんだ)
というのも、普段の髭切の笑みは何か含んでいるように見えて時々怖いと感じることがあった。
細められた目の奥で、仕えるべき主として相応しいかどうか見定められているような気がして、こちらから長く見詰め返すことなどできなかったのだ。
しかし、今、目の前で見た髭切の表情はどこか親しみさえ感じられ、こんな顔もするのかと意外に思った。……いや、そこまで会話をするわけでも親しいわけでもなかったから、ただ知らなかった……、知ろうとしていなかっただけだろう。
(髭切の主なのに……)
目をそらしていたことを主として反省していると、ボウルを抱えた髭切が審神者の顔を覗き込んだ。
「ねえ。昨夜君が作ってくれたようなホットケーキを作りたいのだけど、もう一度作り方を教えてくれるかい?」
くりくりとした大きな目に覗き込まれ息を詰めたが、その目に他意がないとわかると、不思議と今まで感じていた恐怖は訪れなかった。
(もしかすると、今まで向けられた目も特に深い意味はなかったのかもしれない。私がただ勝手に怯えて、一人で怖がっていただけ……)
審神者は焦げたホットケーキを空いた皿の上に避け、フライパンをキッチンペーパーで一拭きしてコンロの上に置く。焦げたホットケーキは片面だけが黒焦げになっていて、火加減を調整せずに焼いたのが窺えた。
そう言えば、国広も初めて焼いたときは同じような失敗をしていた。恐ろしく美人な男の子が真っ黒なホットケーキを作り出すものだから、初対面の緊張が解れて審神者は大笑いしてしまったのだ。
誰でも得手不得手はある。だいたい顕現したばかりの国広に料理は未知の領域だったに違いない。
わかっていても笑い出すとどうも止まらなくて、そのうち国広もつられて吹き出し、息が苦しくなるくらい笑い合った。
遠い懐かしさに少しだけ肩の力が抜け、審神者は髭切へ向き直った。
「……焼くときの火が強過ぎたんだよ。ホットケーキは弱火でじっくり焼くの」
「一気に焼いては駄目なのかい」
「さっきみたいに焦げちゃうよ。弱い火にかけて、ゆっくり焼き上げていけば美味しいホットケーキが作れるから」
「ふぅん……?」
どこかつまならさそうな返事をした髭切は、できるのならさっと焼いてさっと食べたいとでも考えているのだろうか。それなら、とよくよく混ぜられたボウルを覗く。
「生地は、ダマが少し残るくらいで混ぜるのをやめていいよ」
「そうなのかい? よく混ぜた方がいいと思ってたくさん混ぜちゃった」
「それはそれでしっとりしたホットケーキが作れるよ。でも髭切はふかふかの方が好きでしょう?」
「うん、ふかふかの方が好きかな。君が作ってくれたホットケーキがふかふかでとても美味しかったから」
甘い顔立ちの髭切に微笑まれ、審神者は慌てて目をそらす。
ふかふかのホットケーキというよりも、審神者が作ったホットケーキが良かったと言われている気がして戸惑った。
「……なら、次からはたくさん混ぜなくて平気。生地がぼってりするくらいで大丈夫だよ」
動揺を悟られないよう、髭切が大事に抱えるボウルに指さしてなんとか誤魔化した。
ボウルの中はダマが見当たらないくらいしっかり混ぜてあったので、今朝はしっとりしたホットケーキが出来上がるだろう。
昨夜はふかふかに焼いたので、ちょうどいいかもしれない。
審神者は気を落ち着かせるように一息ついてから髭切にフライパンを持たせ、コンロの前へと移動させる。
フライパンを温め直し、火加減を確認してから生地を高い位置から落とすようにアドバイスをした。
さらさらとした生地がフライパンの上に広がり、綺麗な円を描く。
「ホットケーキって意外に時間がかかるんだね」
焼き始めたホットケーキに髭切が言った。
「君が作っているときは気にならなかったのに、今はとても長く感じる」
弱火で焼き始めているからか、ホットケーキに派手な変化が見られなくて髭切はつまらなそうだった。
今にもひっくり返して確かめたいとする髭切を審神者は宥める。
「そうだね。自分で焼いているときは、私も退屈だったかも」
ゆっくりじっくり焼いていくホットケーキは、焼き上がるまでの時間が手持ち無沙汰だ。
焼き上がるのをじっと待つには飽きてしまうし、他のことに手を付けたら焦がしてしまうかもしれない。
でも、誰かが隣に居て、おしゃべりでもしていれば、その時間も苦ではないかもしれない。
ふつふつと顔を出し始めた小さな泡を眺めながら言うと、髭切が審神者の顔を覗き込んだ。
「昨日は?」
「え?」
「昨日はどうだった? 退屈だった?」
長い睫毛に囲まれた大きな目が審神者の目の前に迫った。……ち、近い、と言うことさえ許されないような迫力に審神者は仰け反る。
「た、退屈じゃ、なかった……よ……」
……気まずくはあったけれど。
でもそれも、ホットケーキを二枚、三枚と焼いていく内に薄れていった気がする。
顔を近付ける髭切にそう返せば、端正な面が頷きと共に和らぎ、温かな眼差しを向けられた。
「そっか」
「…………」
目尻の下がった梔子色の目が澄んで見え、いっそ眩しささえ感じて審神者は目を細めた。
彼のマイペースさに少しずつ慣れてきたのだろうか。
不思議と、以前のような居心地の悪さは感じられなくなった。
あるのは髭切に優しく微笑まれた照れ臭さと、やけに緩やかに流れる時間だった。

***

白のスラックスに、黒のスタンドカラーシャツ。装飾の少ないシンプルな格好は、髭切という優れた素材を嫌というほど美しく魅せていた。
人に愛されたから美しいのか、人の愛を得るために美しいのか、付喪神として魂を得た髭切はまるで見惚れる人々から魂を吸い取ってしまうような恐ろしい美しさがあった。
「主、お待たせ」
そんな目を向けられていることに気付いていないのか、はたまた気にしていないのか。
紙袋を下げて颯爽とこちらにやってくる髭切を見て、審神者はフィッティングルームの側に置かれた椅子から立ち上がった。
「服、ちゃんと買えた?」
「うん」
「お金は足りた? まだ買うものあったら言ってね」
「大丈夫。必要な分は揃えたよ」
朝食を済ませたあと、審神者は焦げ臭い髭切を連れて隣駅にある大型衣料品店に来ていた。
護衛としてついてきた髭切には服をニ、三枚買い与えてあとは内番着で過ごしてもらおうと考えていたのだが、その買い物についてきたことに審神者は少し後悔していた。
「……ここはすごいところだね。どこもかしこも洋服だらけだ」
興味深そうに辺りを眺め回す髭切をこっそり盗み見る。
白いスラックスを着こなす長い足に、黒のシャツ姿になることでわかるしなやかで均整の取れた体。
ふわふわとした象牙色の髪から覗く深い梔子色の目は知性と品性を感じさせ、形のいい唇は口端がきゅっと上がっていて穏やかな印象を与える。
先から横を過ぎる人達が整いきった髭切の顔を見ては驚き、遠くから振り返っては眺めている。
見慣れたファストファッションの店に髭切ほどの美人が登場したものだからその反応は当然だろう。気持ちはわかる、しかし……。
(……視線が……痛い……)
見目麗しい刀剣男士を連れている時点で人からの注目を浴びてしまうのは仕方のないことだ。
ここ最近は本部と演練会場、本丸の行き来しかしていなかったので感覚が鈍っていたが、刀剣男士を外に連れ出すということは注目が付き纏うのをすっかり忘れていた。
(昨日のスーパーは平気だったのに……)
ホットケーキミックスを買ったスーパーは混雑した夕方を過ぎた時間に行ったせいか、今ほど視線が気にならなかったが、ここは場所が場所なだけあり人の興味が他に逸れやすい。
漠然とした目的を持った人達が、思いがけず顔立ちのいい男を見付けては視線が留まる。それだけでも十分に人の視線が集中しているのに、隣に立つ男は人々の興味を根こそぎ掻っ攫ってしまうほどに顔が良い。
魂さえ吸い取ってしまいそうな、もはや神秘的なほどに整った顔の男の存在に店内の視線全てが集中しているようだった。
おかげでその近くに立つ審神者は人に酔ったように具合が悪くなってしまった。
(足に、力が……)
自分に向けられるものなんてオマケ程度だと重々わかっているのだが、それでも人々の関心が集まっていく気配に頭から血が引いていくようで足元がふらついてしまう。
自分でも神経質になっている自覚はある。
向けられる視線は攻撃的なものではないし、視線の先は髭切だ。
