蝉が鳴きやむまで

人の姿を得て、初めて『夏休み』とやらをもらった。
大将が突然俺に夏休みを告げたのだ。
最初はずっと任されていた近侍をおろすという意味かと思って大将に詰め寄ったが、何やらそうではないらしく。政府が抱える審神者の人員がある程度潤ってきたらしく、審神者同士ローテーションを組んで夏休みを取る制度が始まったのだという。だから大将も順番で夏休みをもらうこととなり、数日前に荷物をまとめて実家へと帰って行った。
その間の本丸は管理者不在のため機能を停止することとなる。出陣も遠征も演練も、『お休み』となる。もちろん俺の近侍としての役割も『お休み』となった。そもそも大将が居ないのだから近侍をやろうにもできないのだが。
ともかく、そういうことで俺は今、夏休み中なのだ。


「具合はどうかな? 薬研」

「……一兄」


粟田口の寝所として用意された大広間で一人、俺は布団の上で横になっていた。
外からはうるさいほどの蝉の声が聞こえてきて、一匹ずつ捕らえて箱の中にでも締まってやりたいのだが、数が多過ぎてどれから捕まえればいいのかわからない。そもそも、タオルケット一枚を腹にかけ、ぐったりと寝ている俺にそんな体力など無かった。
横になった俺の枕元に一兄が腰をおろしては俺の顔を覗き込む。その顔が少しだけ嬉しそうに見えるのは多分、普段手のかからないやつの世話ができて嬉しい、とかそんなもんだろう。


「医者の不養生、なんてよく言ったものだね」

「こんなの、体調不良のうちにも入らん」


夏休みが始まって数日、ここ最近続いた暑さによる食欲不振と睡眠不足により、情けないことに俺は夏バテというものを経験した。
大将が本丸にいる内は出陣から遠征、演練、大将の事務作業の手伝いなどやることがあったおかげで暑くとも他に集中することがあった。おまけに動いているから腹もしっかり減る。しかし大将が居ない夏休みとなると、ひたすらする事もなく、ただぼうっと過ごしてはじりじりとした暑さを感じ、じっとりと汗をかいて気分がだんだんと悪くなっていった。


「しっかり水分をとって、よく寝ていなさい。主が戻られたらお前はまた近侍として動かねばならないのだから」

「…………」


むしろ、大将には今すぐ戻ってきて欲しい。
こんな情けない姿は絶対に見せられないが、大将が戻れば気が引き締まる。大将の前でこんな格好はできない、もっと大将から頼られる存在でなくては、と意識をすればこんな夏バテなど何処かに吹っ飛ぶような気がする。
大将が居ればこんな情けないことにはならない。(大将にかっこ悪いところは見せられない)
大将が居れば食欲だって戻る。(大将が俺の隣で美味そうに食事をしてくれればそれだけで箸が進む)
大将が居れば睡眠不足なんてならない。(大将がおやすみと俺に言ってくれれば次の朝のおはようが楽しみになる)
夏休み前、大将は俺に「私が居ない間羽を伸ばしておいで」と言った。好きなことを好きなだけすればいいとも言っていた。でも駄目だ。


(大将が居なきゃ、何したって楽しくない)


まとめて読もうと買い込んでいた医学書も、時間があれば作ろうと思っていた薬も、一兄につけてもらおうと思っていた稽古さえ身が入らない。
そこに大将が居なくちゃ、全部意味のないことなのだ。
医学書は大将が怪我をした時のため、薬は大将が体調を崩した時のため、稽古は、大将を守るため。


「薬研……?」


指の隙間から泥のように落ちていくどうしようもない感情に浅く息をつき、手の甲を目蓋に押し当てる。どろどろと落ちていく泥が、自分の体を飲み込んでは体を蝕むようだ。それを笑うかのように蝉がまた騒々しくなり、一兄に背を向けるように寝返りを打った。背中からくすりと小さく笑った声がして、一兄が静かに立ち上がった。


