*社会人設定/妊娠の表現有り。苦手な方はご遠慮下さい




体調が悪い。ここ最近毎日体が重い。時折感じる吐き気と倦怠感。胸がムカムカして、仕事に全く身が入らずに上司に怒られてしまった。微熱も続いている。そして今日は駅のトイレで吐く始末だ。さすがにこのまはまではいけないと、重い体を引きずって病院へと足を進めた。そこで医師から告げられた言葉に、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。


「おめでとうございます、3ヶ月ですよ」

「は………」

何がですか。そんな質問を医師に投げ掛けるほど、私はバカではないし無知でもない。医師はレントゲンのような写真を差し出し、この小さな塊が赤ちゃんですよ、と笑顔で教えてくれた。私はそれを呆然と見つめることしか出来ない。看護婦さんが何冊かの薄い冊子やノートを持ってきて、「赤ちゃんが育つために、今後の生活に気を付けましょうね」とそれを渡してきた。冊子の紙面には、妊娠中の食生活だとか成長記録ノートだとか、私には当分縁がないと思っていた文字が書いてあった。そして一番最後の冊子は、「パパになるあなたへ」だった。

診断結果を告げられてから一言も発しない私に、医師はじっとこちらを見つめた後、持っていたペンを静かに机に置いた。

「…みょうじさんは、まだご結婚されていないですよね。今後どのようにされるか、赤ちゃんのパパとしっかり話し合いをなさってください。それによって、病院としても処置が変わってきますから」

「……あ、はい…、……わかり…ました……」


病院を出てからも、私の頭は働くことを忘れてしまったかのように何も考えることが出来なかった。体とは不思議なもので、意識とは関係なく足を動かし前に進んで歩いている。どのくらい経ったのだろう、ふと視線を上げると、病院から数キロ離れた海辺まで来ていたようだ。夕日に照らされた海を見た途端、涙がぼろぼろと溢れ出てきた。この涙の意味は、はっきりと分からない。鞄から携帯を取りだし、震える指で通話ボタンを押した。


*****


「なまえ。ごめんね、遅くなった」

「…ううん、急に呼び出したのは私だから。私のほうこそ、ごめんなさい…」

「……どうしたの?元気ない」

平日の夜だからか、予約をしなくてもレストランの個室に入ることが出来た。先に座って待っていた私に、凛月は謝罪をして椅子に腰掛けた。凛月も今日は仕事だったのに、急がせてしまって申し訳ない。

凛月とは夢ノ咲の時に恋人になってから、もう長い付き合いになる。社会人になりたての時、些細なケンカで一度別れてしまったが、お互いに相手のことを忘れられることも出来ずに、またこうして共に歩くことを決めた。凛月とはこの先も遠い未来もずっと一緒にいたい、私はそう思いながら凛月と一緒にいた。でも、彼の気持ちを確かめてみたことはない。それは私が臆病だからだ。今もそう、彼の気持ちを聞くのが恐くてなかなか話を切り出すことができずに、渇いた喉に水を流し込んだ。

「…大事な話って、なに?」

「…………」

「なかなか言い出せないようなこと?」

「…………っ、」

「良い話?それとも悪い話?」

「…え、と……」

目線を泳がせながら、自分の指先を弄る。凛月の視線を痛いほど感じるが、どうしても真っ直ぐに目を見ることが出来ない。口を開けては言葉を飲み込む。それを何度か繰り返していると、個室のドアが軽くノックされ、店員が「ご注文は?」と扉を開けた。

「…とりあえず、赤ワインをグラスで。なまえも同じで良い?」

「あ、私は……あの、ウーロン茶お願いします」

店員が、かしこまりましたと告げて部屋を出た後、先程よりも重い空気が流れた。凛月が言いたいことは何となく分かっている。

「…ウーロン茶って何?何でいつもみたいに一緒に飲まないの?」

「…その、だ、大事な話があるから……、今日は飲むのやめとこうかなって」

「何だよそれ……。じゃあ、早くその大事な話をしてよ。何で話さないの?何で目も合わせてくれないわけ?意味がわからない………っ、はっきり言いなよ!」

「り、凛月…!」

普段あまり感情を表に出さない凛月が、怒りを露にして机をダンッと叩いた。思わず顔を上げて彼を見ると、その目は怒りよりも哀しみに溢れているように感じた。私が息を呑むと、凛月は「ごめん」と呟いて、机上の手を膝の上に下ろした。

「……そんな顔してたら、分かるよ。良い話なはずがない。もう俺のこと嫌になった?いい加減で、だらしないから。なまえの喜ぶことなんてしてあげられてないし、楽しませるのも下手だし。だから他に好きな人ができた?………ねぇ、でも、別れ話なんて聞きたくないよ…」

掌を顔に当てて頭を垂れる凛月に、自分の目にじわじわと涙が溜まる。否定の言葉を口にしようと開いた口を一度きゅっと閉じ、深呼吸をしてから今度は真っ直ぐに凛月を見つめる。掌で覆われた凛月の表情はよく見えないけれど。

