『卒業』。その二文字は永遠の別れを意味している訳ではないのに、まるでそれを感じさせるかのような強い何かを持っている。学生生活を過ごしていれば誰しも必ずやってくるその時。旅立ちとは、旅立つ者よりも残された者の方が実はずっと辛いのではないだろうか。

「ちょっと、久しぶりに放課後一緒に出掛けてるっていうのに、何辛気臭い顔してるわけ?」

「す、すみません………」

謝罪の言葉を口にはしたものの、自分の表情から曇りが消えていないことは分かっている。向かいに座ってブラックコーヒーを飲んでいる瀬名先輩は、カップをお皿に置くと腕を組んでこちらを睨んだ。綺麗な顔の人に睨まれると、何故こうも恐ろしいのだ。まさに蛇に睨まれた蛙である。

「せっかく今日はknightsの練習もモデルの仕事も無いから、なまえがずっと来たいって言ってたカフェに連れてきてあげたっていうのにさぁ。何か不満でもあるならはっきり言ったら?」

「ふ、不満なんてありませんよ!」

「じゃあ何?さっきから全然楽しそうじゃないでしょ。そんな顔されてるとコーヒーも不味くなるんだけど」

「………すみません」

だから謝ってんじゃないよ、と瀬名先輩のイライラがさらに増してしまったので、慌てて「違います!」と顔を上げて首を振った。瀬名先輩は眉間にシワを寄せて不機嫌オーラを全面に出している。これは非常にマズイ。

「……瀬名先輩、」

「なに?」

「あの………、………」

「だから何?はっきりしなよねぇ」

「………留年しないんですか?」

「はぁ!?」

瀬名先輩にしては珍しく大きな声で、さも驚いたというように目を見開いた。私の言い方にも問題はあるかもしれないが、瀬名先輩の表情は先程のイライラした様子から、少し困惑した表情に変わった。

「留年?俺が?あんた何言ってんの?」

「し、しないんですか…?」

「するわけないでしょ!あんたバカなの!?俺の成績をくまくんと一緒にしないでよねぇ!」

「そ、そういう意味じゃありません!瀬名先輩が成績良いのは重々承知してますから!」

多少の困惑が残っているようだが、先程よりもさらに瀬名先輩の怒りがヒートアップしてしまったようだ。あぁ、またしても言い方を間違えてしまった。瀬名先輩の言う通り、せっかく久しぶりに放課後デートをしているのだから、先輩にこれ以上不快な思いはさせたくはない。だが、胸の奥にどっしり居座っているマイナスの塊はなかなか出ていってくれそうにない。またしても黙り混んだ私を見て、瀬名先輩は呆れたようにため息を吐いた。


「……今日はもう帰るよ。何思ってるか知らないけど、言いたいことあるならきちんと頭の中で纏めてから言いにきなよねぇ」

「あっ……!」

財布から私の分も含まれたお金を机に置き、先輩は立ち上がり上着を羽織りだした。このままではデートが終わってしまう上に、先輩に嫌な思いをさせたままになってしまう。先輩はこちらに背を向け、出口へ歩きだした。

「せ、先輩、待ってください!」

必死に絞り出した声は、恥ずかしいことに裏返ってしまった。勢いで立ち上がったため、飲みかけの紅茶が少し溢れてしまった。顔に熱が集まるのを感じながら瀬名先輩の背中を見つめると、先輩はまたため息を吐いた後こちらに向きなおった。

「なに?」

「あの、えっと……」

「だから、言いたいこと纏めてきなって」

「……………っ、」

言葉に詰まる私に痺れを切らしたのか、瀬名先輩がまたドアへと足を進めた。ダメ、先輩、行かないで!声にならないその言葉は、無意識に自分の体を動かした。瀬名先輩の背中に頭を押し付け、お腹に回した腕にぎゅっと力を込める。


