カツカツとハイヒールの音が響く。ボーナスを叩いて購入したマノロブラニクのパンプスは、ヒールの形さえ美しい。無理をして買ってよかった。そう思いながら元雇用主の病室へ急ぐ。途中ですれ違った人にじろりと怪訝そうな目を向けられ、なるべく音を立てぬよう早歩きをする。

 ノックを四回。病室の前で、深く息を吸う。どうぞ、と声が聞こえた。その声は危惧していたよりも気丈で、わたしは安堵のため息と同時に深呼吸を続ける。足元を見つめる。スマートフォンのケースについている鏡を見て、微笑んで見せる。ルージュディオールの080番は、ひと塗りではっとするような赤色に唇が色づくので気に入っている。あの人の隣にいた時には選ばなかった色だ。

「お久しぶりです。覚えていますか?」
「………覚えてるよ、久しぶり」

 扉を開けて声を掛けると、元雇用主――平和の象徴はわたしを見て意外そうに目を丸くした。そして穏やかな笑みを浮かべ、わたしを病室へ迎え入れた。

「まさか君が見舞いに来てくれるとは」
「あなたはわたしの初めての上司ですから。当然来ますよ」
「嬉しいよ。しかし随分雰囲気が変わったね」
「あれから六年になりますから」
「そうか、六年か」

 六年もたてば、女は雰囲気が変わるに決まっている。使っている香水も、口紅も変わったのだ。もう、あの時のコーラルピンクは捨ててしまった。そんなわたしを見て、彼は大切なものを思い出すかのように穏やかに目を細める。わたしはその目を見て、思い知ってしまった。平和の象徴は死んだのだと。

「穏やかになりましたね」
「そうかな?」
「以前のような野心や狂気が、今のあなたからは感じられません」
「野心や狂気って。元上司に対して酷いな」

 自分は平和の象徴で在り続けなければならない。たとえ自分自身の身体が満足に動かなくなったとしても。どんな困難にも、笑って立ち向かわなければならない。たとえ自分自身の身体がどれだけ悲鳴を上げていたとしても。究極の自己犠牲の上でこそ平和は成り立つと考えていた傲慢なナンバーワンヒーローは、もうこの世にはいない。その事実に、酷くわたしは安堵してしまった。

「安心したって顔をしてるね」
「……」
「私の秘書をしていた時から、君は私の心配ばかりをしていたから」
「あなたが無茶な戦い方ばかりをするから」
「そうだね。君には沢山辛い思いをさせた」

 わたしがオールマイトの秘書でいた期間は短かった。六年前のわたしは社会に出たばかりで精神も未熟で、無茶な戦い方ばかりをする上司が心配で心配で仕方がなかった。泣いて困らせることもたくさんあった。初めての上司が心配で、心配でたまらなかったのだ。

「ナイトアイはよくしてくれるかい?」
「はい。最高の上司です」
「私と違ってとでも言いそうだね」
「そうですね」

 今の上司も、あの時と変わらず、あなたのことを心配している。少しも違わず。そう口にしたかったが、できるはずがなかった。あの人も、わたしも、六年前に彼と決別したのだから。

「そんな顔をしないでくれ」
「どんな顔してました?」
「あの時と同じ顔だ。私が心配でたまらないとでも言うような」
「心配なんてしてませんよ。あなたはもう引退されたじゃないですか。もう動かない身体を無理やり動かす必要もない。世間に嘘を吐く理由も」
「そうだね。ナイトアイはきっと自分の予知が当たったと呆れているだろうな」
「そうですね」

 心配なんてしていない。もう、あなたの瞳からは野心も狂気も消え去ったのだから。だから、もう、ようやく、あなたは――、

 わたしはそこまで考えて、目を見開く。わたしの表情を見て、彼は不思議そうな表情を浮かべた。

「不安そうな顔をしてるけれど、大丈夫?」
「………」
「私の体調を気遣ってくれてるのかい?それなら平気だ、個性はもう使えないが――、」
「違います」
「違う?」

 唇を開く。少しでも気丈に見えるように、気丈に振る舞えるように塗った深い赤色は、きっともう意味を持たない。

「わたしが不安に思っているのは、あなたの体調じゃない」

「ナイトアイの予知が当たることでもない」

「わたしは―――、」

 声が震えてしまった。想像よりも泣き出しそうな声が、唇から響く。

「あなたが平和の象徴に戻りたがっていることが怖い」

 わたしの言葉に、八木さんは目を見開いている。その瞳には、微かに炎が燻っている。この人の中の個性は消えてしまったとしても、心の中の狂気はまだ、確かに燻っていると悟ってしまった。

「それでは失礼します。八木さん」
「……来てくれてありがとう」

 病室を出て、化粧室に入る。鏡を見つめると、六年前のような情けない表情をした自分がこちらを見つめていた。イヴサンローランのヴォリュプテシャイン15番を塗った、ジルスチュアートの香水を纏った、すれていない自分が泣き出しそうな瞳でこちらを見つめている。六年前と変わらない。わたしはあの人の隣にいてもいなくても、一生あの人を思って泣くのだろう。瞳に狂気を宿した、傲慢なヒーロー。個性は失われても、信念や象徴は生き続けると信じている、酷く傲慢なヒーロー。だけれどわたしにとっては、ずっと彼は、

(170915/スーパースター)