太陽が西へと傾き始めた頃、ようやく私は目が覚めた。
何だか体が重い。寝過ぎたせいなのか、それとも――
のそのそと布団からはい出ると、しんと静まり返った居間には誰もおらずやっぱり昨日言われた言葉は本当だったのかと胸がズキリと痛んだ。
「―名前。お前、天ん所行け」
「え…?」
「明日にでも引っ越し業者が来るから今日の内に少しは荷物まとめとけよ」
「…どういう事、ですか…」
「どういう事も何も、そういうこった。俺ももう、この家には戻らない…」
昨日した会話はそれだけ。
本当に突然の事だった。
赤木さんは身寄りがいなくなった私を拾ってくれた、育ての親みたいなものだ。(と言っても5年程だが)
そんな赤木さんからの突然の宣告。正直、一晩経っても意味が分からないし、信じたくない。
どうしていきなりそんな事言うの?私の事が要らなくなったの?それとも他に理由があるの―?
頭の中で同じ疑問が渦巻くが答えは出ないままで。
しばらく居間でボーッとしていると玄関の呼び鈴が鳴り、出ると赤木さんの言った通り引っ越し業者の人が荷物を運び出しに来た。
「あ…荷物、まとめてない…」
「構いませんよ、こちらでやりますので」
赤木さんのツテだからだろうか、丁寧な対応でテキパキと業者さんが荷物を段ボールに詰めるのを黙って見ていたが、心にかかった靄は取れず。
「―あのっ!やっぱり明日にしてもらう事は出来ませんか!?」
やっぱり納得出来なかった。
このまま理由も聞けずに二度と会えなくなるなんて、絶対嫌…!
私は無理を言って明日に延期して貰い、家を飛び出した。
アテなんて無い。でも、どうしても赤木さんに会いたい。会わなければいけない。ただその一心で。
一つだけ思い当たる場所があった。
そこは夕陽が綺麗に見える土手で、よく赤木さんと散歩の帰りに寄った私の大好きな場所だ。
どこかの雀荘や商店街よりもこの土手にいるんじゃないかという妙な確信があり自然と足はそこへ進んで行った。
「―っ、赤木さん…!」
生い茂る緑の中に揺れる白を見付け、私は泣きそうになりながら赤木さんに近寄る。
「なんだ、来ちまったのか。…おいおい、随分と酷い顔だな」
「誰のせいだと思ってるんですかぁ…」
「フフ…まぁ座りな。言いたい事があるんだろ…?」
言いたい事。
確かに山ほどある。でも、それよりも。
「赤木さんこそ…私に言わなきゃいけない事があるんじゃないですか…?」
「…?」
「私っ…なんでいきなり…出て行けとかっ…!理由も分からないのにそんな事言われても、私…!」
言葉にするにつれて我慢していた涙がぽろぽろと零れ出す。
仕舞いには嗚咽に変わってしまい何も言えなくなってしまった。
「…要らなくなっただとか、嫌いになっただとか、そんな事でも考えてたか」
「……」
無言で頷く私。
「昔っからそういうとこは変わんねぇよなぁ、お前は…安心しな、そんな理由なんかじゃないさ」
「じゃあ、どうして…」
「……」
赤木さんが口をつぐんだ。
何かを考え込んでいる様にも見える。まるで、私を傷付けまいと言葉を選んでいるかの様な…。
「…お前には言いたくなかったんだがな…」
「私、聞きたいです…例えどんな理由であっても」
「……行くんだよ」
「どこに、ですか」
「天国(うえ)に」
そう言いながら赤木さんは空を見上げた。
意味が分からず私も空を見る。少しだけ赤みを帯びて来た空は、やけに遠く感じた。
「前に話した事があっただろ、俺の病気の事」
「はい…アルツハイマー…でしたよね」
「あぁ。…それの進行が思ったよりも早いらしくてな。だからもう、終わりにするんだ」
「終わりに…?いつ…?」
「明日」
「明日…!?」
頭を金鎚で殴られた様な衝撃が走った。
ハッキリと言われた訳じゃないけど、何と無く言っている意味は分かってしまった。
赤木さんは、明日、自ら―…
「そ、んな…赤木さん…」
「ククッ…何世界が終わるみたいな顔してんだ。こんなジジイから解放されて良かった位に思わねぇと」
「何呑気な事言ってるんですか!駄目ですよ…!天さんやひろさん達だってどんな顔をするか…!」
「あいつらには明日会う事になっているが…まぁ止められるだろうな。それでももう、決めた事だ。これだけは揺るがねぇ」
「嫌っ…嫌です…!私っ……私は赤木さんが――」
「名前」
言いかけた所で、私は突然肩を抱き寄せられて赤木さんに寄り掛かる形になった。
赤木さんの心臓の音が間近に聴こえる。
「それ以上は、言うな」
「赤木、さん」
「俺はお前を忘れてまで生きたくねぇんだ。…だから、言うな」
「っ…、」
一度自分で決めた事は決して曲げない赤木さんをどうして止められよう。
そしてそんな赤木さんを、私は好きになったのだから。
言葉にする事の出来なかった思いは、涙と共に茜色の空に消えて行った―…。
「…自分勝手過ぎますよ、赤木さんは。女の子が一世一代の告白をしようとしてたのに最後まで言わせないなんて…だから私、絶対に忘れてやりません。赤木さんが私の事を忘れずに逝ったのなら、私も一生赤木さんを想い続けます。…いつか私がそっちに行ったら、今度こそ、お返事聞かせて下さいね。あ、後―…」
「名前ー、そろそろ行くぞー」
「はーい!じゃあ赤木さん、また来ますね」
私はひとしきり言いたかった事を言い終え、少し離れた所で私を呼ぶ天さんの方へと歩き出した。
灰色の、いびつな形をした小さな石を持って…。
茜色に消える
「赤木と何の話してたんだ?」
「えぇっと、ちょっとした宣戦布告と、後…」
「?」
「もし天さんの3人目のお嫁さんになったらごめんなさいって」
「!マジで言ってんのか、それ!?」
「いや、冗談ですけど」
「あ、そう…」
「何本気でがっかりしてるんですか」