我慢の一線を越える

「えっ…なまえも海老名に…!?」

「はい、と言っても後方支援になりますが。」


白虎丸の首筋にもふっと顔を埋めて、彼女は幸せそうに笑った。彼女のとんでもない発言を聞くまでその風景は彼、柊深夜の何にも代えがたい唯一のひと時だったのだが、とんでもない事を聞いてしまった。柊家は、暮人は、何を考えているのやら。一瞬にして体温が下がりきった深夜をよそになまえはお座りした白虎丸をわしゃわしゃと撫で、白虎丸も気持ちよさそうにぐるぐると喉を鳴らしている。


「待って待って。なんで。どうしてそうなったの。」

「さぁ、理由はなんであれ、私もとうとう出動です!今まで柊家のお荷物として皆さんの足を引っ張ってきましたが、こんな私でもやっと…」


なんてこともないように続けようとした彼女に深夜は何も言わず白虎丸をひっこめた。急に居なくなった白虎丸になまえは前につんのめりそうになるが、それは腰を抱えた深夜によって防がれる。が、這うような低い声で囁かれる。


「それ以上言ったら怒る。いつも言ってるよね。」


耳に唇が触れる程の距離で囁くと、なまえはひくりと肩を縮こまらせた。それから、しょんぼりと顔を伏せた。


「…ごめんなさい、深夜お兄様。」


わかればいい、と深夜はなまえの頬をキスをし、なまえを抱えたまま自室のソファに腰掛ける。横抱きに抱え、小さな頬を撫でるように手で包み込むとなまえはすっかりおとなしくなる。昔から病弱でろくに戦えない彼女は親にも兄弟にも親戚にも見向きされず、ただ一人ひっそりと生きてきた。血筋は間違いなく柊のものであるのだが、濃すぎたのか力はあっても最大限に引き出すと体が持たなかったり、うまく制御ができずにいる。彼女なりに役立とうとしているのだが、如何せん身内からの『お荷物』扱いは拭えない。
それでも彼女は深夜にとって大事な女の子であった。庭に季節の花が咲いたとか、珍しく暮人の機嫌がよく一言二言会話させてもらったとか、グレンにお菓子をもらったとか。そんな些細なことで幸せそうに微笑む彼女が眩しくて、深夜はいつも彼女を外敵から守っていた。(内敵からも守ってやりたいのだが、これがなかなか上手くいかない)(それでも彼女は挫けずめげない芯の強い心を持っている、深夜はそれが眩しくて仕方がない)
笑ってしまう程薄っぺらい情しかない身内に囲まれたこの世界で唯一純粋なもの。お荷物どころか、今の深夜には彼女が居ないと柊家の息苦しさに呼吸ができない。


「…僕もそっちの隊に参加する。」

「…な、何言って…!」

「もう決めた。上にも掛け合う。」

「ま、待ってください、お兄様。この出動は、今までお荷物だった私に対して、」

「なまえ、」

「…いいえ、やはり言わせて頂きます。この出動は、何にも役にたてなかった私への晴れ舞台なのです。その機会を、暮人お兄様がくださったのです…!」


ぐっとこちらを見上げるなまえに、深夜はぐらりと視界が揺れた。


「はれ…ぶたい…?」


何を、言っているのだろう、彼女は。
何を言おうとしているのだろう彼女は。
純粋な、芯を持った瞳が深夜を真っ直ぐ貫く。


「私はこの戦場で、柊家としてやっとお役にたて……っん!?」


ぐつぐつ腹の底が煮え立ってきた深夜をよそに話を続けようとするなまえの口を口付けて塞いだ。顔をそらし逃げようとするなまえの項あたりを支え、離れまいと口付けを深くした。


「んんっ…、ふっ、ぁ」


僅かに開いたなまえの唇から深夜の舌が割って入ってくる。すると背筋がぞくぞくと震えだすのを、なまえは止められなかった。
理解が、追いつかない。どうして自分は兄に、義兄に口付けられているのか。逃げようと顔をそらしても首の後ろをしっかりと支えられ動けないし、胸を叩こうにもその手を取られてしまう。あまつさえ、指と指が絡む。


「…ぁっ…、」


呼吸のかすかな隙間から漏れ出たはしたない声になまえの頬がカッと熱くなり、ちょうど目が合った深夜にふわりと微笑まれた。二人きりの時だけに見せる、深夜の心からの笑顔。いつも浮かべているへらりとした笑顔ではなく、慈愛に満ちた彼女だけに向けられる笑顔なのに、何故かその笑顔を怖いと感じた。何度その笑顔に慰められ、励まされたのかわからないのに、大好きな笑みなのに、へらりとしている時よりも、彼の真意がまったく読めなくて、こわい。


「行かせない。なまえだけはずっと僕の手の中に居なきゃ許さない。」


口元は確かに笑っているのに、目だけは冷たい。ほの暗く、底が見えない。


「…そう何度も言ってるよね?出掛ける前には必ず僕に一声かけるって。」


そろりとなまえの足に深夜の手がかかる。撫でるように触れてくる手はあくまでも優しく、なまえを傷付けようとしている手では決してない。むしろ彼はなまえを傷付けたことなどない。態度でも言動でも。そのほかの家族にはどんなに罵倒されようが、彼だけは、義兄だけはそれからすくってくれたというのに。今の彼の瞳はギラギラとなまえを捕えて食い殺さんばかりだ。
暮人に貴族殲滅参加を告げられた時、自分はここで死ねと言われているのだと理解した。お荷物もここまでだ、と。それでも自分は嬉しかったのだ。まともに戦場に出してもらえなかったから、暮人からしたら蟻のような力でも認められたような気がして、だからこそ、嬉しくて深夜に告げたというのに。


「そうだ、ここでなまえをたくさん可愛がってあげる。それで体調崩してくれたら、なまえは行かなくて済むもんね。」


―ああ、甘やかしすぎたのかなぁ。
深夜はなまえの怯えた顔をうっとりと眺めた。
彼女は、自分のことを親しい兄だと思っている。その証拠がこの怯えた眼だ。決して踏み込んで来ないであろうと思っていた男が平気で踏み込んできたという怯えた眼。血だけを求め彼女に近付く吸血鬼みたいな雄どもを自分がどんなに秘密裏に処理したか。
そろそろ彼女に告げる時がきたようだ、それは大きな勘違いだと。


「なまえを可愛い妹だなんて、僕はもう一ミリも思ってなんかいないよ?」


どんなにお願いされても、もう逃がしてやんない。

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