■ 薄氷の君
いつも仕事であちこちに飛び回っている旦那様が戻られるということで、今日の赤司家は朝から騒がしかった。
と言っても、住み込みでそのお家の家政婦をやっている私は日中学校があるので、粗方の準備はお昼の家政婦さんにお任せすることになっていたのだけど。それでも少し慌ただしくなってしまうのは、この赤司のお家が日本有数の名家であり、その家の敷地もそれくらいあるわけで、旦那様のお部屋も必然的に広い。いつもの掃除洗濯に加え、旦那様のお部屋の準備や着替えの準備その他色々がある。おまけに今日戻られると連絡が入ったのが今日の朝の事だったので、まともに引き継ぎができないまま昼のお手伝いさんに仕事を投げてしまったことで余計慌ただしくなってしまった。


「名前ちゃん、私そろそろ上がるけど大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫です。お疲れ様でした。」


しかし、学校が終わり、大急ぎで帰って昼の家政婦さんの手伝いに入り、夕食前のこの時間になってやっと赤司のお屋敷にいつもの静けさが戻ってきた。この後戻られる旦那様と、学校の部活動から帰ってこられる旦那様の一人息子のための夕食を整える私に、お昼の家政婦さんがエプロンを外しながら言った。


「せめて坊ちゃんがお帰りになるまで居ましょうか?」

「いいえ、平気です。それに、私がお迎えしないと後で征十郎さんに言われてしまいますから。」


昼の家政婦さんは、赤司のお家に住み込みで居る私とは違い、正式に派遣会社から派遣された家政婦なので出退勤時刻の管理が厳しい。おまけに家政婦、またはお手伝いと呼ばれる職ということもあり、家に戻れば普通に主婦をしている方達ばかりなので残業をさせるわけにはいかない(今日来てくれた人はお家のお子さんも独立して旦那さんと二人暮らしされている方だけども)。
いつもよりばたばたしてしまったが、旦那様をお迎えする準備はなんとか間に合った。旦那様が到着次第すぐに夕食の予定だけど、それくらいなら私一人で十分、というよりも仕事の内にも入らない事なので笑顔でお昼の家政婦さんを見送る。
そんな事をしていると、時刻はいつの間にか18時30分。お昼の家政婦さんも帰り、私一人になった赤司のお屋敷にそろそろあの人が帰ってくる時間だ。私は鍋の火を止めてキッチンを出て、エプロンで濡れた手を軽く拭って、長い廊下を通って広い玄関へ向かう。シューズクローゼットの中からスリッパを取り出し、段差の手前に並べると玄関の扉向こうから一人分の足音が聞こえてくる。今日も一生懸命部活をしてこられたのに、一つも引き摺ることのない足音に自然と背が伸びる。
がちゃり、と静かな音をたて開かれた扉の向こうの彼に、私は笑みを浮かべた。


「おかえりなさい、征十郎さん。」

「ただいま、名前。」


思わず目を奪われる赤髪と、同色の瞳。
優しげに微笑んだそれはとても私の一つ下とは思えない落ち着きを持っていて、さすが日本有数名家、赤司の一人息子―赤司征十郎。背格好は何処から見ても中学二年生のはずなのに、雰囲気や仕草、表情は何処を取っても大人と変わらない。


「……征十郎さん?」

「なんだ?」


靴を脱いでスリッパに履き替える征十郎さんは、つい最近までは私より背が低かったのに、中学に入られて目線が一気に同じ高さになった。この調子ではいつ抜かれてもおかしくない。それと同時に、表情も随分と大人っぽくなった(元々温厚な方だから更に)。でも今日は、そんな征十郎さんの笑みがいつもと違う気がして彼の足を止めた。


「部活、大変でしたか?」

「……?いや、特にいつもと変わらないよ。どうして?」

「いえ……、何処か疲れたような顔をされていたので。気のせいだったらごめんなさい。」

「………。」


特に変わった事はない、ということでお気を悪くさせたら申し訳ないとすぐに謝ってみるけど、でもやっぱり心当たりはあるのか、征十郎さんは少しきょとりとした後、ゆっくりと破顔した。


