今日は朝から良い事が無かった。
まず一つ目はコンビニで食後のデザートにとヨーグルトを買ったらスプーンが付いていなかった事。
些細な事だが、これから仕事に向かう身としてはこんな事でも1日のやる気が削がれてしまう。
二つ目はいつもはガラガラの電車が今日は満員で座れなかった事。
校外学習でもあったのか、制服を着た若者で溢れ返っていて30分立ち続けた。
三つ目は上司から頼まれたコピーを指定された面ではなく反対の面でしてしまった事。
幸い上司にはバレなかったが100枚ものコピー用紙を無駄にした。
そして極めつけの四つ目。
仕事を終えて職場を出たら、最近少し良いなって思ってた同僚が女性を連れてどこかへ行くところを目撃してしまった事。
今日は金曜日だ。これからお泊りデートでもするんだろう。
まぁ、私が勝手に想っていただけだから、誰にも迷惑はかかっていないのだけれども。それでも。
「…厄日だ…」
思わず呟きたくもなる。
悪い事は何故こうも重なるのか。
そうして帰り道に寄ったのはとある埠頭。
ここは夜は人通りが殆ど無く、それでいて綺麗な夜景が一望出来る隠れた名所だった。
私は仕事や私生活で嫌な事があるといつもここに来て何時間も居座った。
そうしていると不思議と心がスッキリして明日からまた頑張ろうと思えるのだ。
今日も今日とて何をするでもなくボーッと夜景を眺めて段々と今日起きた事がどうでも良くなり、そろそろ帰ってゆっくりお風呂にでも入ろうかと立ち上がった時。
「(…珍しい。こんな所に人がいるなんて)」
人影が遠くからこちらに向かって歩いているのが見えた。
たまに犬の散歩をしている人やカップルとすれ違う事があるのでそんなに気にも留めず、私もその人影に向かって歩き出した。
「(男の人…白髪…おじいさんかな?でも、)」
月明かりに照らされた男性の髪は、老人のそれとは違って透き通った、銀色にも見える綺麗な髪だった。
もしかしたら若いのかな。
その疑問は徐々に近付くにつれ確信へと変わった。
それと同時に、私は驚愕した。
「あのっ、大丈夫ですか!?」
思わず駆け寄って話し掛けてしまったがそんなのどうでも良い。
間近で見た男性はやっぱり若かった。というより、服装からして学生だろう。顔を見てもその幼さが窺える。
勿論びっくりしたのはそれもあるが、更に私を驚かせたのは少年の頭から血が流れていた事だった。
「君、学生でしょ?喧嘩でもしたの…?」
「……」
少年は私の質問には答えず、無表情のまま私を見た。
「ね、ねぇ、…!?」
私は少年のスラックスに押し込まれていた物に気が付いてしまった。
―黒々しく光る、拳銃。
あぁ、やっぱり今日は厄日だ。
これは相当厄介な事に首を突っ込んでしまったかも知れない。
声なんか掛けずに早く逃げれば良かった…。
そんな事を考えながら、拳銃から目が離せず言葉を失っていると、
「あぁ、これ?ただのオモチャだよ」
「そ、そうなの?」
初めて聞いた少年の声は、思っていたよりずっと大人びていた。
いや、そんな事よりもまずは少年の怪我をどうにかしなくては。
「あ、あの、えと、」
「…おねーさん、慌てすぎ」
「君が落ち着きすぎなのっ!じゃなくて、こっち来て!」
乗り気じゃない少年を近くの水道に連れて行き、血を洗い流した。
良かった。傷はそんなに深くないみたいだし血も止まって来てる。
持っていたハンカチで少年の頭を拭いていると、肝心な物が無い事に気が付いた。
「…包帯…」
「…?」
どうしよう。
家まではさほど遠くはないから取りに行く事も出来るが、往復していたら時間がかかってしまう。それなら…。
私は恐る恐る少年に提案した。
「ねぇ、少し歩いたら私の家なんだけど、良かったら…」
「クク…良いの?そんな簡単に見知らぬ男を家に連れ込んで」
「ちがっ…!手当てするだけよ!」
「おねーさん顔が赤いよ」
「もう、うるさいなぁ、何もしないったら」
「オレが何かするかもよ?」
「…へ?」
いきなり何を言い出すんだこの少年は。
完全に思考回路がショートしたと共に私はきっと相当な間抜け面をしていたんだろう、少年はプッと吹き出して笑った。
「冗談。これで十分」
「…っ!マセガキ…!」
「ハハ、そりゃどうも」
出会ってものの十数分しか経っていないのに完璧に少年のペースに持って行かれてる気がするんだけど気のせいかな。
「…それで、もう結構な時間だけど、家はどこなの?送ってこうか?」
「何、いきなり保護者みたいな事言って」
「そりゃあ大人だもん、子供を安全に帰宅させる義務がありますっ!」
「大人…ね。いつものおねーさんを見ててもあまりそうは思えないけど」
「………え?」
「おねーさん、よくここに来て海を見ながらあーだこーだ唸ってるよね」
「な、何で知って…!」
何て事だ。
私だけの秘密の時間をまさか誰かに見られていたなんて…!
とにかく恥ずかしいやら何やらで口をパクパクさせていると、
「…まぁ、今日こうして話せたから、殴られた甲斐もあったってもんだ」
「え?何?」
「いや、何も」
「…?」
「じゃあ、家に送るのはいいから、少し話し相手になってよ」
「まぁ、良いけど…」
それから少しの間、少年と会話をした。
会話と言っても殆ど私しか喋っていなかったような気がするけど、なんだか一人で海を見ている時以上にリラックスしていたと思う。
そして別れは突然訪れた。
「―そろそろかな」
「何が?」
「時間。おねーさん、ありがとう。もう行かないと」
「…どこへ?」
少年の言葉からして、家に帰るわけではなさそうだ。
家よりももっと、距離的な意味ではなく、ずっと遠くの世界に行ってしまうような気がした。
少年は私の質問には答えず、「これ、いつか返すから」と血の付いたハンカチをポケットに入れて歩き出した。
「ね、ねぇ!」
少年は立ち止まる。
「待ってるよ…ここで。ハンカチ返してくれるの」
私の言葉にフッ…と優しく微笑み少年は夜の闇に消えて行った。
そしてまた訪れる一人の時間。
「…私も、帰ろう」
私はゆっくり立ち上がって歩き出した。
不思議な少年だったな。
そういえば名前も聞いていない。
また、会えるかな。
当たり前だったここで過ごす一人だけの特別な時間にふと寂しさを覚えたのは、失恋による人恋しさか、はたまた突然現れた少年のせいか。
そして私がその後少年と会えたのか会う事は無かったのか。
それはまた別のお話。
曇りのち雨のち晴れ
(予定よりだいぶ遅くなったけど…まだ南郷さん生きてるかな)
(私、まさかそういう趣味が…!?)