両親が不仲になった。そのせいというわけではないだろうが、ひどいことに、それからはろくなできことが起きなかった。不運なことが立て続けにずるずる巻き起こり、結果として、わたしはそれなりに居場所をなくしていた。

長い長い一日が終わると、わたしは近所の川沿いの土手で時間をつぶすようになった。
桜並木のある人通りの多い場所から少し離れ、斜面を下ったところが広々とした草地になっていて、そこに桜の木が一本、ぽつんと生えている。部活を辞めてしまってから放課後は暇で、けれども家には帰りたくなくて、わたしはいつもここに来た。本やお菓子を持ち込み、音楽を聞いて過ごすこともあれば、なにもしないでぼーっとしているだけのことも多かった。

そのころのわたしは、もうどこか遠くに行ってしまいたかった。でも、それは桂くんが許さなかった。


「またここにいたのか」


かばんを枕代わりに寝そべって目を閉じていると、ふっと視界が翳り、少し呆れたような声が降ってくる。うっすら目をあけると、長い黒髪を垂らした桂くんが、こちらを覗きこんでいた。

月曜と金曜、バスケ部が休みらしい日にだけ、彼は来た。わりと仲のよいクラスメートだったけど、別に付き合っているとか、そういうわけじゃない。でも彼は真面目で、正義感の強いひとだから、明らかに以前とは違くなったわたしを気にかけているようだった。(あるいは、同情か)

ともかくも彼は、週二日かかさずやってきて、わたしに構った。





「おぉ、桜がもう咲き出しているな」
「……ん、まじで」

ふと、桂くんが嬉しそうに声を上げる。わたしはひざの上に広げていた雑誌から顔を上げ、隣の桂くんが指差すほうをみようとした。その瞬間、ぱた、と、薄くて小さな何かがわたしの頬に張り付いた。

「わ」

なんだろう。わたしが取ろうとする前に桂くんの腕が伸びてきて、ひょい、とつまみあげて取ってくれた。見ると、あぁ、桜の花びらだ。しろに近い、ほんのりとした薄ピンク。

桂くんはおだやかに笑っている。「もう今学期も終わるな」、というので、黙ってうなずいた。昼下がりの白い光が、あたたかに降り注いでいる。

わたしはぐ、と手のひらを握りこんで、ひとつ深呼吸をしてから、ゆっくり口を開いた。

「……あのね」
「ん?」
「わたし、転校する。来学期からはもういないや」

お父さん転勤だって、と続けてから、俯いた。

反応がないのでおそるおそる顔を上げてみる。桂くんはいかにも「ショックを受けてます」といった顔をしていたので、わたしはそれなりに満足した。





二週間後の月曜日。
わたしは一人で桜を見上げていた。
ふっくら膨らんでいたつぼみはもうほとんど開いていて、殺風景だった枝を薄桃にいろどっている。風が吹くたびに、花びらがひらひら舞い散った。きれいだ。

遠くに行きたいと思っているときは行けないのに、やっぱり行かなくていいや、という気持ちになると行くことになるだなんて。やっぱりわたしには、すこぶる運がないらしい。
けれども「行かなくていいや」という気持ちになれたのは、まず間違いなく桂くんの週二日通いの功績だった。

まぁ、その二日通いも、転校を告げてからぱったり止んでしまったのだけど。
なんともいえない気持ちで草の上に寝そべって、目を閉じる。


しばらくするとサクサクと草を踏む音がして、視界が翳った。


「久しぶりだな」


目を開けるのは億劫だった。彼が隣に座り込んだのは気配で分かった。わたしは「だね」とだけ返して、寝返りを打って彼から顔を背ける。泣きそうだなんて、絶対にばれたくなかった。

「引っ越すのは、いつなんだ?」

その質問はあまりにも単刀直入だったので、わたしは思わず笑ってしまう。

「んー、終業式の次の日かな。春休みの初日に」
「そうか。あさってか。――さびしくなるな」
「……だね」

目を、開ける。青々とした草の上を、モンシロチョウがひらひらしてた。なんだか逆に気が抜けるほど平和な光景だ。極め付けに、桜の花びらが視界を横切って、目の前にふわりと着地した。


そうか。こうして、桂くんといることも、もうなくなるのか。


さびしいとは思う。でも、いつまでも感傷に浸っていられるわけじゃない。転校したらまたその場所で新しい日々が始まって、振り落とされないように、外れてしまわないように、せいいっぱい生きていくだけだ。こうやって目頭が熱くなるのも、胸のおくがぎゅうっとするのも、すぐに流されていく。

桂くんがいてくれてよかったと思う。でも、それも、桜が散り終えるころにはもう消えうせてしまうような気持ちなんだろう。ああ、なんだか、ひどくやるせない。

「手紙、ちょうだい」
「ああ。書くよ。たくさん」

メールじゃなくて手紙にしたのは、桂くんが携帯を持っていないことを思い出したから。けれど結局、わたしは彼に住所を教えなかった。彼も自分から聞いてこようとはしなかった。





家具やらなんやらはトラックで送り、最低限の身の回りの荷物だけ持って、わたしは車に乗り込んだ。助手席に母が乗り込むと、父は静かに車を発進させる。

まだ午前中だからか、道の車どおりは少ない。隣町に続く坂道をのぼり始めると、道の両側に桜の木が並んで咲いている。薄桃の花びらが夢のように降り注いでくるなかを、車は静かに滑りぬけた。
車内に、会話はない。父の転勤を、母は余り喜ばなかった。なんともいえない不穏な空気が、じわじわと重く垂れ込めている。

わたしは上着のポケットから音楽プレーヤーを取り出した。お気に入りの音楽を聞きながら、自分の世界に入ってしまうのが最良の選択に思われたのだ。

うしろから「待ってください」という声が聞こえてきたのは、そのときである。





声の主は桂くんだった。父が驚きながらも車を止めると、荒く息を切らした桂くんが、窓ガラスに顔を覗かせた。窓をおろしてどうしたの、と訊くと、桂くんはいつかのようなおだやかな笑みを見せた。

「住所、聞いてなかったと思って」

呆れた。なんというか、とことん、ベタというか。古臭い男である。
引っ越す女の子の車を、走って追ってくるだなんて。
わたしが何か書くものを探そうとすると、桂くんは首を振って、紙切れを手渡して来た。それには整った字で、住所と名前が記されている。わたしから送って来いということらしい。

「ありがとね」
「あぁ。元気で」

桂くんは呆然とこちらをみつめる父母に頭をさげると、坂道を下っていった。





走り出した車の中で、漫画みたいなサプライズをしてくれる男の子がいるのね、なんて言って、母が微笑んだ。父も楽しそうに笑っていた。充満していた重苦しい空気が急に和やかになる。


もらった紙切れに目線を落とし、ひっくり返してみると、一言だけメッセージが添えられていた。
「が」「ん」「ば」「れ」「よ」。わたしは一文字一文字確かめるように、鉛筆で書かれたその文字をそっと指でなぞった。


遠くの町に行くのかい?

2011.2.21
BGM:桜の季節/フジファブリック
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -