藍、して

那田蜘蛛山の空に朝日が昇る。
長かった夜に温かい日が差し込み、胡蝶しのぶはその眩しさに下山の足を止め、目を細めた。
すると、先を歩んでいた冨岡義勇の足が止まり、しのぶは小首を傾げる。
「どうしました?」
先程まで真っすぐと進めていた足を止め、ふと空を仰いだ冨岡から返事はなかった。頭上で炭治郎と禰豆子を連れ帰れと鳴く鎹鴉を見上げているわけではない。ただ空を見上げ、何かを思い出すような、探るような気配を冨岡から感じ、しのぶを笑みを浮かべたまま歩を進める。
「冨岡さん」
「――胡蝶」
呼び止めようと呼んだはずだったが、逆に呼び止められてしまった。止めるな、と。
「後で追い掛ける。先に行け」
そう言って、冨岡は言い終わるか否かのところで駆け出してしまう。すぐにその背中をしのぶが呼び止めるが、口数の少ない背中はどんどんと奥へと進み、あっという間に見えなくなってしまった。しのぶは止めようと浮かせた手を溜息と共に落とし、やれやれと小さく呟いた。
「……もう。だから嫌われるんですよ」


***


「――なまえ様」
黒装束に身を包んだ者が、同じく黒装束のものに声を掛ける。目の部分を除き、頭から足まで全身黒い衣装を着たものは鬼殺隊・事後処理部隊の『隠』だ。なまえと呼ばれたものは部下の男から呼ばれ、怪我をした隊員の処置の手を止めた。
「あの、治療なら代わりましょうか」
負傷した隊員の治療を代わろうと部下が歩み寄って来てくれたが、なまえはやんわりと目を細めて断った。
「大丈夫よ、ありがとう。ここは手が足りてるから、良かったらあっちの方を手伝ってくれる? カナヲ様がいらっしゃるようだから、カナヲ様のご指示に従って」
「はい」
「それから…………」
事後処理の指示をしているカナヲの元へ男を行かせるのなら、ついでにこちらの状況も伝えてもらおうかと続けようとした言葉が途切れる。
「……なまえ様?」
突然切れた言葉に男が不思議そうにしたが、なまえはこちらへと近付いてくる気配に男の袖を掴み、座る場所を交代させた。
「ごめんなさい、やっぱりここで私の代わりをしてくれる? すぐに戻るから。ごめんなさい」
「あっ、ちょっと、なまえ様!?」
ころころと指示を変えて申し訳ない、となまえは「本当にごめんなさい!」と走り去りながら男へと告げ、カナヲの場所でもない、違う方向へと地を蹴った。
高く跳躍し、自分の身長より何倍も高い木の枝に着地する。そしてまた強く踏み出し、枝から枝へと飛び移り、なまえはこちらへと真っすぐに近付いてくる気配から逃げた。
近い、間違いなく自分へと近付いてきている。
彼がここに来るのは事前に知っていたが、用心しながら任務に当たれば問題ない、彼に気付かれない距離を保って行動すれば問題ないとしていた考えはやはり甘かったのか。
いいや、そんなことを考えている暇などない。逃げろ、もっと早く逃げろ。
自分を追い掛けてくる相手は――
「――なまえ」
「ッ!!」
なまえの背後に影がかかったのが先か、それとも名を呼ばれたのが先か。そんな事を考える間もなく、なまえの腕が誰かに捕まる。触れた手はごつごつと固く、厚く、力強く細腕を掴み取った。しまった、と思うよりも先に体が着地した木へと押し付けられ、退路を塞ぐよう顔の横に手を突かれる。
一呼吸もない一瞬の間に捉えられ、驚愕に見開くなまえの目に深い藍色の目が映る。
人知れず、滾々と湧き上がる水の色。木々に囲まれたというよりも、寒く、暗い洞窟の中で静かに湛える水の色をした目。何も映していないように見えて、その目はなまえを磔にするかのように見詰めていた。
「何故逃げる」
「冨岡、様……」
