衣更くんは真面目だ。宿題も先生の手伝いも嫌な顔一つしたことがない。衣更くんは世話焼きだ。朔間くんだけでなくクラスの皆の面倒をみてくれている。衣更くんは頭が良い。生徒会もやっているのに勉強も疎かにしていない。衣更くんは優しい。誰にでも優しい、クラスメートの私にも。衣更くんは……

「……みょうじ、おい、みょうじ!」

「…え?あ、は、はい!」

「何をぼーっとしてるんだ。この問の答えは?」

「え、えっと……あれ…?」

慌てて教科書と黒板を交互に見るが、何ページのどこの問いを聞かれているのかさっぱり分からない。先生と、周りの皆の視線が集中して恥ずかしさでかぁっと顔が熱くなる。静まり返る教室に、「聞いてなかったのか?」と先生の低い声が響く。

「……す、すみませ…」

「…S=1/2absinC」

「え?」

声のする右隣にそっと視線を向けると、隣の彼はシャープペンをくるっと指で回して再度同じ言葉を呟いた。

「みょうじ、どうなんだ?」

「あ、えっと、…S=1/2absinC?」

「そうだ。まったく、ぼーっとせずにすぐ答えろ。次、この問いを……」

先生が最前列の男子に答えさせようとすると、ちょうど終業のチャイムが鳴った。男子は小さくガッツポーズをすると、「次はお前からだぞ」と捨て台詞を吐かれていた。じんわりと汗ばんだ額を拭い、今度は体ごと右隣へ向ける。衣更くんは教科書を机にしまって、ぐーっと伸びをした。

「あ、あの……。衣更くん…」

「ん?どうしたみょうじ?」

「さ、さっき…助けてくれてありがとう。ちょっと考え事してて…答え分からなかったから、すごく助かったの…」

「ははっ、気にすんなよ。困ったときはお互い様だろ!」

ニカッと眩しく笑う衣更くんに恐縮してしまう。お互い様だなんて、私が衣更くんの役に立てたことなんて一度もないのに。

「考え事って、何考えてたんだ?先生の声が聞こえないくらい集中してたんだろ?」

「え!?な、何って…」

衣更くんのことだよ。なんて死んでも言えない。誤魔化すにもボキャブラリーの少ない私には言い訳になる言葉が思い浮かばないのだ。そんな状況で、衣更くんは優しい笑顔のまま私の答えを待っている。視線を泳がせる自分の瞳に、廊下に張り出されていたそれが目に入り、咄嗟に口からこぼれ落ちてしまった。

「は、はなびっ…!」

「え?」

「花火……のこと、考えてたの。も、もうすぐ河原で花火大会があるでしょ…その、いいなーって、見たいなーって、思ってたの…」

失敗した。幼稚園児か…、自分の発言に顔から火が出そうなほど恥ずかしくなってしまった。いいなーって、見たいなーって、って何だそれ。男の子と話すのは緊張するから昔から苦手だ。違う意味で、衣更くんだと尚更だ。普段から衣更くんが話しかけてくれることはあるけど、人気者の彼に私から声をかけることは殆ど無い。きっと変な女だって思われたかもしれない。体の向きをゆっくりと正面に戻す。

「…そっか、もうすぐ花火大会か。すっかり忘れてたけど、もうそんな時期なんだな〜」

「え……」

「部活と生徒会の忙しさに追われてばっかりで、俺としたことが夏を満喫しないまま終わるとこだったよ。ありがとな、みょうじ!」

何故お礼を言われたのか分からない。衣更くんは、うーんと考える素振りを見せた後、少し声を抑えて「なぁ、」と前屈みになった。

「その……みょうじはさ、誰と行くんだ?花火大会に」

「え、えっと…誰だろう…、分かんない」

「それって、まだ誰とも約束してないってこと?」

「う、うん。行きたいなーって思ってただけだから…」

「そっか。じゃあさ…花火大会、俺と行かないか?」

「え!?衣更くんと!?」

「ははっ、驚きすぎだろ。まぁ、急に言われても困るよな。嫌だったらスルーしていいから…」

「い、嫌じゃない、よ!!」

自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。クラスの何人かが不思議そうにこちらを振り返った。すると、「…あははっ!」と隣の彼が愉快そうに笑う。

