無邪気なお方だった。
執事見習いのカナリアに“友達になってよ”と願い、一介の執事である私如きを遊び相手として下さる様な、無垢な…しかし時折悪巧みをする際にはニヤリと笑いかけて下さる…そんなゾルディックという闇の名と正反対のとても無垢で明るく、…無邪気なお方だった。









白く細い指先が頬に触れた。
輪郭を確かめるかの様になぞるそれはゆっくりとした動きで顎に至る。
そのまま下降し、きっちりと締めたネクタイに及んだ時、私は静止するようにこの方の御名を呼んだ。


「キルア様」


私とこのお方のみのキルア様に私室に私の声は思いのほかよく響いた。
静けさを破った余韻は直ぐさま消え失せ、それまで以上の静寂が場を占める。
私の声を聞き止ったキルア様の指は、しかしキルア様がちらりと私の顔を窺った後、何事もなかったかの様に再び動き出す。
ゆるりとネクタイを解き釦に手を掛けるこの方の右手を黙認出来ずに抑えた。
途端不機嫌を露にしたキルア様が私を咎めるように見やる。
「駄目です」と私が言えば、「何で」と即座に返された。


「キルア様、私は執事です」
「知ってるよ」
「この様な事は私の分を超えております」
「なんで。ランは俺の教育係だろ」
「そうですが…」
「ならちゃんと教えてよ、この先…」


胸ぐらを掴まれ、引き寄せられる。
右耳に柔らかい唇が触れ、甘い吐息と言葉が私の脳を揺さぶった。


「駄目ですキルア様」
「ラン」
「確かに恐れ多くも私はキルア様の教育係を勤めさせて頂いております。
しかし今、キルア様が望まれておられる様な知識に関しては私の預かりではございません」


私のシャツを掴んでおられるキルア様の右手を丁寧に外し、私は諭すようにはっきりと告げる。
私を見上げる無表情なこの方も今年で御歳12歳。
このような事にも興味を抱かれる御歳なのだと思うと、執事長ではないにしろ、幼少の頃よりお仕えしている身としては何とも言えない感慨深いものがある。


「キルア様、貴方様はこのゾルディック家の時期御当主。
子を成す為、確かにこの様な知識も何れ必要となってまいりましょう。
ですがそれを御教えしますのは、私ではございません」
「何で」
「私には過ぎる事であるからです」
「ふーん…」


興味が無くなられたのか、ただそれだけを呟かれたキルア様はそのまま口を閉ざされた。
何か御気に触れたのかと思うも、女の身である私にはキルア様が何を思われこの様な事を望まれたのか分からない。
否、そもそも所詮執事如きの私がキルア様のお考えを知ろう等という事自体が愚かなのだ。
しかしこのままにしておく分けにも行かず、かといって触れてはならないと告げる直感に困惑した。
どうしたものかと思う。
職務を放棄するわけにはいかないのだから。
横目に確認した僅かばかり離れたデスクの上に広がるのは、私が務めさせて頂いている教養に関する教材。
しかしそれの本日のノルマは未だ達成されていない。
内心で吐いた溜め息を笑顔で塗りつぶし、「さぁ、休憩は終了してお勉強の続きを致しましょう」とキルア様を促した。
ス…、と美しい宝玉の様なキルア様の目が細まる。


「やだ」


妖艶に上がった口角に、音を紡いだ口から除く赤い舌に、ゾクリとした恐怖に似た何かが走った。
否、きっと恐怖だったのだろう。
それは、絶対の君主に対して身を弁えぬ愚かな感情を抱いた故の背徳心。
恐れ多くも美しいこの方に、魅せられてしまったのだ。
ゾルディック家の執事にあるまじき失態。
愚行。
本来ならばお会いする事すら叶わぬ御身に一瞬、焦がれたのだ。
そして、魅せられた私如きの隙をキルア様が見逃す筈がなかった。