「……凛月」

「…………」

「あのね、あの…私ね……」

「…………」

「……赤ちゃん、できたの」

「……え?」

ゆっくりと顔を上げた凛月は、私が今までに見たことがない程に目を見開いていて、こんなにも驚きを表している彼は長い付き合いでも初めてだった。凛月は良くも悪くも普段からあまり感情を表に出さないため、それが原因で喧嘩をしたことも何度もあった。でも、今回は違う。恐がらずに聞かなければいけない、驚きの中に隠れた凛月の本当の気持ちを。

「本当に……?赤ちゃんて…なまえ、妊娠したってこと…?」

「うん…。病院行ったら、3ヶ月だって」

「3ヶ月……そう、そっか……。それって、その、…父親っていうのは……」

「うん…」

「俺ってことで良いの…?」

「当たり前でしょ、他に誰がいるの」

こんなに歯切れの悪い凛月も初めてだった。内容が内容なだけに、仕方がない。こちらとしては、本題を伝えることが出来たことで少し気持ちが軽くなったようで、呟くように「そっか」を繰り返す凛月を冷静に見つめることが出来た。ノックと同時にまた扉が開き、目の前にはグラスに入った赤ワインと、ストローの刺さったウーロン茶が置かれた。店員が出ていった後も、凛月はじっとグラスを見つめたままだ。長い沈黙と、どちらが先に口を開くのか分からない張り詰めた空気が流れる。

「………えっと、私ね、」

「なまえ」

口を開いたのと同時に、凛月が遮るように私の名前を呼んだ。薄暗いレストランの個室で、赤い瞳と目が合う。期待と不安が半分半分。ごくりと喉が鳴った。

「結婚しよう。…してください。二人とも絶対大事にするから。お腹の中にいる俺の子供、産んで欲しい」

「りつ…、」

望んでいた、欲しかったその言葉。もし、もしも反対の事を言われてしまったら。否定の言葉を口にされてしまったら。今日こうして凛月を呼び出すことも迷ったけれど。私は、凛月とお腹の子と幸せになりたい。そして彼も私と同じだった。嬉しさに涙が止まらない。

「ちょ、なんで泣くの…?もしかして、俺と違う気持ちだった?本当に別れ話だったの?」

「違っ…!わ、わたし、凄く不安だったの…。凛月に、め、迷惑だと思われるんじゃないかって…ぐすっ」

「迷惑だなんて思うわけないじゃん…、俺はなまえと結婚するつもりだったんだし。まぁ、先に子供が出来たから順番は逆になっちゃったけどねぇ」

「え、そ、そうなの?結婚なんて、そんなこと一言も…」

「そんな簡単に言えるわけないでしょ。それに、なまえってプロポーズに夢もってそうだし?シチュエーションとかタイミングとか、俺の苦手分野ばっかりだから、色々と考えるのも大変なんだよね」

「考えてくれてたんだ……」

凛月が私との未来をきちんと考えていてくれたなんて。まさかの驚きに目を丸くすると、「何、その顔〜」と拗ねた後に、ふふっと優しい笑顔をくれた。

「何て言うのかな…自分の子供ができたとか、不思議な感じ。こういう気持ち初めてだから、何て言葉にすれば良いのか分からないけど…たぶん、"ありがとう"って気持ちだと思う」

「ありがとう…?」

「うん、ありがとう。色んな気持ちが含まれた"ありがとう"かな。あと、これからも宜しくって意味」

「…私の方こそ、ありがとう。凛月、本当にありがとう……」

受け入れてくれてありがとう。一緒の未来を考えてくれてありがとう。家族になってくれてありがとう。ありがとうが多すぎて、どれを伝えれば良いのか分からない。溢れる涙を掌で拭うと、凛月が手を伸ばしてそっと涙をすくってくれた。

「それで、プロポーズの返事は?俺と一緒になってくれるの?」

「ひっく……そんなの、決まってるでしょ……!凛月と…結婚したいです…ぐすっ」

「ふふ、嬉しい」

凛月がワイングラスを持って、こちらへ軽く傾ける。私はウーロン茶を手にして、ワイングラスに当てるとチンと音が鳴った。今はガラスの当たる音さえ、幸せの鐘のような音色に聞こえる。

「さっき、何でウーロン茶…なんて言ってごめんね」

「いいよ、私がはっきりしなかったからだもん。云わないと分からないよね」

「俺もなまえと一緒に気を付けたりするから、これから色々と教えてね。とりあえずは、早く婚姻届出さないとね。あ、knightsの皆にも言っとかないとね〜。せっちゃんとか、そういうのうるさいからさ」

「あはは、やること沢山だね」

最初の不安が嘘のように、凛月と笑い合ってこれから共に歩く準備をしている現実に、幸せという言葉以外に何があるのだろう。そんな幸せを噛み締めていると、「やることは多いけど、でも幸せ」と言ってくれた。お腹の中がほわっと温かくなった気がしたのは、この子も一緒に喜んでくれているからなのかもしれない。凛月に"ありがとう"と"愛してる"の気持ちを込めて、もう一度グラスを凛月のそれに合わせ、小さな鐘を鳴らした。
 


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