女狐



その体の半身以上はある大きな薬箱を背中に担いで、薬売りは先程から聞こえる鳴き声のもとへと茂みに足を入れた。手入れなどされていない地のせいで薬売りの高下駄には土がこびり付き、足を重くさせたが聞こえてくる鳴き声がまるで泣いているようにも聞こえるため、薬売りの足は前へ前へと進んでいく。目が覚めるような鮮やかな浅黄色の着物が藪を踏み分け、鳴き声の元を探す。

先程から

こんこん、

こんこん、と。





女狐







「これは…。」


茂みを抜けた薬売りはその鳴き声の主を見つけて少しばかり目を見開いたが、涙をはらはら、はらはらと流す鳴き声の主と目が合うと静かに唇に笑みを浮かべた。


「滅多なものが、引っ掛かったものだ…。」


そこには、狸捕りに足をとられて座り込んでいる娘がいた。抜けるような白い肌に粒のような涙を流し、その涙に濡れたように艶々と光る髪は腰まで伸びていて、結わえるつもりはないのか、ただ背中に流している。一応それらしく見えるように紅梅の小袖を着ているが、詳しい着方がわからないのか帯はきちんと締められていない、しかも襟が乱れていてそこから小さな胸元が見えている。転んだからか、それとももがいたせいか、裾は薬売りの下駄のように土に塗れ、狸捕りの鋭利な刃によって傷つけられた足首の血が染み付いている。それにしても、


「うまく化けたものだ。」


薬売りは目の前の娘に言った。娘は流れる涙を無造作に手で拭い、垂らした鼻水をすすった。


「しかし、狸捕りに足をとられるのは、ちと情けない。なぁ、」


狐よ。


ガラス玉のような瞳を細めて、薬売りは背中から薬箱を下ろした。少し攣り目勝ちの娘は狐と言い当てられた事に少しの間驚いていたが、薬売りの独特な雰囲気と空気に同類か何かと判断したのか、ガラス玉の瞳に今度は頬を赤くし、恥ずかしそうに俯いて狸捕りから足を外してくれている薬売りの手に視線を落とした。


「あ、ありがとう…。」


ちりん、と。
鈴を鳴らしたような愛らしい声だった。


「私、いつもこうで…。この間も檻に掴まりそうになったりしたの。」

「それは…。狐の名も泣くだろうに。」

「うん。仲間によく言われる。お前は本当は狸に生まれる予定だったんだけど、魂が腹に宿る前にすっ転んで、間違えて狐の腹に宿ったんだ、って。」


薬売りは娘の、いや、狐の白い足にこれ以上の傷をつけまいと丁寧に狸捕りの刃を外した。刃には狐の血がべったりとついていて、狐の足首にも刃の痕がくっきりとついていた。血を拭き取ってやろうと薬売りは布を取り出そうとしたが、先に狐が体を折り曲げ足首を舐めていた。薬売りは、ならば確か塗り薬があったはずだ、と後ろの薬箱の取っ手に指を通す。


「それでね、何度も何度もそう言われ続けて流石に嫌になったから、一人で暮らそうと思って森を出ようとしたの。それで…。」

「狐が狸捕りに引っ掛かったと…。」


狐は恥ずかしそうに頷いた。薬売りは薬箱から適当な塗り薬を取り出し、二本の指の腹でそれを取り、狐の足首に塗った。痛かったのか染みたのか、狐は小さく声を上げて艶やかな髪の中からくすんだ狐色の耳を張らした。せっかくそれらしく化けていたというのに、これでは半化けだ。成程、仲間の気持ちのわからなくもない。狐は出てきた耳を垂らしてうなだれた。


「あぁ…、どうしてこんなに出来ないのかなぁ。なんでこんなに駄目なんだろう。」


気落ちしているから、今度は捲れた裾から尻尾までもが出てきている。それもしょんぼりと尻尾をぱたぱたと小さく揺らして。
古から狐は人を騙し、悪戯をする反面、神使として信仰されている。最上位である孤は神に等しく、天狗と同一とする説もあるが、果たしてこの狐は…、と薬売りは狐の足首に布を巻いた。半化け状態を戻す気はないのか、狐はただただ「どうしてだろう」「なんでできないんだろう」と自分の駄目さに言葉を零していた。そんな狐に薬売りは小さく笑うように鼻を鳴らした。この狐は、人を騙す狐でもなく、信仰される狐でもなく、ただの狐、か。(それも随分中途半端な…。)


「駄目、というわけではない。」

「え?」

「自分の力量を認め、尚且つそれを知ってでも仲間の元から離れようという心意気は、捨てたもんじゃぁない。」


狸捕りに足をとられて泣いていた狐の涙痕を薬売りは自分の袖口を唾で濡らして拭ってやった。白い肌をした、まだまだ若い娘の狐はきょとんと薬売りを見つめている。半化けしている狐色の耳は生え変わりの時期なのかうっすらと白い毛が混じっていた。


「狐、名は?」

「ないよ。」

「そうか。ならばお前はきっと…これから、なのだろう。」

「これから…?」


そう、何も「できる」「できない」が全てじゃない。況やこの狐は名を持たぬ程まだ年若い。これから色んなことを知って、学んで、立派な妖狐となるだろう。人が仕掛けた狸捕りに掴まっても人を憎むことをせず、仲間の狐も憎まない優しい心は間違いなく善狐だ。しかもこんなに愛らしい娘に化けることができるのだ。「駄目」なことはないだろう。この狐に足らないのは知識と学習、そして年月。薬売りは大きな薬箱を背負った。


「もう行っちゃうの?」


狐は浅黄色の袖を掴んだ。
踵を返そうとする薬売りに狐は寂しそうにして見上げて、薬売りは狐の頭を優しく撫ぜた。


「一緒に来るか…。」

「っいいの!?」

「冗談…のつもりだったんですがね。」


嬉しそうに目を輝かせた狐に薬売りは溜め息を笑みと一緒に混ぜて袖口を掴んだ狐の小さな手を取った。


「なまえ。」

「…え?」

「お前が独り立ちするまでの名。」

「なまえ?それ、私の名前?」

「そう。嫌か?」


狐はそう言われると小さく「なまえ…、なまえ、なまえ」と口にして、やがて大きく顔を上げた。その表情は、明るい。


「ううん、そう呼んで!私の名前!なまえ!」


きゅう、と掴んだ手に力がこもった。薬売りは愛らしい狐をもう一度撫で、今度こそ踵を返した。一歩遅れて、この藪に入ってからはなかったもう一つの足音を聞きながら茂みを踏み分ける。また狐が狸捕りに足をとられないよう。それを知っては知らずか、狐は薬売りの後ろにしっかりとついて来ている。狐は人間への変化も中途半端に薬売りに話しかけた。


「ねぇ、あなた。あなたの名前は?」


薬売りは高下駄で草を踏みながら、狐にそのガラス玉の瞳を細めた。









「ただの


薬売り



ですよ。」


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -