白緑の糸

(めっ…………)

滅多に見ることのない光景に、自室に戻った審神者はしばらく目を丸くしてはその光景に見入った。

(珍しい……膝丸が……)

審神者の執務室兼自室には、しばしの休憩を言い渡した内番着姿の膝丸がおり、膝丸は壁に背中を預けるようにして腰をおろしていた。片膝をたて、その膝に腕を置いては俯いている。
それだけならば膝丸がただ楽にしているだけでそう珍しい光景ではなく、審神者も特に見詰めるようなことはしないのだが、驚くのはその膝丸が静かに目を閉じていることなのだ。
切れ長の凛々しい目が、長い睫毛と共に伏せられている。おそろしいほど長く密度の濃い睫毛は膝丸の目下に影を作り、その目がしっかりと閉じられていることを告げている。
形のいい薄い唇からはすうすうと小さな息が聞こえてきて審神者は何か見てはいけないものを見てしまっているような謎の罪悪感に苛まれつつも、目を閉じる膝丸の顔に見入ってしまった。

(膝丸が、眠ってる……)

気が付けば膝丸の側へ足音を殺して近寄り、その顔を覗き込んでいた。衣擦れの音で彼を起こしてしまわぬよう、肩にかけた羽織の胸元を強く引き寄せる。
決して膝丸の寝顔が珍しいわけではない。膝丸とは主従でありながら、恋仲でもある審神者は彼の寝顔を見るのがこれが初めて、というわけではない。共寝した朝、ごくまれに彼の寝顔を見ることがある。……といってもだいたいは審神者よりも早く膝丸の方が起きていたり、審神者が目を覚ますと膝丸もすぐ気が付いたりと、正直彼の寝顔を見たのは数えるくらいなのだが。それでも膝丸の寝顔を見るのはこれが初めてではない。
では何が珍しいのか。

(膝丸もお昼寝とかするんだ……)

穏やかな性格の兄、髭切と比べると、弟の膝丸はしっかり者のイメージが強い。現に審神者の頼れる近侍として、日々審神者業務のサポートから助言、相談まで何でも引き受けてくれる。彼に甘えては駄目だと気持ちを引き締めても「何か手伝えることはあるか?」と聞いてくれる膝丸の優しさに甘えてしまう審神者で、こんな審神者を支えて大変じゃないだろうかと思うくらい、彼は勤勉なのだ。
ゆえに休憩中だろうが何だろうが、居眠りやお昼寝とは程遠いところに彼はいると思っていたのだが。

(いや、お昼寝くらいするよね。だって、いつも頑張ってくれているもの……)

出陣から内番、審神者のサポートまで幅広く頑張らせてしまっているのは審神者自身なのだが……、と一人審神者は笑みを引き攣らせた。

(それにしても……。ほんとう、綺麗な顔だなあ)

情けない笑みを引っ込め、審神者は再度膝丸の珍しい寝顔をそっと眺めた。
白に近い白緑の美しい髪が彼の右頬にかかる。同色の眉は目を閉じていても意思の強さを感じるほどに凛々しく釣り上がり、薄い唇はきつく結ばれている。寝姿でさえも彼が精悍な顔をした人物だというのがわかるが、零れ落ちる白緑の髪が雄々しいだけではない彼の品の良さを物語っていた。

(……いけない、人の寝顔をまじまじと見るなんて)

はしたない、と審神者はすっかり見惚れてしまった頬を小さく叩き、その場から立ち上がる。

(急ぎの案件も特にないし、今日はもう休ませてあげよう)

むしろ業務が一区切りついていたので休憩を言い渡していた。
このまま切り上げてもいいくらいだったので、審神者は眠っている膝丸を見下ろしては静かに微笑んだ。それから自分の羽織を肩から外し、それを広げては膝丸の肩へと掛けてやった。途中、彼が起きてしまわないかと胸をどきどきさせたが、その目は一度も開くことはなかった。
そうっと、そうっと。その場から離れ、審神者は自室の戸に手をかけては、自分でさえ聞き逃してしまいそうなほど小さな声で囁く。


「…………おやすみ、膝丸」


しばらくこの部屋の近くには誰も近寄らないようにしてもらおう。少しの間だけかもしれないが、膝丸がよく眠れるように。そう審神者が自室を後にしようとした時だ。


「――こら」


審神者の体が後ろに引き寄せられる。その力は優しいものだったが、肩に置かれた手は簡単には放さないとばかりのしっかりとした手付きだった。
審神者の背中が何かに当たり、すぐ後ろから聞こえた声に審神者は目を丸くさせる。


「膝丸…………!」

「君の部屋なのに何故君が出ていく」


不満を滲ませた声の持ち主は膝丸で、部屋を出て行こうとしていた審神者を咎めるように見下ろしていた。先程まで閉じていたはずの目には梔子色の瞳が覗いていて、すっかり寝ていると思っていた人物に後ろから抱き留められて審神者は狼狽えた。


「な、何故って……っ」


戸に掛けていた手を膝丸の手に掬い取られ、隙間を埋めるように審神者の指の間に膝丸の指が入り込む。手を繋ぐ、というよりも繋ぎ止められたという気持ちの方が大きい。
珍しく膝丸が寝ていたから休ませようと退室しかけたのに、その休ませようと思った人物に引き止められてしまった。
きゅう、と切なげに絡まる指に意識を持っていかれそうになりつつも審神者は顎を持ち上げるようにして膝丸を見上げた。


「膝丸、寝ていたんじゃなかったの……?」


寝ていたはずでは、と後ろから抱き締められたまま見上げると、膝丸は右頬にかかる白緑の髪を僅かに揺らし、首を傾げた。


「俺が君の断りもなしに居眠りをしたことがあったか?」


おかしなことをいう、とばかりに返された言葉を自分の中で反芻し、審神者は「なっ……!」と小さく声をあげ、口をはくはくと動かした。膝丸の言ったことを受け止めるのなら、彼は最初から眠ってなどおらず、大変紛らわしいことに、大変紛らわしいことに! ただ目を閉じて静かに座っていただけということになる。それはつまり……。


「……君が俺の顔をまじまじと覗き込むから、声を掛ける機会を失ったのだ」


少しだけ言い難そうに、面はゆそうに言った膝丸に審神者は言葉を失くす。
ばっちり気付かれていた……!
膝丸の寝顔をじっくり見ていたのを……!
膝丸の綺麗な顔にすっかり見惚れていたのを……!
審神者は小さな口で「あっ」「なっ」「うっ」など、言葉にならない声を繰り返しては、居たたまれない自身の顔を両手で覆った。


「よくもまあ、飽きもせずあれだけ見ていたな。俺の寝顔はそんなに君の関心をひくもの…………主?」


……もうそれ以上掘り下げてくれるな。と顔を俯かせる審神者に膝丸は不思議そうに瞬きを繰り返した。いつの間にか繋いだ手がほどかれているのをつまらなそうに見下ろし、その手で審神者の体を包み込むように抱き締める。


「まあ、俺も君の寝顔ならいくらでも見ていられる」


そういうことだな。と審神者に言っているのか、それとも自身に言い聞かせているのかわからない膝丸の言葉に審神者は思わず顔をあげてしまう。


「何の話……!?」


もしかしなくとも普段から審神者の寝顔は見られていたのだろうか。
人に長く愛されたから美しいのか、人に長く愛されたいから美しいのか、おそらくどちらの意味を持つであろう美しい付喪に平々凡々な容姿である自分の寝顔を見られていたと思うと羞恥で顔が赤くなるのを隠せない。
膝丸の腕の中で身を捩り、恨めしい目で膝丸を睨み上げれば、それを見下ろす膝丸が何故そんな目を向けられるのかまったくわからないという顔をしていた。
……きょとんとした顔さえ悔しいくらいに可愛い。
しかし審神者がこんなにも恨めしい気持ちと悔しい気持ちを込めて睨んでも、膝丸はそれを仔犬か仔猫が毛を逆立てて唸っているかのように微笑ましげに目を細めるだけだった。


「君は……、ほんとうに可愛いな」

「おちょくってます……!?」

「おちょくってなどいない、本当に思っていることだ」


嘘だ、絶対に嘘だ。
しかし、もし、もしその言葉が本当だとしたらそれはきっと小動物に与えられるものであって、決して恋人に向けるような甘いそれではないだろう。
そう審神者はますます頬を染めてはどう言い返していいのかわからず言いあぐねては……。


「う〜……っ」


膝丸の胸に額をぐりぐりと押し付けるようにして言葉にならない不満を訴えた。
小さな頭を押し付けてくる審神者に膝丸は目を丸くさせたあと、頬を綻ばせ、ほら可愛い、と微笑んでいたのを審神者は知らない。


「せ、せっかく休ませてあげようと思ったのに……!」

「なんだ、俺を休ませようとして退室しようとしていたのか」


そうだ。日頃世話になっているから休んでもらおうと部屋を出ようとしたのに、何故こんなことに。気をきかせたことが裏目に出るとはどういうことなのだろう。

(膝丸の寝顔をこっそりじっくり見ていたことがバレるし、膝丸は寝ているフリをしているし、可愛いなんてからかわれるし……!)

これはもう休ませようだなんて気をきかせてあげる必要はないのでは!? と審神者はキッと目をつりあげた。
主人である自分をからかうなど言語道断。恋仲ではあるものの、やはり審神者として誰が主なのかをはっきりさせてやらねば、と口を開きかけた時だ。


「俺を休ませたいのなら簡単だ。君も一緒に休めばいい」


ふわり、と審神者の肩に自分の羽織が戻される。
膝丸の顔が目の前まできて、あまりの近さに審神者は思わず仰け反るも、羽織ごと引き寄せるようにされて離れることは叶わない。


「い、いや、あの、私がいたら……、休まらないでしょう……?」

「そんなことはない。むしろ何故だ? 君は俺といると休まらないのか?」

「えっと……、そ、そんなことは……」


休まる、といえば休まる。心を許しているのだから。しかしこの状態で休まるか休まらないかと言われたら、答えは否だ。


「君が目の前にいるのに君を抱き締められないのは空しいのだが」

「え……えぇ……?」

「まして……、ここは君の部屋で君の香りに満ちている。そんな場所で君の羽織だけを抱いて眠るなど、逆に気が散って休まるものも休まらん」


すらすらと何やら物凄いことを言われている気がするのだが、至極まっとうなことを言うかのように真顔で話す膝丸に審神者の頭には疑問符しか浮かばない。
何か、膝丸が言っている。しかし膝丸の言っていることを理解してしまえば頭が爆発するのではないかと審神者の中の何かが必死に理解するのを押し留めている。


「あ、あの、私、あ、主だから、いたら、休まらない、よね……?」


それでも不自然にならないよう必死に会話を続けようとする審神者だが、最早何が自然で何が不自然なのかもわからない程に膝丸の言葉に惑わされてしまっている。
少しでも膝丸の言葉を聞き入れてしまえばそのまま飲み込まれてしまうのではないかという危機感だけがじわりじわりと滲んでくる。


「君、俺の話を聞いているか? 俺は、君がいるのに君を抱き締められないというのは我慢ならないと言っている」

「あ、あぅ」


ひた。ひた、と。
まるで小さな虫が引っ付いたかのような感覚が審神者のうなじに走る。ちらりと横目で見れば膝丸の指が審神者の首にまわっており、その指が悪戯に審神者の首を擽っているのだと気付く。


「――俺の腕の中にいるときくらい、審神者の名を忘れろ」


低く、甘く、少し掠れた声がそっと耳元で囁かれ、審神者は喘ぐように息を吐いた。ぐっと抱き寄せられる腕は逞しく、絡み付くように審神者の細腰にまわる。


「俺を休ませたいのだろう? なら、君も審神者の名を忘れて大人しく俺に抱かれるんだ」

「……あっ」


首裏を撫でていた手がするすると滑り、審神者の頬、顎の線を撫で、その撫でた場所を膝丸の唇がそっと追い掛ける。
熱のこもった膝丸の唇が触れるか触れないかの焦れったさで審神者を追い詰める。腰を抱く手が滑るように審神者の尻を撫で、丸みを味わうかのように優しく円を描く。


