乙女椿の君へ

凍てつく強い風が吹く三月のこと。
吐き出した白い息をマフラーで覆った俺は、友人の家に行く途中で偶然、君に再会した。
立ち寄ったコンビニから二、三分くらいの、ひとけのない曲がり角の先。マンションの生け垣に、君は通り過ごしてしまいそうなほどひっそりと佇んでいた。
濃い緑の葉に囲まれ、寒さから身を守るようにして、淡いピンク色の花弁を何枚も何枚も重ねて、君は密かに咲いていた。
「……君……?」
思わず呼び掛けてしまったが、恥じらって俯く君の姿は花だった。
いくら呼び掛けようが、花である君から返事は得られなかった。
当たり前だ、君は花だったのだから。
可憐な姿が花のようだとは思っていたが、まさか本当に花になってしまうなんて。


動揺をそのままに、植物に詳しい鶯丸の腕を引き掴んで聞けば、その花の名は『乙女椿』というらしい。
薔薇というほど豪華ではなく、椿というほど鮮烈ではない。つるりとした葉の質感におそらく椿の仲間であろうとは思っていたが、椿といえば赤い花というイメージしかない、たいして花に詳しくない俺は、君がなんという名の花かわからなかった。
(……おとめ、つばき…………)
しかしその名を聞いて納得した。
乙女、椿。名前さえ、実に君らしい。
発音した際の舌触りでさえ、どこか君らしい可憐さがあって、この名をつけた人と握手を交わしたいくらいだった。
『――膝丸、見て。新しい花が咲いたの。綺麗でしょう』
本丸の庭で俺に向かって微笑んでくれた君こそ花だと思っていたが、君は本当に花になってしまったのだな。人の姿として再び会うことは叶わなかったが、こうしてまた巡り会えたことに感謝しつつ、俺はほんのり寂しさを抱いた。
「それでも、君の魂に会えて嬉しい」
何も言わぬ花になってしまった寂しさを抱きつつ、それでも再び君に出会えた喜びが遥かに強い。君の姿が人ではなく花であったのも、君の心を俺で満たしたかったのに結局は俺が振り回されていたあの頃と変わらなくて、ひどく懐かしく、愛しい気持ちに溢れた。



それから俺は、外出するたびに君に会いに行った。
どんなに遠回りになろうが、逆方向であろうが、外に出る理由などなくても、そこでひっそりと咲く君に会いに行った。いや、外出の理由など君がそこにいるからだけで十分だ。
そこに行けば君に会える。それだけで立派な理由になる。
俺は君という花をもっと知りたくなり、乙女椿について調べだした。鶯丸の部屋にある園芸の本を片っ端から読み漁り、その帰りで初めて植物関連の書籍を購入するなどした。
しかし、君ついて知れば知るほど、結局は見知らぬ誰かが君について語ったものだと思うと、読みながら本を裂いてしまい気にもなったのだが……。



乙女椿という君は、春に咲く花で、日当たりと水はけのよい場所を好むが、強い日差しには日焼けしてしまうという(慌てて君が咲いている場所を見に行けば、時間によって日陰もありつつ、たっぷり日差しを浴びることができる環境で安心した)。
八重咲きの淡いピンク色の花びらが美しく、花言葉は「控えめな美」、「控えめな愛」で、その花言葉に俺は深く溜息をついた。花言葉でさえ君そのもののようで、愛し過ぎて机に思いきり突っ伏した。
人であろうが、花であろうが、君は俺の心を魅了してやまない。



俺は毎日、そこに佇む君の元へ通うようになった。
うっとりするほど美しい花の造形に夢中になったり、何十分も花に語りかける俺の姿に道行く人々から怪しい目を向けられたりもしたが、俺は君と他愛のない話をしては、ひっそりと幸せな時間を過ごした。
兄者も、鶯丸も、この乙女椿が君だと語っても、顔を見合わせては「駄目だこりゃ……」と額を押さえていたが、俺にはわかる。微量ではあるが、乙女椿から君の気を感じ取ることができるのだ。
この乙女椿は間違いなく君だ。
今日も兄者に「乙女椿があの子なわけがないだろう」と否定され、小さく愚痴を零す俺に、君は花を咲かせてくれた。淡い色の花弁を見ていると、「うんうん」「そっかあ」「ふふ、そうなの?」と君の声が聞こえてくるようで、とても心が安らいだ。
君が好きだと思った。



しかし季節は春。
この時期は春と言いつつ、肌を刺すような冷たい風が吹く。天気予報曰く、北に残っている寒気と、南から上がってくる暖気がぶつかり、その温度差から発達した低気圧が強風を吹かせるらしい。
そんな一所懸命に吹かなくてもいいだろうと思うくらい、毎日強い風が吹く。強風に煽られ、あの可愛らしい花が全て落ちてしまわないかと心配になるが、君はどんなに強い風が吹いても、冷たい雨を受けても、毎日毎日愛らしい花を見せてくれた。
一つ、また一つ新しい花を見せてくれる君に、俺は自然と「今日も咲いてくれてありがとう」なんて言葉が出ていた。
俺のために咲いているわけではないとわかっていても、それでも、雨風構わず毎日君の元へ足を運ぶ俺を「なぁに、また来たの?」と微笑むように君は咲いていた。
どんなに風を受けようとも、冷たい雨に濡れようとも、懸命に咲く君の姿はとても気高く、可憐だった。



君と再会して、半月が過ぎようとしていた頃。
世は桜の開花宣言をまだか、まだかと待ちわびていたが、俺には関係のない話だった。それよりも今夜の風は一段と強く、思わず窓の外を何度も確認してしまう。
「ひどい風だ……」
時折家が軋むような音さえ聞こえ、俺はたまらずコートを手に取って家を出ようとした。花が全部落ちてしまうのではないかと思うと居ても立っても居られず、君の元に向かおうとしたのだが、すぐさま兄者に止められてしまった。
「今夜は風が強いから、あの花の元に行くのはやめなさい」
「風が強いから行くんだ」
「だからってお前があの花にしてやれることは限られているよ。そんなに心配なら朝一で見に行けばいい。それとも、お前が好いたあの子は雨風くらいでどうかなる弱い子だったかい」
「………………」
ずるい止め方だと思った。ここで兄者を振り切ってしまったら、君の気高さを否定することになってしまう。俯く俺に兄者は、何かあれば鶯丸から連絡がくるからと言っていたが、その声は届かなかった。
外から聞こえてくる強風の音に、渋々家に残った俺の、今すぐ家を飛び出して君の元に行きたい気持ちはおさまらなかった。朝、君が全て散らされていたらと思うと、今夜が地球最後の日のように思えて、その日は唸るような風の声を聞きながら、眠れない夜を過ごした。



そして迎えた朝は、朝食も食べずに君の元へ走った。道中、昨夜の強風で何処からか飛んできた枝葉があちこちで見られ、不安を掻き立てられた。季節が過ぎれば君は枯れてしまうとわかっていても、風に吹かれてその盛りを短くさせてしまうのは堪えられなかった。
春が過ぎれば、また君が咲く春を待つから。
それまではどうか、どうか俺のために咲いて欲しい。

すると、コンビニから少し歩いた、ひとけのない曲がり角の先。マンションの生け垣に、ひっそりと佇む淡い色を見付けて俺はほっと肩を落とした。
咲いてる。
乙女椿が、君が、今日も咲いている。
うっかり涙ぐみそうにもなった光景に、歩みを緩めて近付いていた時だった。
乙女椿の前で、一人の女性が立っていることに気付く。
「……良かった、まだ咲いてる」
その声に、俺はぴたりと足を止めた。
風に乗って聞こえたその声は、俺の耳にするりと入ってくるほど柔らかく、甘く擽ったい気持ちで胸をいっぱいにした。途端、強烈な懐かしさに襲われ、開いているはずの目に君との思い出が一気に駆け巡った。心臓がどくどくと強く鳴り出して、全身に巡る血液が熱くなって顔が火照りだす。
「今日も咲いてくれてありがとう」
女性は、花に向かってそう話した。こちらには背を向けているというのに、そう口にした女性の優しげな眼差しを、俺は知っている気がして……。
(いいや、俺は知っている……!)
誰よりも側に、誰よりも近く、俺はそれを眺めていた!
すると、女性に話し掛けられた乙女椿が、ほんのりと彼女の気を纏い、淡く色付いたのを見た。それを見た瞬間、何故君を乙女椿だと思ったのか理解したが、同時に乙女椿が君でないことを知る。
乙女椿は、君の気を纏っていただけであって、君ではなかった。でも。
ああ、どうしよう。
君がいる。
すぐそこに。
心臓の音がうるさいくらいに胸を叩く。いっそ息苦しいと思うくらいに激しく鳴っている。は、は、と息が浅くなるのを懸命に宥めていると、乙女椿の前に立つ女性が、君が、こちらに振り返った。
「……!」
息が、止まるかと思った。
乙女椿を前に振り返る君があまりにも可憐で、懐かしくて、愛しくて。案の定、声が出なくなって、目を見開いて君を見詰めてしまった。
何も知らない目が俺を見て、少しだけ恥ずかしそうな色を見せた。花に向かって話しかけていた姿を見られたと、頬に淡い色を乗せる君に足がふらつきそうになった。しかし、君は気恥ずかしそうにしたまま、小さく会釈をして踵を返した。
「……!」
その場を立ち去ろうとする君に俺は息を呑む。
呼び止めなくては! そう思って口を開いたが、君を呼び止めるための名前を俺は知らなかった。君の足を止めるだけの繋がりが、今、まったくないことに愕然とする。
あの頃は主従である関係があんなにも煩わしかったのに、今になってそんなものが惜しい。いいや、そんなものに縋っている暇はない。主従とか、繋がりとか、そんなもの、たった今、この一瞬には関係のないものだ。
俺は、今の君を呼び止めなくてはならない。
どんどん遠ざかってしまう背中に焦りだけが募る。呼び止めなくてはならないのに、途端言葉を忘れてしまったかのように声が出てこなくなってしまった。何て言えばいい。どうやって引き止めたらいい。もう、物言わぬ刀ではないのに。どうして何も出てこないのだ。
今ここで逃したら、もう二度と君に会えない気がして、どうしようもないくらい目の奥がぐずぐずに潤んでしまう。緊張で喉もはりつく。
いい、もうなんでもいい。格好が悪くたって、気の利いた言葉でなくてもいい。
君を引き止めるだけの言葉を、今、俺は……!

「――君……!」

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