「みょうじの大きな声、初めて聞けたな。いつもそのくらい元気に話してくれよ!あ、もしかして俺と行けるのがそんなに嬉しいのか〜?なんちゃって……」

「あ………」

「え…」

今の私を漫画で描いたとしたら、顔の横に「カーーッ」という効果音が載せられるに違いない。鏡で見なくても分かるほどに私の顔は真っ赤になっているであろう。目を丸くして驚く衣更くんは少し固まった後、まるで私のそれが伝染したかのようにボッと顔を赤くして口元を手で抑えた。

「……いや、悪い!その、冗談だから、変なこと言ってごめんな!」

「あ、う、ううん!こっちこそごめん!そうだよね、冗談だよね、私そういうのよく分からなくて…。衣更くん人気者だから一緒に行く人沢山いるもんね!」

「え?いや、違うって!一緒に行こうってのは冗談じゃなくて…、俺はむしろ一緒に行きたいからさ。みょうじが嫌じゃなかったらだけど、一緒に花火大会行こうぜ」

「う、うん」

「一応言っとくけど…、二人のつもりだからな?」

「あ、う、うん!」

ぶんっと首を縦に振ると、彼は頬を染めたままニカッと歯を見せて笑った。


*********


「浴衣着ちゃったけど、気合い入れすぎとか思われないかな…。で、でも、せっかく衣更くんが誘ってくれたんだし、男の子と二人で出掛けるの初めてだし…!でもでも、衣更くんは花火大会一緒に行く人がいない寂しい私を気遣って誘ってくれただけなんだろうから、変に気合い入れた格好ってのもやっぱりどうなの…!?」

「ねーちゃん、玄関に来てる。男!」

「え!?」

「ブツブツうっせーから早く行けよな、邪魔!もうすぐ彼女来るからとっとと出掛けろよ!」

「あ、あんた本当に姉を何だと思って…」

追いやられるように玄関へ向かい、下駄を履いてドアを開けると白いシャツを着た衣更くんが立っていた。私服、初めて見るな。かっこいいな。そんな事をぼんやり思っていると、衣更くんがドアの音に気付いてこちらを振り返った。視線が重なりドキッと心臓が跳ねる。

「お、お待たせ!わざわざ来てくれて、どうもありがとう!」

「あ……、や、それは全然いんだけどさ。………浴衣なんだな」

「え?…ご、ごめん、浴衣じゃないほうが良かったかな?歩くの遅くなるもんね!す、すぐ着替えてくるから、ちょっとだけ待っててもらえるかな?」

慌てて家の中へ引き返そうとすると、腕を強く引かれてバランスを崩してしまった。背中が衣更くんの胸にトンっと沈む。耳元に衣更君のいつもより少し低い声が聞こえた。

「着替えなくていいから。その…、浴衣すげー似合ってるよ。正直びっくりした…」

「え、い、衣更く…」

「行こうぜ、早く行かないと良い場所なくなるからな」

「あ、うん…」

自然と手を繋がれ、花火会場へ歩き出す。ドキドキで息が上手く吸えない中、こっそりと横の衣更くんに目をやると、耳が赤いように見えたけれどそれは夕焼けのせいなのだろうか。私みたいな目立たない女子が衣更くんと手を繋いで花火を見に行くだなんて、衣更くんのファンが知ったら驚くのか怒るのか、または夢だと思うのか。私だって夢ではないかと思ってしまう。


「さっき玄関に出てきてくれたのって、弟か?」

「あ、うん。中学生なんだけど、口悪いし態度悪いし本当に生意気で…。衣更くんに変なこと言わなかった?」

「はは、そうなのか?ちゃんと挨拶してくれたし、しっかりした子だなーって思ったけど。みょうじにも似てるよな」

「えぇ!に、似てるかなぁ…」

先程の「邪魔!」と蛇のような目をした弟を思い出す。似てるかな…?やだなぁ。でも衣更くんが楽しそうに話してくれるから、まぁいいか。花火会場近くまで来ると一気に人が増えてきて、繋いでいた衣更くんの手に力が入るのを感じた。

「…あの、衣更くん。ほ、他の友達と行かなくて良かったの?明星君とか、きっと色んな人から誘われてたでしょ?私が花火行く人いないって言ったから、気を遣ってくれたんだよね。なんだか申し訳なくて…」