「敵わないな、名前には。」


そう言った征十郎さんに、私も同じように笑った。征十郎さんは疲れた顔をされていたのを当てられ、気を悪くしたわけでもなく、むしろ当てられたことを嬉しそうに微笑んでいた。
大人びた顔をされるようになった征十郎さんだけども、物心つく前から一緒にいるのです。貴方の表情が少し違うことくらい、私にはわかります。


「何か悩み事ですか?」

「随分意地悪なことを言うんだな。」


嬉しそうな顔から一変、同じ笑みだけども全然違う、寂しそうに笑った征十郎さんが私の手を取った。わかっているくせに、と言うかのように征十郎さんの手が私の手を握って、縋るように触れてくる。寂しい笑顔の矛先を知っているのに触れなかった、その事を責めるような触れ方に、思わずその手を握り返してしまった。


「…旦那様のお戻りが嫌ですか?」

「…嫌ではないよ。ただ、気が進まないだけ。この家には、名前だけ居てくれれば俺はそれでいいよ。」

「そんな事を仰らないでください。」


またそんな事を言って、また私が何度も口にした言葉を言えば征十郎さんは何度も見た顔を私に向ける。そんな事を言えば私がそう言うとわかっているくせに、征十郎さんはそう言い続ける。そして行き場を無くした猫みたいな顔を私に向ける。何度も何度もその手を撫でて触れて、違います、そんな事は言ってはいけませんと窘めるのに、征十郎さんはまるで私にそうして欲しいかのように何度も同じ言葉を繰り返す。
わかっているのか、わかっていないのか。いや、征十郎さんが理解してくれない事なんてない。だからきっと、征十郎さんは私にそうであることを望むのだ。


「旦那様は征十郎さんのお父様です。お父様が家に帰ってくる事を気が進まないなんて、言っちゃダメ、です。」

「………うん。」


少し眉尻をあげて言えば、この時の征十郎さんは普通の中学二年生の男の子に戻る。確かに私は怒っている顔をしているのに、征十郎さんはくすぐったそうに笑みを浮かべて小さく頷く。そしてこれもいつもと同じ。何度も聞いた言葉を口にするのだ。


「名前は…、名前はずっと俺の傍にいるよね?」


その言葉を、鉛のように重く感じるようになったのはいつからだろう。
赤司という家がどういう家か知った時…、一緒に育った征十郎さんが庶民の自分とは違う特別な人だという事を知った時…、そんな征十郎さんに恋心を抱いてしまっていると気付いた時…、そして、征十郎さんも少なからず同じ気持ちを抱いているとわかってしまった時…。


「征十郎さん…。征十郎さんが望むのならば、私はいつでも傍に居ます。でも、でも私は…」

「名前。」


握った手を力強く引き寄せられ抱き締められる。言い掛けた言葉は肩口に持っていかれて、塞がれるように頭も埋められる。その続きは聞きたくない、と甘い癇癪を起された。


「その言葉だけでいい。それ以外は、聞いてない。」


突き放すような言い方なのに、発せられる声は優しい。そして強く腰を抱かれる腕も言葉に反している。意地悪な人だ。私の気持ちを知らないはずはないのに、知っててこういう事をする。私が貴方に対しての気持ちを敬意や忠誠で押し込めているのに、無理矢理こじ開けようとしてくる。


「…はい。……あの、征十郎さん。」


赤司征十郎という少年は、とても繊細だ。強かに、賢く、清く、常に正しく育てられた故に、彼はとても脆い。たまに、薄い氷の上に立っているような表情を浮かべる彼を、私は堪らない気持ちで何度も何度も手を引く。もうこれ以上踏み込んでは駄目だとわかっていても、彼の手を引かずにはいられないのだ。本当にそのまま、彼が落ちてしまう気がして。


「あの、今日は夕食に湯豆腐を用意してます。だから、あの、…楽しみにしててくださいね。」

「……あぁ。それは、楽しみだ。」


そう言ってやっと笑顔を見せてくれた征十郎さんに、私は今日も泣きそうな顔で笑い返す。


薄 氷 の 君

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