自分ではない。
わかっている。わかっている、のに。
その視線が、演練会場で『敗戦が続いている審神者』として向けられるものと錯覚して体が竦む。
そんなわけがないのに。
考え過ぎだと十分わかっているはずなのに。
雑踏に紛れて自分のことを噂しているのではないかと思うと、だんだんと息が浅くなって、見下ろしている床が遠ざかっていくようだった。

「――主」

ふらついた体を、男の手に支えられた。
ぐらりと回りかけた視界から引き戻すように、審神者の両手を髭切が取っていた。
ぐいっと力強く取られた手は一瞬髭切のものなのかと疑ってしまうほど大きくて驚いた。
しかし審神者を支えてくれた手は間違いなく髭切のもので、彼の手が思いの外、大きくて、骨張っていて、男らしいことに気付く。
いや、らしいも何も、彼は最初から刀剣『男』士であったのだが。
「大丈夫かい?」
こちらを見る表情は目を覚ました赤子を覗き込むように穏やかで、先まで審神者を呑み込むようにしていた霧のような暗い不安が、明るい光に照らされたように霧散していく気がした。
「僕のホットケーキ、無理して食べるから」
足に力の入らない審神者を支えつつ、髭切が微苦笑を浮かべた。
一体何の話をされたのかと思ったが、その表情に少しの申し訳無さが見えて、今朝のホットケーキの話だと審神者は慌てて首を振った。
「ち、違うよ……、これは髭切のホットケーキじゃなくて……」
体がふらついたのは、髭切が作ってくれたホットケーキのせいではない。ただの立ちくらみみたいなものだ。
確かに、今朝は髭切が作ったホットケーキと、割るのに失敗したという卵をスープにして食べた。
焦がしたホットケーキを食べようとすると髭切が「無理しなくていいよ、美味しくないよ」と止めたが、審神者のために焼いてくれたものを審神者が食べなくてどうするのだと残さずしっかり食べたのだ。
髭切の焼いてくれたホットケーキは、やはり表面がかちかちで硬かったが、中はなんとか焼けていた。昨日の今日で食感に飽きていたのは否めないが、焼き上がったホットケーキはどこか懐かしくて、優しい甘さが美味しかった……、気がした。
「髭切のホットケーキ、ちゃんと焼けてて、美味しかった、よ」
つかえながらも、しっかり顔を上げてそう言うと、髭切は嬉しそうに目を細めた。
「そう。なら、良かった」
「…………」
美味しかったと話した審神者の言葉に、髭切はゆっくりと頷き、まるでその言葉を待っていたかのように笑みを浮かべた。
――嘘、ついたのに。
(本当は、味なんて、わからなかった)
それでも、厳しい冬から暖かい春を告げる梅の花のように綻んだ笑みに審神者は魅入った。
嘘をついた罪悪感よりも、微笑んだ髭切が綺麗だと思った気持ちの方が勝った。
やはり、この美しさは魂を吸い取るようだ。
普段本丸で共に過ごしている審神者でさえ思うのだから、今日初めて髭切を見掛けた人々は目を奪われて当然だ。
そんなことを思っていると、周囲からの視線に竦んでいた足が軸を取り戻していることに気付く。
ふらつきそうな感覚も薄れている。
髭切が支えてくれたおかげだろうか、気分の悪さもいつの間にか無くなっていた。
(髭切が手を引いて、暗いところから導いてくれたみたい……)
そして導かれた先の晴れた心で審神者は気付く。
自分の手が、ずっと髭切の手に繋がれたままだということに。
「あっ……、あの、ひ、髭切……て、て、手を……」
「うん? ああ、もう大丈夫かい?」
「う、うん、もう平気……」
審神者を支えたつもりの髭切は、言ってすぐに手を離してくれた。
すり抜けていく髭切の温度に審神者はほっとしたが、でもどこか寂しいとも感じ、そんなことを思った自分に驚いた。
何に対して寂しく感じたというのだ。
髭切の感触が残る手を握り込みながら、審神者は店の出口へと足先を向けた。
「じゃあ、もう帰るけど……」
必要な分は買い揃えたと髭切は言っていた。
もうここでの用事は済んだはずだが、買い残したものはないかと一応確認すると。
「主は買わないのかい?」
「へ…………?」
「服。せっかくだから、主も何か買おうよ」
