願い事

御簾の向こうから、笹の葉が夜風に吹かれた音を聞いたかと思った。
「君は、短冊に願い事を書かないのか。皆、それぞれ書いていた」
しかし、実際に耳にしたのは、笹の葉よりも薄い色をした、白緑の髪だった。夜闇のおかげで、ややぼんやりと光を放つその髪は絹糸のように細く柔らかく、織姫が機織りに使っていた糸も、きっと同じくらい美しかったに違いないと審神者は微笑んだ。
「私はいいよ。願い事は、神様に頼むんじゃなくて、自分で叶えるものだから」
そう返せば、薄緑の前髪にかかる眉間に皺が寄った。
次に出陣する任務地の調べものをすると言ってから、まだ終わらないのか、もういいだろう、そろそろ終いにしないか、と声をかけてきた膝丸は、もう待ちきれないとばかりに文机に齧り付く審神者の手を取った。
「七月の七夕は天気が悪い。だから旧暦で七夕を楽しもうと提案したのは君だ。君が言うから、俺は裏山から笹を切ってきたというのに、先程から無視ばかり。一体どういう了見だ」
もう我慢ならんとばかりに詰め寄る膝丸に審神者は苦笑し、取られた手で不機嫌そうな頬を撫でて宥めた。
「ほら、仕事を怠けると織姫と彦星みたいに引き離されちゃうかもしれないでしょう?」
「誰に」
「えっと……、神様?」
「ふざけるな。君の神はこの俺だ。……仮に、君と俺を引き離すものなどいたら、俺が斬り殺してやる」
「まあ、物騒な神様ですこと」
「わかっているのか。君は今、その物騒な神を無視し続けているのだぞ」
「ふふ、ごめんね。もうおしまいにするから」
はっきりした眉と、意思の強そうな目尻を撫でると、凛々しい顔立ちのその神は甘えるようにして審神者の手に擦り寄った。
「その言葉、もう三度も聞いた」
そう言って膝丸は不満げに口端を下げたが、細く長い睫毛をつけた目蓋は、撫でる審神者の手を気持ち良さそうに受け入れていた。
「あら、そうだった?」
「……もういい。しばらく、そうしてくれ」
斬り殺すなどと恐ろしいことを口にするくせに、しばらく撫で続けることを求める可愛らしい一面を見せた膝丸に審神者は笑みを深めた。そして染み一つもない滑らかな肌に手を滑らせ、細い髪に指先を埋める。その美しいかんばせを見詰めながら、審神者はふと思った。
惹かれ合った織姫と彦星が、仕事をしなくなり引き離された理由がよくわかる、と。
きっと、彦星は膝丸のように見目麗しく、魅力的な男性だったに違いない。こうして自分に甘える膝丸を見ていると、仕事など放り出していくらでも言う事を聞いてあげたくなるのだ。仕事真面目だった織姫が機織りに手がつかなくなる程、彦星は織姫の心を奪ってしまったのだろう。
(私も、気を付けなくては……)
緩んだ口元を、審神者は引き結んだ。
――だって、気を抜くと、すぐにでも膝丸と恋人としての時間を過ごしたくなってしまう。
叶うのなら、審神者なんて役目を忘れて、もっとずっと、恋人らしくありたいなどと願ってしまうのだ。
(でもそれは、きっと駄目なこと)
今ここに居られるのは、審神者が審神者であるからだ。役目を忘れてはいけない。何より、そんな怠惰をする人間を膝丸は許さないだろう。だから役目を忘れず、膝丸の側にいるためにも、自分を強く律せねばならない。
そう、撫でる手を離した時だ。白緑の髪から、月の光を孕んだ梔子色の双眸がそっと開かれた。
「……君は可愛くないな」
「え……?」
「君が願えば、何でも叶えてやる神が目の前にいるというのに、君は望みもしなければ、俺に構うこともしない。君の願いなら、何でも叶えてやるのに。君がこうして触れてくれるのなら、俺は何でも叶えてやりたくなるというのに。肝心な君は何も願ってくれない。君からの願い事を、俺がこんなにも欲しているというのに」
離した手を、膝丸が掴んでいた。そのまま自分へと引き戻した強い力にぎゅっと胸を掴まれながらも、審神者は膝丸の肩口に頬を寄せた。
膝丸の香か、それとも笹の香りか。深く蒼い香りのするそこに擦り寄れば、逞しい腕が審神者の体に絡み付いた。その腕が、体が、熱が、心揺さぶられるほど愛しいと感じつつ、破裂しそうになる想いをそっと抑え込む。
「じゃあ、膝丸の願い事が叶いますようにって短冊に書いておくね」
「生意気な小娘だ。……全て、君次第だというのに」
さらさらと、笹の葉が揺れるような音を聞いて審神者は顔を上げる。すると、愛しさに少しの苛立ちを滲ませた目に見下ろされた。そのまま噛み付くようにして降りてくる唇に、少しだけ、今この時だけだからと自分に言い聞かせ、審神者は両目を閉じる。
梅雨を過ぎた夏の夜風が、ふたりを隠すように御簾を翻した。

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