その感情の名前を俺はまだ知らない。

主の匂いが、あまり好きではない。
勘違いして欲しくないのだが、それは主が臭いとかそういう訳ではない。断じてないし、決して違う。むしろ主からはいつも花のような、水菓子のような、そのどちらとも似つかないような、でも甘くまろやかで、瑞々しい香りがする。それは彼女の部屋に入った時や、彼女の後ろを付いて行くとき、通りすがったとき、いつもふんわりと香っては俺の鼻を擽る。香を焚き染めているのかと聞けばそうではないと返され、「ああ、シャンプーかな?」と言われ自分も試しに(こっそり)使用してみたが(こっそり主のしゃんぷーを拝借した時まるで自分が変態にでもなったかのような罪悪感に一週間苛まれた)、同じような香りは出なかった。それはつまり、あの馨しい香りは、彼女の体から発せられるものだと理解した。
そう思うと、その香りを嗅ぐと何だか彼女を嗅いでいるような気がして(いや実際にそうなのだが)、大変居たたまれない。思わず深く嗅いでしまいそうになり、何度息を止めたかわからない。主のその香りを嗅ぐと、(息を殺しているからではない)苦しさが胸を襲い、もっと近くでたくさん嗅いでみたいなどという実に変態極まりない思考に陥るゆえに、俺は主の匂いが、あまり好きではない。


「ごめんなさい、擽ったかった?」

「い、いえ…。」


間近で香る、主の香りに俺は座ったままの姿勢で固まった。例のごとく、息を止めたのだ(深く嗅いでしまいそうになってしまい)。
戦場から帰還し、戦況報告後、たいした怪我でもないのに手入れ部屋へと連れて行かれ、主に手当てをして頂いていた。擦り傷程度の、本当にたいした怪我ではないのだが、主はどんな小さな傷でもすぐさま治してくださる。むしろ小さな傷でもどうってことはないと放置すれば、数刻前のように口をむっとへの字にしそれは大変可愛らしく怒る。「何で隠すの!」「私が頼り無い?」と上目に睨まれても俺にとってはただただ可愛いだけなのだが、主が本気で怒られている前でそんな事は口が裂けても言えない。


「もう、博多に言われなきゃずっと言わないままだったの?」

「申し訳ありません…。ですが、主が気にするような怪我でも…」

「なぁに?」

「…いえ。なんでも。」


一緒に出陣した博多が主に告げ口をしたのだ。長谷部が怪我をしていると。怪我という程でもない薄い切り傷であったし、主のお手を煩わせるような事はしたくなかったし、何より…。

(ああ、この香りだ…。)

気を抜けば、このだらしのない鼻は主の香りを感じるといっぱいに嗅いでしまう。しかも、主にバレないよう静かに、息を潜めて嗅ぐ(そういうところがまた変態っぽくて嫌になる)。手入れをされる時の主との距離は近い。今日は肩を掠ったので、すぐ横を見れば主の伏し目がちのお顔がよく見える。自分とは違う柔らかい線で描かれる輪郭に、まあるい肩、華奢な体、小さな手、桜色の爪、白い肌。そして、あの香り。思わずまた深く吸い込みそうになったのを顔をそらして誤魔化す。やはり、あまり好きではない。この香りを嗅いでいると、なんだか自分がひどく堕落するような、ああもう言ってしまえば変態になった気分だ。


「はい、終わり。」

「申し訳ありません、お手を煩わせてしまい…。」

「そう思うのなら素直に自己申告すること。隠される方が私はイヤ。」

「隠しているつもりは…、」

「はーせーべー。」


ぐっと強く香った主の匂いに何だと振り返れば、主の顔がすぐそこにあり、思わず後ろ手をついて身をそらす。それでも主は「私怒ってるからね!今とても怒ってるからね!」という表情で(ああもう俺を睨んでも可愛いだけです主!)身を乗り出してくる。すると無闇に嗅ぐまいとしていた香りが容赦なく自分を追い掛けてくる。
甘くまろやかで、瑞々しい香り。花のような、水菓子のような、そのどちらとも似つかないような。
こちらが身を引いているにも関わらずどんどんと距離を詰める主に、香りに、俺は堪えるようにぐっと両目を瞑ったのだが、構わず強くなる香りに張っていた肘がかくりと曲がる。


「主っ、待っ…!」

「わっ、ちょっ…!!」


俺が姿勢を崩したことで身を乗り出していた主も同じように倒れ込む。咄嗟に主の体を自分の胸で抱きとめた。
大事を取るような怪我ではなかったため、布団など敷いていない畳に自分の頭をぶつけたが、主が無事ならそれでいい。無意識ではあったがちゃんと主を抱きとめられてそっと安堵した。
が、その抱きとめた状態に俺は言葉を失った。
主との距離が近い。ものすごく。
いや、ものすごくという次元をはるかに超えているというか、もう、触れている(抱きとめたのだから当たり前なのだが)。

(……細い…、)

片腕ではあるが、抱いた主の体は自分や他の個体と比べてとても小さく、薄く、そして柔らかかった。こんな華奢な姿で日々どう過ごせるのかと不思議に思うくらいなのだが、日々きちんと過ごされているのだから、これが『女の体』というものなのだろう。そして俺はハッとする。

(主の、匂いが…。)

彼女の匂いが近い、というよりも、濃い。
彼女の体の線を表すような、柔らかく、まろやかな甘い香り。瑞々しくて、馨しく、なんて、


(―――美味そうだ…。)


そう、急激に乾きだした唇を舌で舐めた時だった。


「ご、ごめんなさい長谷部…!!だ、だ、大丈夫!?怪我は…!」


慌てて起き上がった主は声をあげて狼狽えた。抱えていた主の温かい重みがすっと消えて、胸が少し冷える。それと同時に頭もなんだか冷えた気がして、空になった腕を目に当てた。


「…頭が………、」

「そ、そうだよね!ごつんって音したもんね…!待ってて!冷やすもの持ってくる!」


ぱたぱたと主の足音がこの空間から遠のいていく音を聞きながら、俺は深く吸った息を時間をかけてゆっくりと吐き出した。主の体が乗っていた胸が上下する。温かな重みのあったそれはとても柔らかかった。間近で嗅いでしまった、いや、『嗅いだ』主の匂いは、俺の喉をごくりと震わせた。許されるのなら彼女の首筋に顔を埋め、限りあるまで嗅ぎつくしてしまいたかった。喉がやけに渇く。

(駄目だ…、主の匂いは、俺を俺でなくさせる…。)

危険な匂いだ。それ以上嗅いではいけないとわかっていても、それ以上を求めてしまう。もっと近付きたい。あの香りを味わえるところまで傍に行きたい。あの香りに、触れてしまいたい。
抱きとめた腕に少しだけ力をこめてしまったのは気付かれていないだろうか、いや、多分、大丈夫だろう。触れた手を持ち上げ、抱きとめた体の柔らかさを思い出し、指先を動かす。その指先に、微かな移り香が残っている気がして、口付けるようにして鼻先に持っていく。儚いくらいの、甘い香りに、頭がくらくらとした。


(ああ…。やはり、好きではない。)


その感情の名前を俺はまだ知らない。



主の足音とは違う軽い足取りに、俺はそのままの状態で目だけをそちらに向けた。倒れたまま、手だけ口元にあてている俺に博多が不思議そうに首を傾げた。赤い眼鏡の奥のくりくりとした瞳が俺を見詰める。


「長谷部…、なんばしよっと?」

「しぇからしか。ほっとけ。」

「まだ何も言うてなか。」


彼女を抱きとめた手は、彼女の味がするのだろうか。そう、抱きとめた手を舐めてみた。

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