料亭 源氏香

ガラス戸の続く回廊を足早に進み、いくつも並ぶ個室を抜けて、建物の一番奥まった場所へと向かう。
柔らかな光が零れる障子の前で膝をつき、「失礼致します」と小さく告げると、中から優しく、伸びやかな声で「どうぞ」と返ってきた。その声を聞くだけで蝋燭を灯したかのように染まる頬を俯いては隠し、私は部屋の戸を開いた。


「髭切様、いらっしゃいませ」


部屋の中心にその人がいるのを確認しつつ、頭を下げたままそう口にすれば、その人がやんわりと目を細めたのを空気で感じ取った。その人が微笑むと、その場の空気でさえ柔らかくなるのだ。


「やあ、名前。今日もご飯食べにきたよ」


黄みがかかった薄い灰色の髪に、深い梔子色の瞳。
お名前を、源髭切様。この料亭を昔からご贔屓にしてくださる大事なお客様だ。


「入っておいで。もっと顔をよく見せて」


部屋の外で頭を下げたままの私へ、髭切様が優しく声を掛けてくれる。お言葉に従い、頭を下げ直してから躙るようにしてお部屋へと入り、そっと顔を持ち上げる。
目の前には、神様が特別愛情を込めて作り出したに違いない、美しい顔の男性がいた。
象牙色の髪に包まれた白く小さなお顔。影を作るほどに長い睫毛。すっと筋の通った鼻に薄く形のいい唇。お顔だけ見ると女性かと見間違うほどなのだが、仕立ての良いジャケットを羽織る肩は広く逞しい。
遠目から見てもその美しさに圧倒され、長く見詰めることなどできやしないのに、こうして近くで拝見すると、ただただ頬を染めて俯くことしかできない。


「ありゃ。もう顔を見せてくれないの?」


着物に合わせて髪を纏めているので隠しようもないが、赤くなる頬を少しでも誤魔化すように視線を下げると、すぐにくすくすと擽ったい笑い声が耳を掠める。


「……先週も、お会いしました」

「そうだね。でも一週間ぶりだよ。もっと近くにおいで」


ご結納や結婚式などで使われることも多いこの料亭を、まるで行き付けのカフェか何かのように利用するのは多分この方だけだ。――入って半年程度の私をわざわざ担当にしてまで。


「……床の間の花、綺麗に生けているね。名前がやったの?」


髭切様を前にどうしたらいいのかわからず、ただ下を向いたままの私へと穏やかな声が降り続ける。髭切様の声が優しければ優しいほど、背中が汗ばむほど頬が赤くなってしまう。


「も、申し訳ございません……。一応、先生から教わってやってみたのですが綺麗にできず……。その、次からは先生の花を飾ります……下手で、すみません……」


髭切様が口にされた床の間の花は、いかにも私が生けた花だ。華道の先生に教わって生けてみたのだが、素人が見ても十分出来が悪い。育ちの良い髭切様が見れば、さぞかしヘンテコな生け方なのだろう。恥ずかしさに肩を縮めると、すぐに髭切様が言い直してくれた。


「そんな事一言も言ってないよ。あの花は……、先週君が僕へどんな花が好きかと聞いて僕が答えた花だ。僕を思って用意してくれたんだろう? なら、十分に綺麗だよ。それに、とても可愛い」


……花、だ。髭切様が可愛いと仰ったのは間違いなく花のことだ。絶対。
わかっていても、都合のいい私の頭は私が可愛いと言われたような気がしてその言葉が延々と響く。


「ねえ、いつまでそうやって俯いているの?」


可愛いと頭の中で響く声と共に、髭切様の声が被さる。
からかうようなお声が耳に擽ったい、と目を強く瞑っていれば、耳に何かが触れている気がしてはっと目を見開く。開いた視界の先に、いつの間にか近寄っていた髭切様の膝が見えた。


「耳まで赤くなって……。可愛い」


すりすり、と髭切様の指が私の耳に触れており、本当に擽られている……っ! と驚くのと同時に、耳のすぐそばで聞こえた声に髭切様との距離を悟ってしまい息を詰める。


「あ、あ、あの、ご、ご、ごじょうだん、を……っ」


仲居としてもっと経験があれば、こうして悪戯をするお客様をもっと上手にかわすことができたのだろうか。如何せん勤めて半年程度の私にはこの髭切様をいなす術を持ち合わせていない。
金魚のように口をはくはくさせていると、そんな私の顔を覗き込むようにして髭切様が目を細める。


「冗談……、じゃないからやってるんだけどなぁ」


その細め方が最早生け簀の金魚を空から狙う猛禽類のようで、私は慌てて飛び退いては声を上げた。


「お、お、お、お料理の準備をさせて頂きマスッ!」


先輩に聞かれたらまず怒られること間違いなしの大きな声……しかもだいぶ上擦ったものを出して私は髭切様がいるお部屋から逃げるようにして出て行った。
猛禽類は金魚など食べない……! 猛禽類は金魚など食べない……! と自分に言い聞かせながら私は板場へと向かい、またお料理を持ってあの部屋へと戻らねばならないことを考えては、「ふぁ……っ」と弱々しい溜息をついた。
そんな私を、髭切様がくつくつと笑っているとは知らずに。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -