03


現在、九つある期生でいえば第四期生。
この歴史修正主義者との戦いは、当初備前国と相模国の二つのサーバーから始まった。
その後すぐに山城国が増え、大和と美濃が続く。しかし圧倒的な敵の数に時の政府は適性のある一般人から大量に審神者を募った。
そのサーバー拡張に伴う大量補充の際に、この本丸の審神者は就任した。
就任した時期は、全審神者の中で言えばちょうど中間だ。
最初に述べた備前から始まる美濃までのサーバーは同月にて解放されたので、昔から審神者を輩出している家から出ているサラブレットか、審神者学校を出た審神者になるべくしてなった審神者達が大半を占めている。
ゆえにこの本丸の審神者は先輩として一目置かれるほど古株ではなく、かといって新人審神者と可愛がられるほど気に掛けられる存在でもなかった。
むしろ中堅として新人審神者を引っ張れるような戦績を残すのが好ましいとされるポジションであった。
といっても『適性があるので説明会に来てくれ』と突然紙一枚だけ送られてきたと思えば、すぐに『五振ある刀から好きな刀を選んでくれ』と言われ、気が付いたら隣に金髪碧眼の美少年が隣に立っていた審神者からすればなんのこっちゃ、という話なのだが、これまではそれなりの戦績を残せていた方ではないかと思っていた。
そう、手探りながらも初期刀の山姥切国広と、初鍛刀の薬研藤四郎で頑張ってきた方だと思っていた。――躓くまでは。
数か月前、審神者は演練で敗戦した。
その時連れていた部隊がレベリング中だったこともあり、申し訳なくなるくらいコテンパンにやられてしまった。
自分の采配と双方の実力を見誤ったと、審神者は深く反省した。
連れてきた部隊には次こそは頑張ろうと励まし、後日、別の審神者へと演練を挑んだ。
しかし、次こそは勝たせてあげようという思いに反し、審神者達は再び敗戦してしまう。
敗戦が続くと少なからず審神者のプライドが傷付いた。
そんなに優秀な審神者が参加しているのかと端末で調べると、どちらも新人だと聞くから驚いた。
そして、そんな新人審神者に負けてしまったことに動揺した。
新人審神者はもうそんなに力をつけているのかと。
動揺は続く試合にもなんとなく響いてしまい、その日の演練は苦い結果で終わってしまった。
連れてきた部隊には嫌な思いをさせてしまったと申し訳なさが襲い、それと同時に新人審神者に負けてしまった焦りが隠し切れなくなってしまった。
その焦りは演練だけでなく、のちに通常任務にも支障をきたし、本丸の皆へと伝染した。
日に日に通常任務にもミスが目立ち、任務が遂行できずに撤退が続く。
演練はともかく、通常任務はまずい。本部に提出する報告書に失敗の文字を書き連ねるたび、審神者の心はひどく落ち込んだ。
いいや、実際に戦場に立っていない自分が落ち込む権利などない。なんとかしていつもの調子を取り戻し、戦績を持ち直さねば本丸の士気にも関わると気持ちを奮い立たせるも、一度躓いてしまうと後は階段から転げ落ちるようにして敗戦と撤退が続いてしまった。
するとどうだろうか、審神者の中で出陣に対し恐怖を感じ始めた。
もう何をしても失敗してしまうのではないかという恐怖。敗戦に対し、残念だと分かち合う気持ちがいずれ、お前のせいだと鋭い刃物のように自分へ向けられてしまう恐怖。
上手くやらねばと思うたび焦りが募る。あれもこれもこなさなければと必死に手を付ければ全てがおざなりになり、集中力も分散し何もかもが中途半端になった。
結局何もできずに失敗が続いてしまう。その後、無事任務が遂行できたとしても、それまでの撤退が過ぎり、ちっとも嬉しいと思えなかった。
(自分が今どこを踏みしめているのかもわからない。人の目が怖い。また失敗だとどこかで噂されている気がして、誰とも目を合わせたくない。がっかりした目を、見限られた目を、あの蒼い目から向けられていると思うと私は……)
「――主?」
階段をあがったところで、梔子色の目が視界に飛び込んできた。
一瞬、金髪に隠れた蒼い目かと思って審神者は身構えたが、目の前にいたのは象牙色の髪に深梔子の目だった。
「どうしたんだい? 部屋、わからないのかい?」
心配そうに、というよりも不思議そうにこちらを覗くのは源氏の重宝、髭切だ。
今回休暇を取るに当たり、本丸の皆から護衛を付けて欲しいと言われて付いてきた刀だった。
厳選なるくじ引きで決めたと山姥切国広に言われたが、それを聞いた時、本当は誰も付いていきたくないからくじ引きで決めたのではないかと邪推してしまった。
護衛を付けることに関しても、誰も付けないのは体裁が悪いからと、審神者のいないところで皆話し合ったのではないかと勘繰ってしまう。
(違う、馬鹿。私の刀達はそんなひどいことを思わない。全部私の被害妄想だ、落ち着け、落ち着け)
暗い思いに引きずられそうになったのを深呼吸で落ち着かせる。
足元を見ればコンクリートの地面とくたびれたパンプスがそこにあった。
ゆっくりと顔を上げると、髭切と、懐かしいアパートの風景が視界に入ってきた。
そうだ、ここは、本丸ではない。
「ううん。大丈夫、部屋はわかるよ」
込み上げる思いを封じ、使い古した笑みを張り付けて言えば、髭切は「そう」と短く返して背を向けた。
どうしたのだと聞いてきたわりには大して興味がなかったのか、それとも現世が珍しいのか、猫のような目は気まぐれに辺りを見渡していた。
駅から徒歩十分。食料を買い込む大型スーパーは駅の反対側にあるが、その代わり近くにコンビニがある。
夏はアイスがすぐに買いに行けて便利だったなと思い出しながら、審神者も釣られて数年振りに戻ってきたアパートを見渡した。そして政府本部から借りた鍵を鞄から取り出し、到着した部屋の小さな鍵穴にそれを刺し込む。
鍵は滑るようにして鍵穴に入っては奥で止まる。ゆっくり回せば鍵の開いた音がして、審神者はドアノブを握って久々のアパートへ帰宅した。
(狭い玄関だな……)
数歩歩く余裕もなく小さな玄関でパンプスを脱ぐ。
なんとなく振り返れば、髭切がそのまま上がろうとしていたので、狭いだろうがここが玄関なのでここで靴を脱いでくれと言えば「おお」と驚いていた。
短い廊下の途中に洗面所と風呂があって、トイレが続く。その反対側に小さなキッチンがあり、一枚の扉を隔てて部屋がある。どこにでもある、一人暮らし用の小さなアパートだ。
(狭い部屋も、変わらない……)
現世で休みを取りたいと本部に申請を出せばすぐに許可がおりた。
追って本部職員からメッセージが届き、審神者になる前に借りていたアパートをそのまま使用することができるがどうするかと聞かれ、それでいいと返事を打った。
どうしても実家に帰る気は起きなかったので、以前過ごしていたアパートにそのまま戻れるなんて願ったりかなったりだと思ったが、逆にいつでも審神者を辞めることができるのだなともわかってしまった。
本部は審神者が審神者を辞めた際、それまで過ごしていた生活に戻れるよう、ちゃんと準備をしていることがこれでわかった。
申請がおりてすぐに本部からアパート使用の連絡がきたのもなんとなく察しが付く。こうしてしばらくの休暇を取る審神者も珍しくないのだろう。
そしてそのまま、本丸を去ってしまうことも。
(……それも、いいかもしれない。もう私は、きっと、頑張れない。なら、もう…………)
「……ここは、君の香りでいっぱいだね」
電気をつけると、部屋の真ん中に立った髭切がすうと息を吸って呟いた。
「え?」
「ううん、なんでもないよ」
髭切の言葉を聞き返せばにっこりと笑みを向けられ、審神者もぎこちなく笑い返してやりとりを濁した。
くるりと背を向け、ベランダへ向かって外を眺めだした髭切に審神者はこっそりと溜息をついた。
先程もそうだが、髭切が相手ゆえに追って聞き直す気が起きない、と。
すらりと背が高く、後ろ姿からも高貴さが漂う男に狭いアパートの掃き出し窓はミスマッチだった。
白いジャケットに白いスラックス。真っ白な衣服は引き締まった体と指先まで気品溢れる彼によく似合っていたが、似合い過ぎてそこだけ異次元のように思えた。いや、付喪神なので異次元なのはあながち間違ってはいない。
ここが銀座や青山だったのならこの異次元さもまた違って見えたに違いない。
平凡なアパートに連れてきてしまったことを審神者は少しだけ後悔した。
(でも、なんでよりによって髭切が護衛なんだろう)
くじ引きで決めたとは聞いていたが、護衛に決まったとしてもその場で断ることもできただろう。
そのまま護衛を引き受けたのは何か理由があってのことだろうか。それともさして断る理由がないから引き受けたのか。
(気が重い……)
正直なところ、審神者は髭切が苦手であった。
マイペースというか、独特の雰囲気を持っているというか、何も考えていないようで実は何かを考えていそうな、腹の内をまったく見せないところが難しい……、いや、はっきり言わせてもらえば、あまり関わりたくないのが本音だ。
本丸内で遭遇しても挨拶をするだけで会話が長く続いた試しがないし、出陣の際に指示を投げるだけで親しいやりとりなどこれまで一度もしたことがない。そうだというのに、彼は何故護衛を引き受けたのか。
髭切を寄越されるのならまだ……――。
脳裏に浮かんだ金髪に審神者は慌てて頭を振った。
(まだって何よ。……言えた立場でもないのに)
思い掛けた自分に呆れる。
休暇と称して逃げただけなのに『まだ』などと取捨するような言葉を使うとは何様のつもりだ。
(最低だ……)
ささくれ立つような感情に腕を強く掴んだ。血が出てもいいから、心をぼろぼろに掻き毟りたくなった。
血だらけの心はさぞ惨めで無様だろう。掴んだ腕に爪を突き立て、ずきずきと突き刺さる痛みをじっと耐えていると、不意に外を眺めていた髭切が振り返った。
「ねえ、主。お腹すかないかい?」
「お、お腹?」
「うん、そろそろ夕飯にしよう。僕ぺこぺこだよ」
そう言って髭切は腹を擦った。
正直、審神者の方は空腹ではなかったのだが、アパートの鍵を受け取りに本部へ行き、数日の食料を買いに近くのスーパーに寄った時には既に夜を迎えようとしていたので、髭切が空腹なら審神者の体も空腹なのだろうと思った。
「ああ……、うん、そうだね」
ここ最近は食欲がわかず、味もよくわからないままご飯を済ましていた。
本丸では厨当番が元気のない審神者を気遣い、さり気無く好物を用意してくれているのに気付いていたが、正直味などよくわからなくなっていた。
あるのは生命維持のような義務的な行為で、そこに食事を楽しむという心はない。
用意してもらった手前「美味しかったよ」と伝えはしたが、困ったように笑う当番の顔を見ると、あちらも審神者の嘘に気付いていたような気もしていたが……。
「ねえねえ、僕あれ食べたい」
せめて、この休暇で味覚くらいは取り戻したいと考えている審神者の横を髭切が通り過ぎ、キッチンのシンクに置きっぱなしにしたレジ袋を漁った。
がさがさと音を出す袋の中には簡単なものしか入れていないはずだが、そういえば髭切が買い物かごに何かを入れていたのを審神者は思い出す。
入れる際に「これもいいかい?」と聞かれたが、特にたいしたものではなかったので「どうぞ」と短く返した覚えがある。
それが何かと探るよりも、駅前の小さなスーパーで見ることは無いだろう高貴な顔立ちの美人が人目につかないかと心配して早く出たい思いの方が強かったのだ。
髭切がかごに入れたものは何だったか。あれは、確か。
「あった、あった。これがいい。ホットケーキ」
取り出したのはホットケーキミックスだった。
ホットケーキの写真がプリントされた四角い箱を取り出し、髭切が審神者の前に持ってきた。
狐色のホットケーキにたっぷりのバターと蜂蜜をたらした写真と髭切を、審神者は交互に見た。
「卵も牛乳も買ってあるから作れるけど……、夕飯これでいいの?」
せっかく現世にきたのだから、少し足を伸ばして店に行くこともできる。デリバリーだって可能だ。
それなのに混ぜて焼くだけのお手軽ホットケーキが夕飯でいいのだろうかと聞けば、髭切はにっこりと笑った。
「うん、これがいいんだ」
ここまではっきりと言われてしまえば、作るしかないだろう。
休暇早々夕飯がホットケーキなんて地味だなと思いつつも、夕食のために再び出掛ける気力も無ければ、美味しいかどうかもわからないのだ。
何を食べても一緒だと審神者はキッチンへと向かった。

***

日用品や部屋にあった家具も以前使っていたまま……というわけにはいかなかったが、本部からきちんと代用品が用意されていた。
部屋には新しいベッドとソファ、テレビとローテーブル。キッチンには鍋やフライパンはもちろん、冷蔵庫や電気ケトルもあったので十分過ぎるくらいだ。もしかすると以前よりも家具は豪華になっているかもしれない。
部屋の間取りは見知ったものなのに、家具だけは真新しくてなんだか不思議な感覚だ。アパートメントホテルに滞在しているような違和感さえある。日用品や家具などは使っていけばその内馴染むだろう。それよりも今は……。
「主、これくらいでいいのかい?」
「うん、大丈夫。ありがとう。……じゃあ、あとは私が焼くね」
「隣で見てても?」
「……どうぞ」
勘弁してくれと思いつつ、審神者は髭切からボウルを受け取った。
ボウルの中は髭切が混ぜてくれたホットケーキミックスが入っている。
作り始める前、箱に書いてある分量を確認しながら牛乳と卵を用意していると、横から「手伝うよ」と言われた。
コンロは一つしかないし、ホットケーキを作る工程で手伝いを必要とする過程はあっただろうかと審神者は考えたが相手は髭切だ。少し悩んでから混ぜる工程をお願いすれば「まかせて」と随分得意げに返してきたので、審神者の読みはあながち違ってはいなかったようだ。髭切が料理をしている姿など見たことが無い。
審神者は混ぜ合わせた生地をお玉ですくい、火にかけたフライパンの上に落とす。
火加減を見れば隣の髭切と目が合い、にこりと微笑まれた。審神者はそれに気付かなかったフリをして視線をそらし、こっそり溜息をついた。
(……髭切とやっていけるかな)
休暇にきたつもりがへとへとになって本丸に戻る、もしくは今よりももっと落ち込んで戻ることになってしまったらどうしようという不安が頭をもたげる。
(元気にならなくちゃ、いけないのに)
既に我慢できない気まずさを感じているが、髭切がぴたりと横にいて落ち着かない。何か気の紛れるような話題はないかと探ったが、髭切と親しい会話などしたことがない。
それでも沈黙のままでは息が詰まる。何かないかと必死に会話の引き出しをひっくり返していると、そう言えば以前もこんなことがあったと、本丸の厨でホットケーキを焼いたことを思い出した。
あの時、審神者の隣にいたのは初期刀の山姥切国広だったが、ふたりとも出会ったばかりで互いに互いを探り合い、今よりもっと気まずい沈黙が流れていた。
思いがけず似たようなことをしている……と、フライパンの上の生地に視線を落としていると、隣の髭切がふと口を開いた。
「……薬師の子から聞いたんだ」
「……え?」
突然話し出した髭切に審神者は聞き返した。
「新しい刀剣を迎えるたびに、君がホットケーキを焼いていたって」
薬師……薬研から聞いたという話に、いつの間にそんな話をしたのかと少しだけ戸惑いはしたが、審神者は目を彷徨わせつつ小さく頷いた。
「ああ……、まあ、そんなこともしてたね……」
「僕がきたときにはそういうの、やってなかったから。少し羨ましく思っていてね」
「…………髭切が?」
羨ましい、という言葉とは無縁だと思っていたひとから聞かされ、今のは髭切の話で間違いなかっただろうかと確認すれば僅かに苦笑された。
眉尻を下げ、少しだけ困ったように髭切が笑う。
「ここに僕以外いる?」
「いや……、うん、そうなんだけど」
初めて見る髭切の表情に、そんな顔もするのかと審神者は小さく驚いた。
「髭切がそんなこと思っていたなんて、知らなかったから……」
言ってくれればホットケーキくらい、いくらでも焼いたのに。
そう付け足せば、髭切は何処か遠くを見るように目を細めてから、審神者へ微笑んだ。
「うん、言ってないからね。だから言ってみることにしたよ」
目を細めた横顔からは哀愁さえ感じたというのに、こちらへ向けられた表情はいつもの穏やかなものだった。あまりにも一瞬で見間違えたのかとさえ思ったが、ざわついた審神者の胸が勘違いではないことを告げていた。
「君が作ってくれるホットケーキがすごく楽しみだよ」
「…………」
それが、あまり喋ったことのない髭切を前に感じている気まずさのせいなのか、よくわからないが。
「伝わった?」
「う、うん……」
小首を傾げた髭切に、審神者はフライパンへと視線を戻した。
焼き上がるのはただのホットケーキだというのに、まるで長い列を作って食べるパンケーキのように言う髭切に、審神者は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
作ってあげるのなら、もう少し凝ったものを用意すれば良かったと後悔するも、審神者のホットケーキが楽しみだと口にする髭切にそれ以外のものを出すのはなんとなく違う気がした。
生地の上の小さな泡が、相槌を打つように小さく浮かび始めた。
こんなものでいいのだろうかと思いつつも、あの髭切が楽しみだと言ってくれたことを審神者は少なからず嬉しく思った。
それが本音かどうかはわからないくらい意外な発言ではあったが、嘘でもそんなことを言ってくれたことの方が大きい。
(私にとってはただのホットケーキだけど、髭切にとってこれはただのホットケーキじゃないのかもしれない……)
審神者の作るホットケーキが楽しみだと言った髭切に、素直に嬉しいと返せたらどんなに良かったか。
今はまだ、隣に立たれる気まずさを押し込むのがやっとで、髭切を前に素直な感情を伝えるのは難しい。
伝えきれぬ感情を逃がしてしまわないよう、審神者はフライパンの上に蓋をした。
小さなキッチンに充満する匂いを胸いっぱいに吸い込み、審神者は心をそこに込める。
(……せめて、美味しく焼けますように)
狐色に焼けたホットケーキは、優しくて甘い味がするような気がした。

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