「っ…、」


口に感じる熱と共に視界が揺れる。
私の目に映るのは焦点の合わないキルア様のお顔のみ。
私の口内を荒らす私のものとは異なる舌の存在に、現状を把握するのはそれ程難しい事ではなかった。
どうしたものか。
押さえつけられた身体は流石はキルア様。
抜け出す事を赦さず、幼いながらもそのお力には畏敬の念を抱かずにはいられない。
キルア様の左手のみで括られた両手首の拘束はどうあっても解く事は出来ないだろう。
その素晴らしい才の一端を垣間みれた事は光栄だが、今回ばかりは厄介だ。
現状、キルア様の体術は私を凌ぐ。
念を使わなければこの状況を打破する事は出来ないだろう。
しかしまだキルア様が念の存在をお知りになる時ではない。
況して私如きがその契機となって良い筈もない。
だが、ならどうすればいい?
噛み付く様な口付けは徐々に私から思考能力を奪っていく。
感覚を鈍らせようにも、自由なキルア様の右手によって感覚を鋭敏にする箇所を刺激されそれもままならない。
“感じさせる”口付けにこれもキルア様の訓練の一貫なのではと思わずにはいられない。
何せ、キルア様の動きは明らかに“意図”されたものだ。
馴れている。
それが直ぐに判断できる。
しかしだからこそ恐ろしい。
どうやって逃げればいい?
どうやって諦めていただければいい?
この口付けだけで、終わっていただけるのだろうか…。
これがキルア様の気紛れなら、その可能性はある。
しかしこれがキルア様の訓練ならば…、果たしてどうだろうか。
否、私が“この件”に関する訓練に関われる筈がない。
キルア様はゾルディック家のご子息、お相手は間違いなく御当主様か奥方様、或はイルミ様がお選びになられた“正当”なお方が務められる筈だ。
では何故キルア様は私に触れておられるのか?
何故、私如きを…。
気紛れ?
そんなもので私の様な執事に?
分からない、
考えられない、

吐息を奪いつくされ、歯列がなぞられ、逃げる私の舌を絡め取られる。
甘く痺れる熱に、嗚呼私も所詮女なのだと思い、嫌悪した。
私自身に、貴きキルア様に私の様な卑しき存在が触れている事に。
現状を生んでいる私の存在そのものを、嫌悪…憎悪した。

はぁ…、と熱い吐息がぶつかり合い、銀の糸がプツリと切れる。
私の顎を伝う同じそれをキルア様がなぞる様に舐め取られていく。
御止め下さいという私の声は再びキルア様に依って塞がれた。
くちゅ、と耳に残る水音。
キルア様の舌と触れ合う度に反応する身体はもう完全に私の支配下にはない。
欲望と、快楽と、そんなものに呑まれる自分の身体を壊してしまいたかった。
けれどそれさえ出来ず、私はキルア様の一挙一動に身体を揺らす。
身体の芯を走り抜ける甘い快楽の衝動はほぼ全ての思考を奪い尽くしていた。
キルア様が角度を変える度の漏れる吐息、甘い、強請る様な喘ぎ声。

嗚呼嗚呼!!
なんて私は醜いのか!
それなのに私は歓喜している。
女の身体が、キルア様が触れて下さる事に!!
なんて浅ましいのだろう。
けれど…、それすらも……。


「どうでもよくなってきただろう?」


耳に直接送り込まれた言葉。
キルア様の唇が触れる度、舌が這う度、私は母音の羅列を口にし、身体を振るわせる。
「耳、弱いんだ…」とクスクスと笑われるその振動すら快楽となり、私の言葉を奪う。


「もう、抵抗出来ないだろ?」
「キル…さ…」
「ラン、つーかまーえた」


その言葉はキルア様がもっと幼い頃、私相手に行われた鬼事のそれと同じで、
しかしそう仰って私の身体に指を這わすこの方の笑みに、かつての無邪気さ等ありはしなかった。









 鬼事


捕まったら終わりだよ。








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