「あっ、だ、だめ……」

「駄目じゃない。俺が君にして駄目なことなどない。…………そうだろう?」


まるで、そうだと言わせるように膝丸が囁く。審神者の頬に口付けながら膝丸が頬を擦り寄せると、膝丸の長い白緑の前髪が審神者の顔にまとわりつく。
音をつけるのなら、ひとひとと。
まるで、蜘蛛の糸のよう。
梔子色の瞳に浮かぶ黒真珠の瞳孔が針のように細まり、先程とは違う艶めいた頬の染め方をする審神者を満足そうに見詰めた。甘い息を吐き出す唇に唇を寄せ、膝丸は牙を覗かせ薄く口を開いた。


「――ひ……膝、丸……っ!」


唇が重なる寸前、審神者が膝丸の胸を強く押し返した。
完全に審神者の動きを封じたと思っていた膝丸の目が黒針を浮かべたまま驚きに見開く。
それに気付いているのか、いないのか。審神者は上気した頬のまま訝しげに膝丸を見上げた。


「もしかして…………か、拐かしてる?」


――もしかして、と疑わずとも。
喉元まで出かかった言葉を膝丸は飲み込み、瞬きを一つ落としては薄く笑って見せた。小首を傾げると肩に白緑の髪がさらりとかかる。


「……どうかな」


次に睫毛を伏せたあとには、膝丸の瞳孔は元の黒真珠へと戻っており、審神者は膝丸の妖しげな雰囲気には飲まれないぞとすっかり警戒しきっていた。


「す、すぐ変なところ触る……!」


審神者の臀部に触れる手を審神者がばたばたと振り払い、膝丸はふんと鼻を鳴らす。


「撫でていただけだ」

「それを触るというの……っ!」

「なら、可愛がっていただけだ」

「あ、ああ言えばこう言う……っ!!」


つんと顔をそらした膝丸に審神者はぐうと喉を唸らせる。
審神者の頼れる近侍は勤勉でありながらも、ある程度以上の我儘と我の強さも持ち合わせていた。流石源氏兄弟と言えばいいのか。やんごとなき出の刀は切れ味も持ち味も一まわり違う。


「俺を休ませてくれるのではなかったのか」

「さ、審神者は別売りです……っ」

「いいや、同梱されているはずだ」

「非売品です……っ」

「知っている。こんな可愛いものが売り物ならすぐに買い占めているところだ」

「あっ、ちょっ……、ん、もう……っ」


膝丸を押し返す腕を取られ、覆い被さるように抱き直され、審神者は文字通り膝丸に丸め込まれるようにされてしまう。言い返そうにも口を塞ぐようにきつく抱き締められ、審神者は黙るしかなかった。
まるでテディベアにでもなった気分だ……と強く抱き締められる腕の中で思っていると、膝丸が小さく呟いた。


「……代価を払って手に入るのならどんなに楽か」

「……え?」


ぽつりと溢した声に審神者が聞き返すと、打ち消すように抱き締める腕に力が込められる。少しの息苦しさに「ひざ、まる?」と名を呼ぶと、その腕はゆっくりとほどかれる。
緩んだ腕の中から膝丸を見上げれば、そこには拗ねたようにこちらを見る膝丸がいた。


「……で、俺を休ませたい主は俺と共に寝てはくれないのか?」

「え……ええっと…………」


物言いたげな顔で言われ、タダでは放さないという膝丸の訴えを感じた審神者は逃げるように目を泳がせた。しかし泳がせた目を捕まえるように膝丸が額を合わせては無理矢理目をこちらへと向かせる。
主、と短く呼ばれ、審神者は思わず目を瞑ってしまう。それでも退く気配のない膝丸におそるおそると目を開いては、そろりと膝丸を見上げる。指先で手繰り寄せるようにして膝丸の上着の裾を握った。


「……膝丸が、変なことをしなければ…………」

「………………………………」


不安そうに、恥ずかしそうにも言った審神者に膝丸は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
変なこととは具体的にどのようなことを指すのだ、と聞きたくなるのをぐっとこらえ、膝丸は審神者の唇にそっと口付けた。
きゅっと瞑る目を見詰めながら優しく、柔らかく押し付けた自分の唇を噛み締める。


「……何もかも、君次第だ」


膝丸はそう言って眉間に深い皺を刻みつつ、審神者の手首を取り僅かに開いていた戸を閉めた。
自分を労ってくれる気持ちがあるのなら少しくらい騙されたふりをしてくれればいいものを。靡きもしない審神者に膝丸は一層愛しさを募らせるのであった。

白緑の糸

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