「もう少し休んでなさい。体力が戻れば、頭もすっきりするよ」


くしゃりと頭を撫でられ、そっと一兄の気配が遠ざかる。遠退いていく足音を聞きながら、俺はまた寝返りを打った。
嘘だ。
休んでも、これは絶対に治らない。
大将がここに戻らない限り俺はずっとこのままな気がする。この体のだるさも、胸の気持ち悪さも、泥のような心も。ひたすら気持ちが悪くて、ひたすら大将が恋しい。
大将は実家に帰ると言って出て行ったが、この本丸は大将の家ではないのだろうか。俺に羽を伸ばしておいでと言ったが、大将も俺が居ないことで羽を伸ばしているのだろうか。大将は俺が居なくても、なんとも思わないのだろうか。
ぐるぐると回る負の感情に呼応するかのように蝉の鳴き声が一際強くなり、俺はそれを振り払うかのようにタオルケットで身をくるんだ。
うるさくてかなわない。
大将が居れば蝉の声なんてなんとも思わなかったのに。蝉の声なんかよりも、大将の声が。


「…………」


ふと、蝉の鳴き声が和らいだ気がした。
あんなに勢いよく鳴いていたのに。
心なしか、暑さも引いている気がする。
強く瞑った目をそっと開けると、部屋が橙色に染まっていた。そして、小さく鼻歌が聞こえてくる。少しだけ調子外れな、優しい声の歌。


「……あ、ごめん。起こした?」

「……大、将……?」


優しい手つきで頭を撫でられ、撫でられたその手を目で追えば、そこにいるはずのない人が俺の顔を見て微笑んだ。
夢、だろうか。


(大将の戻りは、確か、明後日のはず……)


夏休みの最終日に大将は戻ってくると言っていた。
けれど、俺の目の前には確かに大将がいる。
やはり夢なのだろうか。


「夏バテ、大丈夫? 何か食べれそうなものあったら持ってこようか。あ、それより先にお水だね」

「……っ、大将」


持ってくるね、と立ち上がろうとした大将を慌てて呼び止めた。せっかく大将がそこにいるのに、すぐに離れてしまうだなんて。起き抜けに頭がまだぐらぐらとしていたが、大将の手を取って、その手を自分の額に当てた。華奢な指が自分の指と僅かに絡んでいく。


「頼むから、もう何処にも行かないでくれ……。大将が居ないと、俺は何もできん」


それはもう、呼吸さえも。


「………………」


…………。
ふと、ほぼ無意識に掴んだ大将の手の感触がやけにはっきりと感じられ、俺はぱっちりと目を開く。
うるさかった蝉の声が一匹二匹程度にしか聞こえてこない。肌を焦がすような強い日差しもなく、優しい橙色が空を包んでいる。
それを背景に、夕暮れの空に負けないくらい頬を染めている大将が、いた。


「た……っ、……大将!?」

「は、はいっ、私が、た、大将、です……」


それは、知っている。すごく。とても。
何故なら、体調を崩すほどに会いたかった人なのだから。
てっきり夢かと思っていた存在に思わず本音をこぼしてしまった。なんて言い訳をしようかと口をはくはくとさせていると、大将が、掴んだ俺の手をきゅっと握り返してきた。俺の心臓も、きゅっと握られた気がした。


「あ、あのっ……! は、はやくっ、帰って、きたの!」

「あ、ああ……、確か、戻りは明後日……」

「そうなの! な、なんでかっていうと……! あの、その……!」


もじもじと、大将の細い指先が俺の指先に絡む。
夕暮れの空に溶けていく太陽のように、とろりとした瞳が恥ずかしそうに俺を見詰めた。


「お家に帰っても、薬研が居なくて……。寂しくなって、か、帰って、きちゃいました……」


泣き出してしまいそうな程頬を染めた大将の声はかわいそうなくらい小さくて、可愛くて、愛しくて、恋しくて。
我慢できない程に胸が苦しくなって俺は大将に口付けた。
大きく目を見開いた大将に続けて二度、三度と自分の唇を優しく押し付けた。
柔らかな感触にあれほど重たかった体や胸のむかつきが綺麗さっぱりと晴れていく。その感覚に思わず笑ってしまった。鼻先を擦り、唇に触れるか触れないかの距離でそっと目を伏せる。


「……おかえり、大将」

「たっ、ただいー」


あんなに恋しかった大将の声を塞ぐように口付け、大将の手を取って二人布団の上に転がる。


「蝉が、鳴きやむまで」


夕暮れよりも紅く美しく染まる頬にそっと触れては目を細める。もう一匹しか鳴いていないだろう蝉の鳴き声を聞きつつ、俺はやっと与えられた夏休みを抱き締めた。

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