追い詰めてきた人物の名を呼べば、呼ばれた本人は不満そうに眉を寄せた。
「なまえ」
抑揚のない、静かな声で名を呼ばれるも、その声は水のようになまえの耳を通って体に染み渡った。
どくり、と動いた心臓は走ったせいだと無理矢理言い聞かせ、なまえは引き攣る喉からなんとか声を絞り出す。
「あの、何か、御用でしょうか……」
「なまえ」
先から名だけしか呼ばれていないのに、なまえには目の前の男が自分へ何を求めているのか手に取るようにわかっていた。いや、わかってしまう。口数の少ない彼は、名を呼ぶ声に僅かな感情を乗せてなまえの心を引き留める。
心臓を掴まれたような息苦しさを感じ、短く息を吐き出せば口元を覆う布を引き下ろされる。浅い呼吸を繰り返す口が露わになり、男はその唇をしばし見詰めてはなまえへと視線を戻す。唇の下の辺りを固い親指でなぞられ、なまえは促されるようにして男の求めるものを口にした。
「…………ぎ、ゆう……」
言いながら視線を外せば、当たり前のように男……冨岡義勇が顔を寄せ、なまえは慌てて肩を押し返した。
「ま、待って! 今、任務中っ……、なので……!」
「お前が逃げなければすぐに済む」
「……っ」
耳元で低く囁かれ、肩を押したはずの手が弱まる。その隙に義勇はなまえの手を押し戻すかのように体重を掛け、自分へと逃げる顔をこちらへと向けさせ唇を重ねた。
「…………ん、んっ……」
顎を掴む手は荒々しいのに、触れる唇はひどく優しい。蕩けるような甘い熱を持ったそれになまえの体はじゅわりと溶けだし、解れていく体と唇に義勇はまた深く口付けた。
「ぎゆ、う……っ」
角度を変えて深くなる口付けになまえは義勇の衣服を掴んだ。弱々しく義勇の肩を掴めば、唇を食むようされ、たっぷりと余韻を残して唇が離れた。
「ふ、あ……」
久しぶりの口付けにぞくぞくしたものが全身に走り、思わず熱っぽい息が零れた。
すると、またすぐに義勇の唇が迫る気配がし、なまえは慌てて掴んだ肩を押し返した。
「や、やめてください……、私はもう、貴方の恋人ではないんですよ……」
頬を染め、目をそらすなまえに義勇は何を言っているのだ、と眉を寄せた。
「……俺は手放したつもりはない」
「いいえ、貴方と私の関係は終わってます」
なまえは義勇の手から口を覆う布を取り戻し、それを口元にあててはキッパリと言い放った。不覚にも赤く染まってしまった顔を布で隠す。
「それから、追い掛けるのもやめてください。任務に支障が出ます」
「……俺の部下が俺から逃げようとするから連れ戻しているだけだ」
「それだって……、私はもう所属を隠に移してます。貴方の部下ではありません」
「いつ戻る」
「戻りません」
「そろそろ帰ってこい」
「帰りません」
「気が済んだら戻る約束だろう」
「約束してません! あのっ、私の話聞いてますか!」
先から話を聞いているようでまったく聞いていない義勇になまえは声を荒げた。いい加減にしろと義勇を睨めば、深い、静かな水色の目で見詰められ、なまえはそこにとぷりと飲み込まれたように息を奪われた。
「――聞いてない。俺は最初から、お前が離れることを許したつもりはない」
布をまた奪われ、義勇に見下ろされる。
冷たく、静かな色だというに、そこに閉じ込められると体の奥がじりじりと焼け焦げていくような気がした。
この熱は、自分の熱なのか、それとも彼の熱か。
「はやく戻ってこい、なまえ。俺から離れることは許さない」
触れる唇がどちらも熱くて、どちらのものかわからない。

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