何がせっかくなのやら。
お揃いのキーホルダーでも買うような口振りで話す髭切に審神者は首を振る。
「私はいいよ。何着か持ってきてるし、買う必要がないもの……」
「どうして?」
「どうしてって……」
むしろ、どうして審神者の服まで買う必要があるのだと眉を寄せると、髭切は先程離したばかりの手を取り直した。
「え、ちょ……っ」
「なら、僕が主の服を選ぼうかな」
「はい……?」
「僕が何着か見繕うから、その中で主が着れそうなものを選んでよ」
必要がないと言っているのに突然何を言い出すのか。
再び手を握られていることに戸惑いつつも、審神者は髭切を見上げる。
「いや、あの、せっかく選んでもらっても、行くところないし……」
「それなら僕とデートしようよ」
「でっ、デートッ!?」
「僕とデートは嫌?」
「いやっ、嫌とかそういうのじゃなくて」
「ならいいよね。せっかくだからお洒落して出掛けようよ、きっと楽しいよ。……ええっと、これなんかどうかな。あ、こっちの色もいいね」
「ひ、髭切っ……」
髭切に手を引かれながら、出ていこうとしていたはずの店内に連れ戻される。
ファストファッションで馴染みの店内は前後左右、所狭しと服が吊り下げられ、まるで服の洪水に飲まれるような場所であった。
同じ形、同じ色をしたものがこれでもかとひしめき合い、なんとなく欲しいものが、これまたなんとなく手に入るその空間に髭切はまるで不釣り合いだった。
それなのに、髭切が歩けば道はモーゼの十戒のように開き、手に取ったものが髭切という個に馴染むように別のものに見えるのだから不思議だ。
「うーん、これよりもこっち……、うん、こっちの方が洒落ているし、君に似合いそうだ」
「あの、気持ちは嬉しいんだけど……、私がお洒落しても、意味がないから……」
休暇の審神者を気遣ってか、それとも自分だけ買って忍びないと思ったのか、次々と服のかかったハンガーを取ってはあれこれ悩む髭切を止める。
だいたいデートうんぬん、お洒落をして何処かに出掛ける意味も、今更自分がお洒落をしてどうするのだと困った顔をすれば髭切が向き直った。
「そうかな?」
「……え?」
「僕は、今の君こそお洒落が必要だと思ったのだけど」
真っ直ぐと見詰められた目になんとなく背筋が伸びる。
見下される梔子色の目に、まるで、審神者さえ気付いていないことに躊躇いなく触れようとしているようで心がぎくりとしてしまう。
無意識に力の入る審神者の体を、髭切の手が優しく握り直した。
「もちろん、お洒落を強制するわけではないし、お洒落が不要だと思うのならそれがいいよ。それは今の自分に自信があるという証拠だから」
――でも、今の君はそうじゃないだろう?
はっきりと言いはしなかったが、髭切はそう言い当て、審神者の胸に鋭い言葉を突き付けた。
自分に自信が無い。
剣先のような言葉に喉が上下する。
しかし、握る手が、そうじゃない、これは君を傷付けるためのものじゃないよと優しく包み込んだ。
「何もない日だってお洒落はしていいんだよ。気分転換をしたいとき、元気を出したいとき、お洒落をして格好を付けることは一番手っ取り早く気持ちを切り替えられる方法だよ。過度な装備は時に見破られることはあるけれど、自分を奮い立たせるためにするお洒落は武器であり、己を守るための鎧にもなる。それに、身に着けたものが君に馴染めば、それは君の一部となり、自信になる」
髭切が小さく微笑んだのを見て、審神者は肩の力を緩めた。
知らず詰めていた息を細く吐き出せば、その調子だとばかりに親指が手の甲を撫でた。
呼吸のリズムを整えるように、ゆっくりと滑る。
「だから、今の君にとってお洒落をすることは、武具選びに近いことだと僕は思ったんだ」
強張る指と指を解し、髭切が審神者の手をしっかりと握り直させる。
突き付けた刀を持ち直し、それを審神者の手に握り直させるように。
「さ、どれがいいかな」
そう言って髭切は服の並んだ棚へ体を向けた。
手には自分の買ったものがぶら下がっているというのに、髭切は審神者の手を離さず、目に入ったものを次々と手に取っていく。
(お洒落が、武具選び……?)
