ロストフライデー(1/3)

彼と初めて出会ったのは一年前。
私が彼のハンカチを拾ってあげたのがきっかけだ。
乗り換えの駅で目の前の男性がハンカチを落としてしまった。ポケットにしまおうとして落としたのだ。
男性はハンカチを落としたことに気付かず、私はそれを目の前でしっかりと見てしまった。
一瞬、私はそのハンカチを拾おうか悩んだ。
しかし、ここは各線が集まる大きな駅だ。だから人が多くて、今私がハンカチを拾おうとして立ち止まったらさぞ迷惑な目を周りから向けられるだろう。
ハンカチくらい、誰だって落とす。
私だって落としたことがある。でもどうせハンカチだしって、すぐに諦めた。だからハンカチ一枚落としたことくらい、なんてことないし、落としたら彼が自分で探せばいいだけ。そう見てみぬフリをしようとした。
しかし、なけなしの良心と目ざとく見つけてしまったハンカチのブランド名に私はそのハンカチを拾って彼の肩を叩いた。
「あの、落とされましたよ」
振り返った男性は、見たことがないほど顔の整った人だった。
梔子色の大きな瞳。それを囲う長い睫毛、すっと通った鼻、薄い唇。細い顎を包む、象牙色の柔らかな髪。
その人はブランドもののハンカチを所有しているだけあって、上等そうなスーツを着た品のある顔立ちの人だった。
何があっても、私のような一般人が知り合っていいような人間ではない、と一目でわかった。
彼の顔と恰好を見て『しまった、拾ってあげたのは余計だったか』と思った。
だって、ブランドもののハンカチだから大切にしてるかなとか思ったけど、こんなに品のいい人ならそれこそ『どうせハンカチ』って思ったかもしれない。そう心の中で失敗したと思った時だ。
「拾って追い掛けてきてくれたの? ……優しい子だね」
彼は、そう言って柔らかく目を細めた。
後に聞いた話だが、そのハンカチはどうやら彼の弟が誕生日にプレゼントしてくれたもので、とても大切にしているものだったらしい。落としてやるなよ……。
結果、拾ってあげて良かった。という話なのだが、そのエピソードはそこで終わりではなく、後日、またその乗り換え駅で私は彼に声を掛けられた。
「ハンカチを拾ってくれたお礼がしたいのだけど」
……と。ハンカチを拾ったくらいでお礼だなんて、ましてや一度は見なかった事にしようとも考えていたほど些細な出来事だったのに、男性から食事に誘われた経験のない私は上手い断り文句も思い浮かばず、なかば引き摺られるようにして彼と食事をすることになった。
彼の名は髭切。
少し呼びにくい名前に彼は「家が古くて受け継ぐものが多いんだ」と呆れたように話していた。
やはり、いいところの男性なのだ。
そしてそんな男性にお礼の食事を誘われ、その日の内に私は告白されてしまった。
「一目惚れしたんだ。お付き合いを申し込んでいいかな」
考えもしなかった急展開に流石の私も冗談だとわかってその場を流したのだが、後日、またその後日も、彼は私を食事に誘っては同じ言葉を告げた。
男性からこんなにアプローチをされた経験のない私は、もう何から何までどうしたらいいのかわからなくてとにかく困っていた。
彼はそんな私と違って落ち着いており、初めて会った時もそうだったが、柔らかく目を細めてはいつもにこにこしていた。……今思えばただのマイペースを盛大に発揮されていただけと気付くけど。
そしていつの間にか休日に会う約束をしたり、映画を観に行ったり、仕事終わりに食事をしたりと会う回数がどんどんと増え、私がはっきり返事をしない内にハグもキスもその後も彼によって奪われていた。
自分でも、自分はガードが固い方だと思っていたのだが、私はいつの間にか彼によって呆気なく崩落されていた。いや、崩落というよりも、無血開城……?
いつから彼の事を好きになっていたか、というよりも、いつの間にか彼を好きになるようにさせられていた、と言った方が正しいので、結局彼を前に私のガードなど最初から無いに等しかったのだ。
と、まぁ言い方は悪くなってしまったが、今でははっきりと彼を好きだと言える。
そりゃあ確かに彼の勢いに押されてしまっていたところもあるだろうが、それでも、今では彼が居ないと自分はもう駄目になってしまうだろうと思える程度には、彼という存在を愛していた。
「――ねえ、そろそろ僕のお嫁さんにならない?」
そろそろカーテンを新しいのにしようか、とでも言うように彼は言った。
出会って一年。
既に私の生活は彼を中心に回っていた。
土日や連休はこうして彼の部屋に泊まりに行ったり、旅行に行ったり、平日でも彼が会いたいと言えば会いに行ったし、疲れているからまた今度でもいい? と聞いてもあちらが私の部屋に来たりと離れている時間の方が短かったかもしれない。
もうほとんど同棲しているような感じでもあったし、彼がこんな何の取り柄もない私でもいいと言ってくれるのなら、むしろもらってやってくださいという形だった。
髭切の手を取って、嬉しさと、恥じらいと、決意を込めて、「はい」と頷けば、幸せそうに微笑まれたのを覚えている。
その笑みを見て、私は改めて、ああ、彼が好きだ、と思ったのだ。
「じゃあ、次の金曜日に揃いの指輪を買いに行こう。夜は二人で美味しい夕食を取って、その後、僕の部屋に泊まってくれるよね?」
そう嬉しそうに話してくれた彼が、その金曜日に、階段から落ちて緊急搬送されたという話を聞かされた時、私は何かが崩れていく音をはっきりと聞いた。          
婚約する。

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