「え?」

前に進んでいた彼の足がピタリと止まる。振り返るようにして止まった衣更くんの胸に、まだ足を進めていた自分の顔が当たり「ぐむっ」と変な声が出てしまった。ごめん、と顔を上げると衣更くんは驚いたような、そして少し困ったようなそんな表情をしていて、私もそれに驚き体が固まってしまった。夕日が沈み始め、夜が迫ってきている。衣更くんの顔がオレンジ色からゆっくり群青色へと変わっていく。

「もしかして俺、勘違いしてたのか?」

「衣更くん?」

「…なぁ、みょうじって好きなヤツとかいるのか?」

「え!?す、好きな人って…えっと…」

「今日、本当はそいつと来たかった?俺が誘わなかったら、そいつに声かけるつもりだったんじゃないか?」

「…?ど、どういう意味?私は…」

「俺、みょうじが今日オッケーしてくれたから、てっきり……。ごめんな、一人で突っ走って」

繋がれていた手がするっと解かれる。状況が理解できず、ただ衣更くんを見つめることしか出来ない。衣更くんは一度視線を逸らし、もう一度こちらを見て困ったように笑った。どうしてそんな顔をするの?「行こうか」と歩き出す衣更くんは人混みに吸い込まれて消えてしまいそうで、慌てて彼のシャツの裾を掴んだ。

「あ、あの、私何か変なこと言ったかな?」

「いや、違うって!俺が変な勘違いしてて…みょうじは何も悪くないんだよ。……俺、お前のこと好きだったんだ。花火誘うのだって、実はすげー緊張したんだぞ?だから二人で行くのオッケーしてもらったとき嬉しくてさ、みょうじも俺のこと…って勘違いしちゃったんだよな。本当ごめんな。…でも今日だけ、一緒にいてもらっていいか?俺に思い出作らせて」

彼のこんな悲しい笑顔を初めて見た。いつも明るくて皆の中心にいて、嫌な顔一つしなくて…。毎日こっそりと見ていた。心惹かれていた。住む世界が違うとすら思っていた。花火に誘われたときは、夢じゃないか、またはただの同情じゃないかと思った。衣更くんが、こんなにも想ってくれていたのに、私は…

「……す、数学のとき、」

「…え?」

「数学のとき、答え教えてくれてありがとう。私あの時ね、花火のこと考えてたんじゃないの。本当は、い、衣更くんのこと考えてたの!前からずっと、衣更くんのこと好きだったの。で、でも私なんて衣更くんに釣り合わないし、だから、ただ遠くから見てるだけで良かったの。まさか花火に誘ってもらえるなんて…でも勘違いしちゃダメだって、自分に言い聞かせて…」

「……………」

言いたいことは沢山ある、でもそれを上手く言葉にして表すことが出来ない。どうすれば伝えられるだろう、私が衣更くんを凄く好きだという事。一つ一つ浮かぶ言葉を何とか口に出してみるものの、足りない気がしてならない。ふと、強く握っていた衣更くんのシャツが皺になっていることに気付き、慌てて手を話す。くしゃくしゃになってしまった裾を見て謝罪を口にしようとした時、体が衣更くんに包まれた。

「……好きだ、みょうじ」

「い、衣更く…」

「俺の彼女になって。…ダメって言うの、無しな?」

「う、うん!私も衣更くんのこと、大好きです…」

「ははっ、これヤバいな。俺、今日幸せすぎて寝れないかも」

「わ、わたしも…!」


ドーーーン!空に色とりどりの大きな花が咲いた。抱きしめていた体を少し放し、二人で空を見上げる。綺麗、と呟くと衣更くんはふっと笑った。顔を見合わせると衣更くんのオデコが私のそれにコツンと当たる。こんなに近い衣更くんは初めてで、心臓が花火の音に負けないくらい大きく弾けた。「なまえ、好きだ」名前を呼ばれたのと同時にもう一度、ドーーーン!という花火の音。そして唇が重なる。明日からは、隣の席に座る衣更くんに大きな声で挨拶をしよう。だってもう彼女なんだもの、自信を持って笑顔を向けよう。きっと彼は、この花火のように明るい笑顔で応えてくれるだろう。



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(ま〜くんと花火に行きたかったのです。)




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