いまいち結び付かない言葉を疑問に思いつつ、審神者はふと、通路に置かれた鏡に映る自分を見た。
そこに映る自分は随分と真っ白な顔をしており、背も丸まり、髭切に引かれる腕はひょろひょろとしていることに気付く。
身だしなみのためにも毎朝必ず鏡は見ていたが、そこに映る自分が今にも死にそうな顔をしていることに、こんな顔で街を出歩いていたのかと驚いてしまった。
「うん、これもいいな。僕にも合いそうだ」
すると、そんな審神者の体に服があてられる。
白かった審神者の体に色がさし、顔色が僅かに戻ったような気がした。
いや、実際は髭切が選んでくれた服の色のおかげで、審神者の顔色はそのままなのだが。
「なんで髭切が出てくるの……?」
あててくれた服をそのままに鏡越しに見れば、髭切はまるで自分のものを選ぶかのように楽しそうに目を細めた。
「忘れてしまったかい? 僕も、君が纏うべき武具の一つだよ。ほら……、君に僕はよく似合うだろう」
そう言って髭切は身を寄せてきたが、どこをどう見ても平凡な容姿、疲れきった顔の審神者に、人々の愛を受けて付喪となった男神は不釣り合いだった。
月光で紡いだかのような淡い光を放つ象牙色の髪に、長い睫毛に囲まれた梔子色の双眸。すっと通った鼻梁にふっくらとした瑞々しい唇。どこを取っても一寸の狂いもない完璧な容姿は、取り立て褒めるべきもない審神者には勿体なさ過ぎる。
「私にあなたは、過度なお洒落だわ」
髭切は、自分には眩し過ぎる。
いや、髭切だけじゃなくて……。
目の前の眩しさから逃げるように目をそらすと、髭切があてた服を押し付け、審神者の顎先にハンガーのフックを当てた。
「そんなことはない。僕は君の刀だよ。君の刀である僕が、どうして過度になるんだい」
そのままフックで顎先を持ち上げられ、鏡を見れば、深い色の双眸が審神者を真っ直ぐと見詰めていた。
首に触れたフックがひやりと冷たく、抜き身の刀でもあてられているのかと錯覚しかけた。
「僕は、君に馴染むためにここにきた」
「私に…………?」
何を言っているのだと眉根を寄せれば、髭切の手が審神者の左腰に添えられる。
「だってそれがほら、『僕達』だから」
そこに無いはずの鞘でも撫でるように、髭切はあてた服の端を摘んで審神者の体に合わせた。
そして腰に触れる手が審神者の丸まった背中を押し出し、胸を反らせる。
すると、つられて竦んでいた肩が開き、喉元も開く。
思わず息を吸えば、普段よりも深く入ってきた空気が胸中に満ちる。
締め切っていた部屋に新しい風が入ってきたような感覚がして、静かに目を瞠った。
「さあ、どれを着る?」
新しく取り入れた空気が体内に満ち、古く淀んだものが追い出されていく。
肩を張っただけで息がしやすくなったような気がして、鏡の前の自分が、先見た時よりもしっかり立てているように見えた。
「…………」
審神者を支える手は、添えられる程度にしか触れられていないというのに、後ろから真っ直ぐと棒を突き立てられたような力強さがあった。
振り向けば、穏やかに微笑む髭切がいた。
そっと笑みを浮かべているだけなのに、その笑みは安堵や頼もしさを与えてくれるようだった。
「――……これ……かな……」
審神者はあてられた服を見下ろし、しばし悩んでから返した。
決めるまで離してくれなさそうな髭切に後押しされ、どれなら着れそうか考えておそるおそる指差せば、髭切はそれに力強く頷いた。
「うん、それがいい! 僕もそれがいいと思っていたよ」
審神者が選んだものを、髭切は英断でも下したかのように力強く同意してくれた。
装うことに興味があるわけでもなく、センスもない審神者が選んだものを同意してくれたことに、答え合わせの後のように安堵してしまった。
「……本当に?」
「本当さ」
初めて挑戦した数式のように、これで良かったのだろうかという不安が拭いきれない。
服をあてられた鏡の中の自分はまだ怯えたような顔をしており、なおさら服が似合ってないように見えた。
じわじわと、本当にこれで合っていたのかと決心が揺らぐ。
「大丈夫。今はただ見慣れていないだけ。とても良く似合っているよ。君も、僕も」
すると、その決心は間違いではないと髭切が肩に手を置き、鏡越しに審神者を見詰めた。
口元は笑みを浮かべているというのに、目だけはやたら力強く審神者を見詰めており、その眼差しの強さに尻込みしそうになる。
見慣れていないだけ? 本当に? でも、そんな力強い目をした人に後ろを支えられていると思うと、例え間違いであっても、なんとかなるかもしれないという思いが生まれる。
「さ、お会計を済ましてしまおう。……この服って、買ってすぐに着替えることはできるかな」
