クレープ

戦争が始まる前、一度だけ深夜に連れられてクレープを食べに行った事がある。
その頃のなまえは言葉の通り病弱であまり外に出る機会がなく、外から仕入れる情報はテレビと雑誌と家のものからの話だけであった。いつだったか、真昼がシノアと一緒にクレープを食べに行ったのだと聞かされて、まだ食したことのないクレープに憧れを抱いた。
すると後日、家のものがクレープを皿に乗せて作ってきてくれた。なまえは喜び、作ってくれたものにもお礼を言ったが、内心、違うのだと小さくいじけていた。なまえはクレープを食したかったのではない。なまえは外で誰かと一緒にクレープを食べたかったのだ。
それでも、こんな体じゃ外出もままならないし、一緒に行けるような友人もいない。だから、家で爪弾きされている自分にクレープを作ってくれた人がいることだけに感謝をしよう。そう憧れを胸にしまった時だった。
夜、深夜が口元に人差し指をあてて自分をこっそり外に連れ出してくれた。大きなヘルメットを被らされて、夜の道を深夜が運転するバイクに乗って走った。緊張で体がガチガチに固まった。一人で外に出た事が無く、しかも誰にも外出する事を告げていない、おまけにバイクに乗るのも初めてだ。振り落とされないよう必死にしがみ付いた。
自分が居ないことに家のものがいつ気付くだろう、騒がれるだろうか、父に言われるだろうか、そんな心配事に押し潰されそうななまえの手を取って、彼が連れてきてくれた場所は、テレビでよく見た原宿だった。夜にも関わらず明るい街頭や看板、絶えることのない人、人、人。目紛るしく目に飛び込んでくる風景に軽く眩暈を覚えたくらいだ。
深夜の手をしっかり握っていないと人に流されてしまいそうな道を二人で歩き、そこで深夜はなまえにクレープをご馳走してくれた。あの時のクレープの味は一生忘れない。しっとりと柔らかく薄い生地に、たくさんの生クリームとフルーツが包まれた甘いクレープ。丸かじりして食べるのだと言われ、食べ方に四苦八苦した。それでも深夜とこっそり出掛けた原宿でのクレープは、人生の中で一番美味しい食べ物であった。


(懐かしい…。)


深夜に連れられて食べた時のクレープの包み紙を手に、なまえは一人思い出に浸っていた。
あの後、手元に残った包み紙が捨てるには勿体なくてこっそり持ち帰ったのだ。ゆえに今彼女が手にしているのはただのクレープの包み紙ではなく、彼女の大事な思い出である。と言ってもはたから見れば食べ終わったクレープの包み紙などゴミも同然、なまえはその包み紙を誰に見せるわけもなく、こっそりジュエリーボックス(と言っても中身はその包み紙のみだ)の中に仕舞っている。


「なまえー?」

「っ!」


ふいに、背後から深夜の声が掛かり、なまえは慌てて包み紙を仕舞ったジュエリーボックスの蓋を閉めた。その際、誤って自分の指も挟んでしまう。


「痛…っ!」

「え、大丈夫?」


ちょうど扉を開けていた自分の部屋の前に深夜が立っていて、なまえの小さな悲鳴に足早に歩み寄ってきた。すぐに挟んだ指を持ち上げられて、優しく撫でられた。


「指、その箱に挟んだの?」

「…お、お恥ずかしい限りです…。」

「ふふ、妹の可愛い一面が見れて嬉しかったから別に気にしてないよ。」


それはそれでまた恥ずかしいのだが、頬を赤くしたなまえをよそに深夜は挟んだ指をずっと撫でていた。


「ごめんね?ドア開いてたから勝手に入っちゃって。」

「いいえ、勝手に驚いただけなので…。」


仕事が一段落したので顔を見に来たのだという深夜になまえは優しく微笑んだ。柊家の中で弾かれている自分を気遣って優しい義兄はいつもそう言って自分の様子を見に来てくれる。帝鬼軍少将という忙しいに違いない地位なのだから本当は気を使わなくていいと断るべきなのだが、その度深夜が「僕が来たいから来てるの」と言ってくれる優しい嘘にいつも甘えてしまっている。


「その箱って何が入ってるの?」

「…え?」

「そういえば、中見た事無かったなーって。」

「…た、大したものは、入れてないですよ?」

「うん。でも、僕が声を掛けて指を挟んじゃう程慌てて蓋を閉めるようなことされたら、流石に気になるなぁ〜。」


何か後ろめたい事でもあるのではないか、と責められているような深夜の笑顔になまえの顔は引き攣った。
見せてはいけないものを隠している訳ではない。ただ、できるのなら人には見せたくないし(人から見ればただのゴミである)、その中でも深夜だけには一番見られたくない。あの時のゴミをまだ持っているなんてどう考えても気持ち悪いし、それを見ても深夜があの時の事を覚えているわけがないのだから「なぁにこれ?」なんて言われてしまったら自分にとっては大切な思い出が深夜にとっては記憶にも残らない些細な出来事だったと改めてわかって悲しくなってしまう。


「大したものじゃないの?開けていい?」

「あ、開けちゃ、だ、だめです!」

「え〜、大したものじゃないのに?」

「え、えーっと…あっ、お兄様!」


ひょい、となまえの隙を見て深夜がそのジュエリーボックスを手に取る。取り返そうと慌てて手を伸ばすなまえだが、深夜に箱を高く掲げられるとどう足掻いてもリーチが違い過ぎる。結果、箱に向かって懸命に手を伸ばすなまえに深夜が可愛いなぁと思う半面、そこまでして取り返したくなる箱の中身が気になって嫌な笑みが濃くなる深夜なのである。


「なになに、ラブレターでも入れてるの〜?」

「そっ……、」


そんなわけがない。ありえない。
自分の実情を知って深夜がからかって言っているだけとわかっているなまえだが、どう言っても彼からジュエリーボックスを取り返すのは難しい気がする。それならば、いっそ彼の冗談に乗っかろう(どうせ彼も必死になる自分が楽しいから遊んでくれているだけだ)となまえは小さく肩を落とした。


「…だとしたら、どうしますか?返してくれますか。」

「うんごめんね開ける。」

「え…えぇぇっ…!」


なまえが言葉を言い切るか言い切らないかの早さで深夜が箱の蓋に手を掛け、なまえは声を上げたが彼は構わずそれを開けた。


「………なぁに、これ。」

「……………………」


開けたジュエリーボックスの中には、パステルカラーの包み紙だけが入っていた。縦長三角の形をした紙は尖った先だけが軽く折られていて、クレープの包み紙だと深夜が理解するのにはそう時間がかからなかった。
一方なまえは、予想通り「何これ」と言われてしまった大切な思い出に胸が痛くなったのを俯くことで顔を隠し、耐えた(正直、胸に刃物を突き立てられたような気分だ)。そうして持ち堪えた痛みを、何とか笑顔を貼りつけて誤魔化して顔を上げる。


「真昼お姉様と、シノアちゃんがクレープを食べに行ったんです。その時の、思い出です。」


嘘は、ついていない。
多少言葉がおかしくはなったが、今の言葉で深夜はきっと自分と真昼とシノアでクレープを食べに行ったと勘違いしてくれるだろう。深夜とクレープを食べに行った時の思い出だと言うのは、少し憚れた。先程深夜が「何これ」と言った時点で彼はあの時の事を覚えていないのはわかったし、食べ終わったただの包み紙を大事に保管してるのも少しおかしいのを自分で理解している。
それに、深夜はなまえの義兄だ。
姉の夫となる(はずだった)人と二人で食べに行った思い出を大事にしまっていて、変に自分の気持ちを勘付かれたくはない。この想いは、この紙と一緒に誰の目にも触れられずひっそりと仕舞っておきたいのだ。


