『深夜』

深い夜と書いて深夜。
婚約者の真昼に言われるまでその名前が珍しいとは思ったことはなかった。何故なら、その婚約者様の座を手に入れるために今まで必死に生きてきたのだ。勝たなければ死ぬ、殺さなきゃ生き残れない。そんな世界で、ただ真昼の婚約者になるためだけに生きてきた。顔も性格も声も知らない女の子の婚約者になるべく、同じ境遇に立たされた種馬候補達と殺し合ってきたのだ。自分の名前について考える暇も無かった。
やがて、自分だけが生き残り、晴れて真昼の婚約者になったと告げられた直後、その真昼と出会った。艶やかな灰色の長い髪に、凛とした表情の、美しい少女だった。挨拶を交わせば、深夜の名前を珍しい名前だと言われた。でも、生き残るためにたくさんの同胞を殺め、なおかつ『真昼』の影として生きる者の名前と考えれば、これ以上の名前は無いだろう。そう返した深夜に真昼は卑屈だと嫌な顔をしたが、深夜は言い直さなかった。
自分はもう、太陽の下を堂々と歩けるような身ではないのだから、似合いの名前だと。


「…深夜お兄様?」


ソファに腰掛け寛いでいると、ふと、なまえに小さく名前を呼ばれた。今まで特に意識をしたことがなかったが、なまえの唇に自分の名前が乗せられると、自分の名前がこんなにも心地いい響きを持っているだなんて、彼女に出会うまで知らなかった。彼女から発せられる声、衣擦れ、吐息に耳を澄ませながら、深夜は瞳を閉じていた。
向かい側でなまえは自分のシャツを縫ってくれていて(ボタンが取れたのだ)(ボタンくらい自分でもできるのだが、ここはあえて、だ)自分はそれが終わるまでソファに座って待つことにしたのだが、糸と布の擦れる小さな音が気持ちよく、ここ最近デスクワークが多かったのもあって、そっと目を閉じていた。うたた寝とはまではいかないが、うたた寝に近いだろう深夜の様子になまえは声を落として名前を呼んでくれた。いつ何があってもすぐ飛び出せるように、深夜は深く眠ることをしない(できないと言ってもいい)。しかし、彼女と一緒に居る時は深夜にとって睡眠以上の安らかな時間だった。
その声に深夜は起きても良かったのだが、あえて眠ったフリをする、という選択肢を取った。何故なら、こうして深夜が寝たフリをしていれば、優しいなまえは深夜にそっと毛布か何かを掛けるからだ。それを期待して深夜がたぬき寝入りしていると、なまえが静かに動いた気配がして、彼女の優しい香りが近くなる。ふわりと落ちる様にその香りが香ったと思えば、深夜の肩に薄い毛布のようなものが掛けられる、おそらく、彼女が肩に掛けていたショールだろう。深夜はなまえのその行動に、「待ってました」とばかりに目を開けて、なまえの手を取った。


「掴まえた。」

「ひゃ…っ!び…、びっくりしました…、起きていらしたんですね…。」

「なまえにボタン縫うの頼んどいて寝たりしないよ〜。」

「寝てても私は構いませんよ?」


ここ最近、忙しそうでしたから。と柔らかく微笑んだなまえを、深夜は眩しいものを見るかの様に目を細めて微笑み返した。手に取ったなまえの細い手を取り、指先を口元に持っていき、触れる程度に口付ける。


「僕を甘やかすのが上手だね、なまえは。」

「甘やかしてるつもりは…、」

「ううん、上手だよ。……おいで。」


指を絡めては自分に引き寄せ、深夜はなまえの体を後ろからすっぽりと抱き抱えた。肩に掛けられたショールは、彼女の体が冷えてしまわぬようにとしっかりと彼女に掛け直されている。


「…深夜お兄様?お休みになるのなら…、む……?」


せっかくだから休まれては、と言おうとしたなまえの唇に、深夜の人差し指がぷにっと当てられた。何をされるのやら、なまえが目を丸くして深夜の行動を見ていると、彼の指はひたすらなまえの唇をぷにぷにと触っていた。深夜の顔は至って真剣だ。深夜のいつも浮かべている笑みが消えることは珍しいので、なまえは黙って深夜の行動を見守っていたが、ひたすら触れられる唇に少し困った表情をしてみると深夜はやっと口を開いた。


「いや、なまえの唇ってどうなってるのかなって。」

「……は、はぁ……」

「自分の名前って、特に意識したことなかったんだけど、なまえに名前を呼ばれると、自分の名前がすごく綺麗に聞こえるんだよね。」


どうしてだろう、と深夜はひたすらなまえの唇を触れていたのだが、なまえはなんとかその指を抑えて顔を離す。


「深夜お兄様の名前は、十分綺麗かと思われますが。」

「そう?」

「はい。」

「深夜だよ?真っ暗じゃん。」


深夜、深い夜、真夜中。明かりのささない、暗いくらい夜。後ろめたいことがある者には、怯える時間、そして自由に動き回れる時間。そう、深夜のような人間が、深く息を吸い込んでは、潜める時間。つくづく、似合いの名だと思う。真昼の婚約者になるために同胞を殺しまくった真っ黒な過去を持つ、自分に。


「深夜、とても良い名前だと思います。」


自嘲的な笑みを浮かべた深夜に、なまえは優しく答えた。穏やかに、ゆっくりと言葉を紡ぐなまえの声は、とても優しい。


「私、夜がとても好きです。静かで、穏やかで、とても落ち着きます。それに、夜は明日を連れてきてくれます。どんなに不安な時間を過ごしても、夜は毎日きちんと皆に明日を連れてきてくれます。深夜お兄様は、優しくて穏やかな方ですが、同時に明日を迎える元気をくれる方です。そして、不安なことがあったら、夜の闇のように、優しく包んでくれます。だからそのお名前は、深夜お兄様に、ぴったりな素敵なお名前です。」


最後は少し恥ずかしそうに、照れ臭そうに言ったなまえに、深夜は胸が苦しくなった。こんなにも存在ごと心地いいと感じる彼女は、彼をどうしようもなく苦しくさせる。愛しくて、愛しくて、愛しくて。
自分は、彼女が思っているような人間ではない。彼女だって、自分の生い立ちくらい聞いているはずだ。真昼の種馬になるべく育てられた、蠱毒だ。それを知りつつも、彼女は悪意もなく彼の名前を、さも美しいものを呼ぶかのように口にする。それが、苦しい。本当の自分は、清い彼女に触れてもいけない、目も合わせてはいけないだろう人間なのに、彼女は平気で深夜の手を取り、その手に頬を摺り寄せてくる。無垢な仔猫のように。
それが苦しいのに、それがただただ愛しい。


「お兄様…?」


俯き、前髪で表情を隠し何も返さない深夜になまえが顔を覗きこもうとすると、小さな顎を取られて、すくいあげるようなキスが降ってきた。


「ん…っ、」


華奢な体を抱き締め、柔らかい唇に噛み付くようにキスをした。何度も角度を変え、呼吸を与える間も惜しいとばかりに深夜の唇が重なる。


「は、ぁ、しんっ、や…おにい、んぅ…っ」

「もっと。もっと呼んで。」


と言うわりには、なまえの唇に自分のを重ねる。柔らかいなまえの唇は砂糖菓子のように甘く、繊細で、しっとりとしている。息も絶え絶えに、深夜の名前を言われた通りに紡ぐなまえの姿に胸を苦しくさせながら、深夜はなまえの体をきつくきつく抱き締めた。


「…………はぁ……。」


息継ぎなのか、溜息なのかわからない吐息が出た。散々口付けて息をきらすなまえはぐったりと深夜の胸に凭れかかった。何度となく彼女の体を心配しているクセに、一度感情の箍が外れるといつもこうだ。あの世界から出て、真昼の婚約者となり、柊の性を受け、訓練もこなしているというのに、何故か彼女は深夜のそれを簡単に取り払う。いや、そこで取り払われても自分が理性をフル動員すればいいだけの話なのだが、そんな彼でも彼女は受け止めてしまう程の優しさを見せてくるから、つい、甘えてしまうのだ。


「……盛りのついたガキかよ……。」

「ん、おにい、さま…?」


軽い酸欠にぼんやりとした瞳を向けるなまえに深夜は微苦笑を浮かべ、なまえの唇をふにふにと触れた。自分の欲という唾液で彼女の唇がぽってりと赤く艶めき、それを深夜は指で塗るように撫でた。


「ほんと、なまえは甘やかし上手なんだから。」

「……はい?」


彼女は深夜を、不安なことがあったら夜の闇のように優しく包むと言ってくれた。実際は、深夜にそんな善良な心は無く、あるのはなまえを外敵から守りたい、自分だけを見ていてほしい、閉じ込めて自分のものだけにしたい、そんな醜い独占欲だ。深夜お兄様と優しく呼んでくれるこの唇を、自分だけのものにしたいだけだ。そしてなまえは、そんな深夜お兄様の度が過ぎた我儘を許してくれるのだ。暗いくらい自分の闇を、穏やかに、月のように優しく照らしてくれる。包んでくれる。


「じゃ〜、甘やかされついでにもっと甘えさせてもらおうかな。」

「え…?」


深夜という名前を特に意識したことはない。
でも、彼女がその名を綺麗だと言って、唇に乗せてくれるのなら、この名前も悪くないと思える。


「あの…、何故ベッドに私も運ばれているのでしょうか…。」

「えー?僕がお休みになるからー?」

「何故私は服を脱がされているのでしょうか…!!」

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