「え……、着替えて出るの?」
「せっかくだし、そうしようよ。だってこれからデートだよ?」
「こっ、これから……?」
「はい、気分転換、気分転換」
本当にデートする気だったのか、と髭切を見上げれば、楽しそうに背中を押され、審神者はずるずるとレジへと向かわされた。

***

買った服をお店で着替えるのは初めてのことで、多少恥ずかしかった。着てきた服を紙袋の中にしまい、フィッティングルームを出れば、同じく買ったばかりの服に身を包む髭切が審神者を待っていた。
「やあ。うんうん、よく似合っているよ」
「……どうも…………」
やたら足の長い美形に迎えられ、かなり恥ずかしかった。おまけに先に着替え終えていた髭切は服のおかげか、随分とこちら側に馴染んでいるようだった(それでもモデル雑誌から飛び出してきたような容姿はしばらく注目の的であったようだが)。審神者の方といえば……。
(やっぱり、似合ってない気がする……)
髭切が選んだ中で着れそうなものを選んだつもりだが、服に着られている感が否めない。色の悪い顔が浮いているし、隣には美丈夫がいるせいで、悪目立ちしている気がする。
また周囲の視線がついてくる気がして、手にした紙袋がずしりと重たく感じた。
「主、荷物持つよ」
「え……、い、いいよ。これくらい」
「うん?」
これくらい、なんだい? と小首を傾げ、顔を覗き込まれた。
優しいはずの微笑みから、なんだか断りにくいものを感じて審神者は髭切へと荷物を預けた。……この男、虫も殺さないような顔をしておいて押しが強い。
髭切は当たり前のように荷物を受け取り、これまた当たり前のように審神者の手を取って店の出口へと向かう。
流れるような動作に口を挟む隙もない。
一連のやりとりを見ていた周りから、羨むような視線が付き纏う。刺さる視線に俯きながら店の中を歩いたが、髭切は特に気にした様子もなく審神者の手を引きながら進んでいた。
きっと、髭切にとっては大したことではないのだろうが、審神者は居辛くて堪らなかった。
(早く帰りたい……、なんでデートなんて……)
本当に、何を考えているのかさっぱりだ。
審神者の知る髭切はもっと、良くも悪くも他人に無関心だったはずだが。
「主、僕クレープが食べたいな」
「クレープ?」
「うん。駄目?」
「だ、駄目じゃないけど……」
店を出たところで、藪から棒に髭切が言いだした。
前触れもなくクレープが食べたいなど言い出され多少戸惑ったが、嫌だ、もう帰りたいと返す勇気も審神者にはなかった。
クレープなんて洒落たものが近くで食べられただろうかと頭の中で地図を広げると、薄っすらとした記憶が審神者の検索に引っ掛かった。
「……少し歩いた先に大きな公園があって、そこにキッチンカーが来るから、もしかすると……」
「へえ、それはいい。僕、キッチンカー初めて見るや。行ってみよう」
「え……、う、うん……」
楽しそうにする髭切を見ると、本当は気乗りしない心が居心地悪い。
正直なところ、やっぱり帰れるなら帰ってしまいたい。
もしかすると彼なりに気を使っての言動かもしれないが、そのやり方は今の審神者には強引すぎる。
でも、アパートに戻っても髭切とふたりっきりなのは免れない。
(……まだ外にいた方が逃げ場があるのなら、髭切の気が済むまでもう少し我慢しよう)
そんな失礼なことを考えつつ、審神者は髭切に引き摺られるようにして公園へと向かった。
買い物を済ませた店から十分程度歩いたそこは、木々に囲まれた緑深い場所であった。
駅から少し離れた場所にある公園は中には野球場と、小さな遊具スポット、子供たちが目一杯おいかけっこを楽しむことができる広い芝生があり、平日でも穏やかな一時を過ごす人達で賑わっていた。
「主、見て。種類がたくさんあるよ。どれにする?」
レンガ敷の広場でキッチンカーを見付けたふたりは、運良くクレープにありつけることになった。
ピンクに塗装されたキッチンカーには女性スタッフが一人乗っており、窓から愛想のいい笑顔を送っている。
車の側には木製の小さな看板が置かれており、そこにはメニューが書かれ、フルーツ、トッピング、ソース、単純だがたくさんの情報が入ってくるそれに審神者は思わず後ずさってしまった。
「わ、私はいいや。髭切が好きなの食べなよ」
メニューが、多い。
色んなメニュー名とトッピングがびっちりと書かれたメニューボードに、その中からどれか一つに決めかねた審神者はそう答える。
「せっかくここまで来たんだから、主も一緒に食べようよ」
「で、でも……」
促されてボードの前に再度立つも、メニューが多くて選べないのだ。