「………ちょっと、痛いんだけど」

「…うっ……、ひっく……瀬名先輩……」

「はぁ…もう、こんなとこで泣かないでよねぇ。なまえってば本当すぐ泣く」

「……ごめん、なさい」

謝るなら泣き止みな、と言ってポケットからハンカチを出し、お腹に回した私の手に優しく握らせてくれた。顔は見えないけど、先輩の声色に優しさを感じる。ここの席は瀬名先輩のお気に入りで、カーテンで仕切られていて他の客からは少し離れた場所にある。おかげで、瀬名先輩に抱きつく様子も、涙でぐちゃぐちゃな顔も人に見られなくて済んだ。

「……先輩、好きです」

「今更なに?そんなの前から知ってるけど。なまえは俺の彼女じゃなかったの?」

「彼女、です……。私……ぐすっ、瀬名先輩がいなくなったら死んじゃいます……」

「何言ってんの、いなくなるわけないでしょ。この俺の彼女なんだから、もっと自信持ちなよねぇ」

「でも、先輩が卒業しちゃったら、そのまま離れちゃうんじゃないかって不安なんです…!」

そう、秋になってから感じ始めた不安。それは卒業という日に向かって、少しずつ大きくなっていく。あと半年もしないうちに、先輩は学校からいなくなってしまうのだ。毎日顔を合わせることも、お昼を食べることも無くなる。先輩は先輩の新しい世界が出来ていく。モデル兼アイドルという職業柄、そこは綺麗な女性しかいない世界なのだ。そんな所にいて、私みたいな平凡な高校生との恋人関係が続くはずがない。

「卒業したら、先輩に別れようって言われるの…覚悟はしてるんですけど……、でも考えただけで辛すぎて…」

「………………」

「瀬名先輩の熱愛とか結婚報道とか見たら、立ち直れないかもしれません……ひっく、」

「……はぁ、もうなまえって本当にバカだよねぇ」

回していた腕を優しく解かれ、瀬名先輩がこちらに体を向けた。綺麗な顔の先輩に、こんな泣き顔でぐちゃぐちゃな顔を見せたくなくて、先輩に見えないように俯いた。先輩の手が優しく髪の毛を撫でる。その手がするりと流れ頬に触れると、おでこにピシッと傷みが走った。

「いったぁ!!いった、ちょ、先輩……!!」

「バーカ」

「ちょ、もう、何でデコピンするんですか!すっごく痛いですよぉ……これ絶対赤くなってます!」

「…ふふっ、ほら泣き止んだ」

「へ?……あっ、」

「それ。なまえのそういうところ。俺が好きなのは」

痺れが残るおでこを押さえながら、瀬名先輩を見つめる。先輩はいつもの不敵な笑顔で、「また間抜けな顔してる」と言って笑った。

「さっきから変だったのは、そんなバカみたいなこと考えてたからだったわけ?心配して損した」

「ば、バカみたいなことじゃありません!私は本当に……」

「俺が簡単に他の女に靡くと思ってるの?ほんっとバカ。俺がどれだけあんたのこと大事に思ってるか分かってないなんてねぇ。呆れた」

「え、大事にって……」

「一回しか言わないからよく聞きなよ」

瀬名先輩の手が伸びてきて、おでこに当てていた手が下ろされ強く握られた。先輩の顔が近づき、目線が私のそれと同じ高さになる。

「俺はなまえが好き。誰よりも。それは今もこの先も同じだし、変わらない自信もある。あんたが俺が卒業するのが不安だと感じてるのと同じで、俺もあんたを残して卒業するのは不安なわけ。なまえって騙されやすいし隙があるからさぁ…。俺がいなくなったらちょっかいかけてくるでしょ、くまくんとかtrickstarの奴らとか。あ、ゆうくんは別ね。今は俺が守ってあげられてるけど、卒業したらそれもできないし。大学なんて行ったらまた出逢いだって増えるでしょ。変なサークル入らないでよねぇ。……仕事でなかなか連絡できないうちに、他に好きな人が出来ましたなんて言われたら、さすがの俺も堪えるからさぁ」

「瀬名…先輩………」

「まぁ、俺は別れようって言われても別れるつもりはないし。俺より良い男がいるとは思えないしね」

「うっ…ぐすっ……相変わらずすごい自信…」

「当たり前でしょ。あんたもそのくらい自信持ちなよねぇ。あと、」

一瞬言葉に詰まった先輩を見詰める。ほんの少し緊張したように見えるのは気のせいだろうか。だって瀬名先輩はいつも自信に満ち溢れていて、こんな顔見たことなかったから。こんな、うっすら頬を染めた緊張した顔を。

「本当はなまえが卒業したら言うつもりだったんだけどねぇ。なまえが夢ノ咲を卒業したら、俺と一緒に住んで。大学に進学するなら、そこから通えば良い。時間が会えば送り迎えだってしてあげられるし、食事もお風呂も一緒に出来る。何よりあんたに悪い虫が付かないようにしなきゃだからねぇ」

「く、暮らす!?一緒に…瀬名先輩と…?」

「まぁ、俺はちゃんとその先も考えた上で、同棲しないかって言ってるんだけど」

「?その先……?」

「はぁ、あんたって本当に……」

どんだけ鈍いの、と呟いた唇が私のそれに優しく重なる。瀬名先輩はいつも意地悪ばかり言うけれど、触れてくれる時は壊れ物を扱うかのようにとても優しくて心地好い。


「結婚しようってこと」

先輩の、こういうところは狡いと思う。どうしてこんな優しくて愛らしい表情が出来るのだろう。不敵な笑顔しか知らない人からは想像も出来ないだろう。この笑顔を、私だけが独占できているなんて贅沢な話だ。そして先輩は、それをこれからも私だけの物にしてくれると言っているのだ。止まっていた涙が、大粒となってまた目から溢れだした。

「返事は?」

「…わ、私で良いんですか……!?だ、だって、私なんて取り柄もないしスタイルも良くないし、おっちょこちょいだしよく忘れ物するし、寝てばっかだしアホっぽいって言われるし、それに…それに……でも……瀬名先輩を好きな気持ちは誰にも負けません………」

「だから言ったでしょ。あんたのそういうところ、好きだって」

「せ、瀬名先輩…好きです、先輩の…お嫁さんにしてください…ひっく、ぐすっ」

「はい、よく出来ました」

先輩の綺麗な手が、頭をポンポンと叩く。いつも自信に満ち溢れている先輩は、卒業して私と離れることなんて何も感じていないと思っていた。先輩はこれから無限の可能性を持って芸能界へと進んで行く。新しい人間関係も沢山築いていく。だから、先輩と離れることが寂しいと伝えることは、先輩にとって只の負担にしかならない。でも、それは瀬名先輩も感じていたことだったのだと、今初めて知った。先輩が私と同じ気持ちでいてくれたことが嬉しい。

「先輩っ……、ありがとうございます。末永く…ぐすっ、宜しくお願いします…!」

「当たり前でしょ。俺のことより、なまえもちゃんと卒業してよね。受験勉強は時間あるとき教えてあげるからさぁ」

「…先輩、留年して私と一緒に卒業しませんか……?」

「するわけないでしょ!!」

「うぅっ……、一緒だったら良いなってちょっと思っただけですもん……」

「くだらないこと言ってないで、そのぐちゃぐちゃな顔どうにかしなよねぇ」

「あ、はい、すみません……。ちーーーん!!」

「ちょっと!誰がそのハンカチで鼻咬めって言ったの!普通涙を拭くでしょ!バカなんじゃないの!?鼻咬むならティッシュ使いなよねぇ!!」

「え?あ、す、すみません…ずびっ」

いつもの悪態をつく瀬名先輩に戻ったけれど、その表情はどこか嬉しそうに見えた。卒業は別れであると同時に、新たな未来へと向かって歩き出していくスタートラインなのだ。でもそれは必ずしも一人でではなくて、誰かと一緒に手を取りあって進んでいくこともできる。そしてその先には明るい未来がきっと待っている。そんな大切なことを教えてもらった気がした。

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