「…嘘つき。」


そう胸の想いに蓋を閉めるよう、静かに目を伏せた時だった。
深夜がなまえの目を真っ直ぐ見て、そう言った。


「これ、真昼とじゃなくて、僕と二人で一緒に食べに行った時の、でしょ。」

「…え…、」


言い当てられた事実になまえが目を大きく見開くと、深夜はにっこりと笑った。


「夜、大人達に内緒で原宿に行ってその時に食べたクレープの紙。」

「お兄様、覚えて…、」

「覚えてるよー。だって、」


すっと、深夜は身を屈めてなまえの耳元で囁いた。


「初めての内緒のデートだったもんね。」

「…っ!えっ、あ、いや、そ、そ、わたし、そ、そういうわけではっ、あ、あのっ」

「大丈夫、わかってるよ。クレープ美味しい美味しいって言ってたもんね。」


ははは、と笑われながらも深夜に頭を撫でられて、なまえは顔を真っ赤にした。
―覚えていて、くれた。
彼にとってはきっと気まぐれ程度に連れ出してくれたのだろうあの時のことを。なまえは安堵した。彼があの時の事を覚えていてくれたこと、そして、自分が彼と一緒にクレープを食べたことではなく、クレープを食べた思い出を大事にしていると勘違いしてくれたこと。いや、ほっとしていると同時、何処か片隅で少し悲しくもなっていた。届かない、届いてはいけない自分の気持ちが、彼には絶対届かないことを。
でもそんな感情は、彼女の我儘だ。


「また、クレープ食べに行こうね。」

「はい、深夜お兄様。」


こんな時代、いつまたあの時のクレープを食べに行けるかなんて保障は何処にもない。それでも、自分はこの口約束だけでいい。口約束でいいのだ。それだけで自分は、こんなにも満たされている。


「また僕のバイクでいこうね。」

「…そう言えばお兄様、免許取りました?」

「どっちだと思う〜?」

「お兄様………。」



***


なまえとお茶を飲んでゆっくりとした時間を過ごした後、深夜は深く溜息をついた。と言っても、くしゃりと前髪をかきあげた顔は参ったとばかりだが、悪くはなさそうだ。


(…あの時の包装紙大事にしまってるなんて。)


顔がにやけてしまうのを隠すのが大変だった。
あの時の自分は真昼も存命だったし、そういう気持ちが根底にはあったかもしれないが、でも自覚はまだしてなかったはずだ。
不憫だと思ったのだ。家から出られない少女が。学校に行けば女子達はそれなりにお洒落や流行に気を使っていたし、なまえもそれにまったく興味が無いというわけではなかった。真昼がシノアとクレープを食べに行った話を自分も何処からか聞いて、それを話のタネになまえの顔を見に行った時、皿に出されたクレープを食べるなまえの姿を見た。一人で、部屋の中で、ナイフとフォークを使って食べる姿。言う程自分も親しい人間など居なかったが、流石にあれは無いと言い切れた。気付いたら、夜、彼女の細い腕を掴んでバイクの後ろに乗せていた。黙って家を出た彼女はひどく狼狽えていたけれど、でもクレープを食べ始めたらお菓子のようなとろける笑顔を見せてくれた。初めて見た彼女の年相応な反応に、深夜も笑っていた。ずっと息苦しいと感じていた世界で、久々に肩の力が抜けた時だった。
その夜は、彼女だけではなく、深夜にも特別な日になったのだ。


(それにしても包装紙大事に仕舞ってるとか…、可愛いなぁ、もう。)


にやける口元を手で隠し、深夜は再び溜息をつく。
彼女にとってあの日の思い出は、初めて食べたクレープの感動だろう。きっと自分も、彼女に初めてクレープを食べさせた思い出くらいだった。でも今はもう、なまえを連れ出した初デートにしか思えない。


(…そう言えば、なまえはなんで僕にクレープの包装紙を見付けられた時、真昼達と行ったなんて嘘をついたんだろう。)


最初から自分とクレープを食べた思い出だって言ってくれれば良かったのに、と首を傾げた深夜だが、互いの想いはまだクレープのように包まれいる二人であった。

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