何か適当なものを選べばいいのに、迷っている間にキッチンカーのスタッフと目が合い、服屋にいたときのような緊張が走ってメニューの文字が頭に入ってこなくなってしまった。
「あ……、あ、えっと……」
おまけに、キッチンカーの前に立ったせいか、周りがクレープ屋の存在に気付き、なんとなく周囲に人が増えていくような気がした。
自分の後ろに順番待ちの列ができ始めると、審神者はじわりと焦燥感に襲われ、尚更文字が入ってこなくなるように思えた。
(はやく……、選ばなくちゃ……)
ちら、とキッチンカーの中のスタッフを盗み見る。スタッフは変わらずにこにことしていたが、取って付けたような笑顔が怖い。その裏で早くしろよと思われているかもしれない、なんて考えてしまう。
人も集まってきた。後ろに人が並び始めた。髭切も待ってる。
(はやく選ばなくちゃ。選ばなくちゃ)
選ばなくちゃいけないのに文字を読む目が滑る。
冷や汗が流れる。
血の気が引いて、急激に気持ちが悪くなっていく。
世界が審神者のところだけ切り離されていくような気がして、目がおどおどして、頭が真っ白になっていく。
公園の喧噪だけが響く。その喧騒が、自分だけに向けられている気がして意識が遠退く。
皆が、見てる。
何もできない自分を。
やっぱり、何もできないじゃないかって。
どうせまた負けるって。
また失敗する姿を、蒼い目が。

『――それで、どうするんだ』って。

「――主」
「っ……」
足元がふらつき強く目を瞑った時、隣の髭切から手を取られ、顔を覗き込まれた。
飛び込んできたのは蒼い目ではなく、梔子色の目だった。
「僕、この苺のやつとチョコバナナが気になるから、この二つ頼んで半分こしよう」
「…………」
きっとひどい顔をしているはずなのに、髭切は何も指摘せず、にっこりと笑って審神者の手を握った。
「苺とチョコバナナ、嫌い?」
「あ……、う……ううん…………」
「良かった。用意できたら持っていくから、そこのベンチに座って待っててくれるかい」
「…………はい……」
そっと手を離され、髭切がキッチンカーのスタッフに声をかける。
取り残された審神者はしばらく俯いたまま立ち続け、浅い息が整ったあと、のろのろとベンチへ向かった。
気分は、最悪だった。
とても、クレープどころではない。
(……気遣われた……。決められなくて、髭切が決めてくれた……)
気付けばキッチンカーの前には数人の列ができていて、また一組、また一組とキッチンカーへと吸い込まれていく。
崩れるようにしてベンチに腰掛け、審神者は項垂れた。
握り込んだ手先は冷たいのに、手の平はじっとりと濡れていて気持ちが悪い。込み上げる吐き気をなんとか飲み込み、詰めた息を吐けば胃がぐるぐると蠢ている気がした。
横を過ぎる子供たちのはしゃぎ声、カップル達の会話がどんどん遠退くように聞こえ、そのまま意識を飛ばしてしまわぬようぐしゃりと頭を掻き乱した。
歪んだ視界の中、髭切が選んでくれた服が目に入った。
……何が、自分を奮い立たせるための装備だ……。
こんなこと、『中身』がポンコツのままだったら、何も変わらないじゃないか!
「――はい、主」
軽やかな声に呼ばれ、乱した前髪の隙間からそのひとを見上げた。
陽の光に透ける象牙色の髪がきらきらと輝き、やけに眩しく見えた。
「苺もチョコバナナも選びきれなくて助かったよ。ありがとう、主」
「………………」
ありがとうはこちらの台詞だ。何故なら、審神者は苺かチョコバナナかすらも決められなかったのだ。
何気ない言葉の裏で「お前がたらたらしているから選んでやったんだ」と黒い声が聞こえてくる気がして慌てて押し込んだ。
髭切からクレープを一つ差し出され、審神者はキッチンカーと同じ色の包み紙を巻いたそれを受け取った。
ほんのりと温かい薄いクレープ生地の向こうから、冷えたクリームと果物の感触が伝わる。
白い生クリームの上に飾られたものを見て、チョコバナナの方を手渡された事がわかる。
しかし、こんな気持ちではとてもじゃないが食べる気など起きない。
たっぷりと乗った生クリームを見ているだけでも胸やけがしそうだと、込み上げる吐き気を飲み込んだ時だ。
「僕、クレープを食べるのも初めてだなぁ。ええっと、これってどこから食べるんだい?」
審神者の横に腰掛けた髭切が、両手で挟むようにしてクレープを掴み、首を傾げる。
「あ……、ここの端から……」
「……?」
クレープを食すのは初めてだと口にする髭切に、審神者はクリームが顔を出す生地の端を指さした。
それでも髭切は首を傾けたままで、まるで買い食いを初めてする御曹司の図(『御曹司』という言葉を取り上げるのならあながち間違いではない)のような姿に、審神者は食べる真似をしてみせた。
「こ、こう」
「…………」
すると、それを髭切が見詰めた。
大きな目でじっと見据える髭切は、審神者がクレープを食すところを待っているようだった。
深梔子色の目が一挙一動を眺め、穴が空くのではと思うほど向けられる強い視線に審神者は目を泳がす。
それでも髭切の目はぴたりと向けられており、今、この場で、一口食べるまでこのままだというのを察して審神者はクレープに小さく齧り付いた。
「美味しい?」
髭切が聞く。
見詰められながら食べるクレープは、味がわからなかった。いや、味覚はだいぶ前からおぼろげで、わかるわけがない。
紙のようなクレープ生地と生クリームのもこもことした食感が口内に残り、バナナの粘膜が舌に纏わり付く。
気を抜けばそのまま戻してしまいそうになるのを堪え、審神者は答えた。
「…………わかんない」
クレープを楽しみにしていただろう髭切に、そんな感想はいけなかっただろうか。
ただ、今はそんなことしか返しきれなくて、そんなつまらない感想しか出なかった自分が激しく嫌になった。
「そっか」
それでも髭切はさした気にした様子もなく、視線を落とした審神者の横でクレープを頬張った。
淡泊な返事に顔を上げると、髭切は初めてだと言っていたくせに豪快に齧り付いていた。
一口。もう一口。ぱくぱくと食べていく髭切を眺めながら、八つ当たりをするようなつまらない返事をしてしまった申し訳無さから審神者は聞き返した。
「クレープ、美味しい?」
聞けば、髭切は食べるのをやめ、こくりと喉を上下させてから頷いた。
「うん。甘くて美味しいよ。……でも」
「でも……?」
ふと何かを思い出したように髭切が言葉を切る。
その続きを待てば、髭切が目を細め、審神者の耳元でこそこそと囁いた。
「主が作ってくれた、ホットケーキの方が好きかも」
キッチンカーの方を一瞥し、内緒話でもするかのような悪戯っぽい表情をした髭切に審神者は眉を寄せる。
「ホットケーキなんて誰が作っても同じ味だよ……」
「そうなのかい?」
「そうだよ……、ホットケーキミックスを使ったレシピなんて、どれも同じ味じゃない……」
「うーん? それでも僕は、君の作ってくれたホットケーキが美味しいと思ったよ」
「そんなはず……」
下手なリップサービスはやめてくれ、と少しうんざりした思いで振り返れば、髭切は手にしたクレープを下ろし、ゆっくりと審神者に向き直った。
「僕達は物だから、物に込められた思いには敏感なつもりだよ。確かにこのクレープも美味しいけれど、昨夜君が僕のために焼いてくれたホットケーキは、とてもとても、美味しかったと僕は感じた。これは、僕が感じた僕の気持ち。君が、否定するものではないよ」
「…………」
深い色をした双眸に穏やかに見詰められながら、ざくりと頭から斬られたようだった。
おそらく励ましだった言葉が、こんなに鋭く尖って突き刺さることはあるだろうか。
髭切なりに美味しかったと伝えてくれているのはわかる。それでも、最後の言葉が弱った審神者の心を強く抉る。
いや、言葉ではない。
(ああ……、だから嫌なんだ、この刀…………)
意志の強さ。
今の審神者に圧倒的に足りない、自分は自分とする個としての意志の強さ。髭切にはそれがある。
こんなに優しそうな顔をしておいて、意志の強さがはっきりと感じ取れるほど、この男は自分への自信に溢れているのだ。
それは余裕というものを通り越して、もはや風格。
覇気とでも言えばいいのか。
審神者には、どう足掻いてもないものだった。
どこで失ったのか、そもそもそんなもの最初から審神者には備わっていなかったのか。
「はい、主。交換しよ。苺、少し酸っぱいかも」
「…………」
途端、自分の自信の無さを浮き彫りにされて、心が吹き荒れた。
差し出されたクレープを前に、地面が引き裂け、ふたりの間に深い谷底ができたように思えた。
深淵へと誘う風はそこから吹いているようで、審神者を突き落とさんばかりに吸い込んでいく。
荒む風に為す術もなく、谷底へと引きずり込まれる体に審神者は、助けてくれ! と反対側の岸を見る。
しかしそこに立つのは、象牙色の髪をした髭切ではなく、眩しいほど煌めく金色の髪と真っ青な空色の目を持つ少年だった。

――それで、どうするんだ。

少年の口が、確かにそう動いた気がした。
瞬間、審神者の立つ場所が崩れ、深い深い谷底へと体が落ちていくのを感じた。
空に向かって伸ばした手は、かすりもせず真っ逆さまに落ちていき、審神者の意識はそのまま闇に飲み込まれた。

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -