凍えた肌のぬくもりを知る 3



窶れているのをメイク担当に指摘されているのを見掛けた。隈があと少し濃くなれば、厚塗りしてもすぐによれて隠しきれなくなる、そんな話をしていたと思う。いくら修正がきくとはいえ、それはモデルとして失格だろう。プロなのだから、自己管理はきちんとしてほしい。そう言われていた。盗み聞きながら、ああやはりこのままでは駄目なのだと思った。テヒョンが解決しようとしていなくても、そのうち歪みは大きくなって、テヒョンを壊してしまうだろう。


今日も仕事が終わったら、家にテヒョンが来ることになっている。というよりは、あれから行くところがないというテヒョンに、「ここにいていい」と俺から言い出したのだった。テヒョンは驚いたように目を見開いて、「そこまでお世話になるわけにはいかないです」と言ったが、行く宛てはあるのか問いただせば黙り込んだ。そこまで何となく分かっていた。それに俺自身が、目の届く範囲にいてほしいと願ってしまった。ふらりとどこかへ姿を消しそうでもあったし、テヒョンのスマホの画面を埋め尽くす通知の相手がいつ現れるか気が気ではなかった。
守ってやりたいとか、助けてやりたいとか高尚なことを考えているつもりはないのに、結局言い表すならそういうことになる。安っぽく口にして何もしてやれなかったら胸糞悪いからという理由をつけて、俺は何も言わなかった。口下手なのも大概にしたいところだ。しかしテヒョンが嬉しそうにして「ユンギヒョン優しいですね」というものだから、俺は胸の中に燻った気持ちに蓋をして、ただの優しい男として寝床を貸して、テヒョンの周りにそれとなく目を光らせて、テヒョンの仕事が終わったら待ち合わせて同じ家に帰るのだ。

いつも俺の方が仕事が終わるのが遅いから、いつもテヒョンを近くのカフェで待たせていた。先に帰ってもいいと言ったが、テヒョンは遠慮がちに「ヒョンの家におれだけ帰るのは、何か違うでしょう」と言った。確かに、こういう仲になってから一ヶ月も経っていない。テヒョンならいいと何でも許していたことに今更ながら気づいて、やっぱり頭を抱えてしまいそうになった。

今日は撮影や打ち合わせのスケジュールがずれ込んで、帰るのが遅くなりそうだった。だから事前にテヒョンに『仕事終わるの遅くなる』とメッセージを送っておいたのに、いざ仕事が終わってからスマホを見てみたら返信がなかった。いつもなら返事があるのにな、と思いながら、テヒョンが待っているはずのカフェへ向かう。10時閉店だから、まだ時間は問題ないはずだ。

テヒョンは目立つから店の中を見回せばすぐに分かってしまう。だから、そのテヒョンの真向かいに一人の男が座っていることにもすぐに気づいてしまった。見慣れない男。テヒョンより幾分か歳が上に見える。肩幅が広いのか顔が小さいのかは分からないが、兎に角テヒョンのモデル仲間だと言われればそうなのかと納得するくらい整った容姿をしていた。白いタートルネックに椅子に掛けられた高そうなロングコート。その辺を歩いていればスカウトくらいされそうだ。もしかしたら本当にテヒョンの友達なのかもしれない。だがそれならテヒョンから連絡が無かったのは不自然だ。それに、パーカのフードを被って背を丸め俯いているテヒョンはどう見ても友達と話しているような雰囲気ではない。俺は敢えて男の存在を気にしないようにして席へ近づいて、テヒョンに声を掛けた。

「テヒョンア。待たせたな」
「……あ、ヒョン。お疲れさま」

テヒョンが顔を上げる。顔色が酷い。血の気の引いた唇はかさついていて、目の前に置かれた紅茶は手がつけられていない。早く連れて帰りたかったが、男の目を見た時にやっぱりこの男がテヒョンの同居人だろうと直感で分かった。一見育ちが良さそうに見えるのに、底の見えない目をしている、気がした。
男は俺をじっと観察してから「テヒョンがお世話になってます」とにこやかに挨拶をした。

「…ヒョン、この人おれの撮影してくれてる人なんだ」
「へえ、そうなんだ」

テヒョンのほとんど意味を成さない説明に男がにこりと笑う。テヒョンが怯える意味が分からないくらい、男の人当たりは良かった。

「僕はテヒョンの同居人のキムソクジンです。よろしくね」

大きな目と特徴的な厚めの唇。礼儀正しく、しかし畏まりすぎず、どこか気品すらある男。俺は名乗らずに、「よろしく」と手短に挨拶を済ませた。同居人とわざわざ強調するくらいだから、やはりテヒョンを連れ帰りに来たのだろう。キムソクジンと名乗った男は笑っているくせにどこか隙がない。

「テヒョンア。もう帰ろうか。それともこの人と何か打ち合わせでもあるの?」
「あ、…いや…その」

口篭るテヒョンにソクジンはすぐに話題を替えて、今度は俺に話し掛けた。

「そうそう。僕とテヒョンは一緒に住んでるんだけどね、最近ちょっと喧嘩しちゃって、この子家出中だったんだよ。どこに居たか知ってる?」
「…知ってたら、どうするんですか」
「お礼を言わないとね。いきなり他所様の家に上がり込んだら迷惑でしょう」

彼の言うことは決して間違ってはいないが、隠し切れない剣呑な雰囲気に俺は口を閉ざした。言える訳がなかった。しかしソクジンはひたりと俺を見て、唇を吊り上げた。

「…ア。もしかして、君のところかな?」

思わずぞくりと背筋が冷たくなった。──なんだ、最初からテヒョンを泊めていたのは俺だと何となく分かっていたんじゃないか。
耐えかねたのかテヒョンが「違うよ、友達の家だよ」と口を挟んだが、ソクジンの目はもう俺から動かなかった。

「図星かな。お世話になったね。仕事忙しそうなのに、申し訳ない。ありがとうね」

それから視線が逸らされて、帰るよテヒョン、とソクジンが声を掛けた。テヒョンがのろのろと立ち上がる。

「ありがとう、ヒョン」

テヒョンが無理矢理作ったみたいな笑顔で俺から離れようとする。
そんな酷い顔色でその男に着いて行って、お前は何をされるんだ?

「…明日。撮影がすごく早いんですよ。朝の5時とかで」

俯くテヒョンを見ていたら口が勝手に動いていた。やはりテヒョンのこととなると頭で考えるよりも先に体が勝手に動いている。だがそんな自分に呆れるのも、今口を出しておかなければ後悔するのも、分かりきっていることだった。

「へえ、大変だね」
「俺の家、すぐ近くなんです。仕事場から。だから俺の家に来ていいって言ったんです」
「そっか。でも今日は僕もテヒョンも帰らなきゃならないんだ。よく眠れていないようだしね」

ソクジンの指がテヒョンの目元を滑るように撫ぜる。テヒョンの肩がわかり易くびくついた。どことなく俺を責めるような声色だったことに少し腹が立った。お前がテヒョンをそうしているくせに。

「テヒョンの家は遠いから始発でもきついはずです。モデルに遅刻されたら困るので、今日は連れて帰りたいんですよ」

テヒョンが息を飲む。ソクジンの目がすう、と細められた。俺の心臓はばくばくと妙な音を立てている。なんだって俺がこんなこと、と思わなくはない。今テヒョンを連れて帰ったら間違いなくこの男の目の敵にされるだろう。すごく嫌だ。面倒臭い。でも中途半端に関わっておきながら途中で放り出せるほどテヒョンのことを軽く見ているわけではないから、仕方がないのだった。

「…そう。わかったよ。じゃあお願いしようか」

ソクジンはふっと笑って「じゃあまた迎えに来るよ」と席を立った。滑らかに伝票を攫って、入口の方へ歩いていく後ろ姿。テヒョンは今まで息を止めていたのかというくらい大きなため息を吐きながら、脱力した。

「……ユンギヒョン。巻き込んでごめんなさい」
「………俺が勝手にやったことだ」
「若干後悔してるでしょ。ソクジニヒョン見て」
「……まあな」

人って顔で判断するものじゃないな、とよく分かった。俺もなんだか気疲れして、「それ、飲んでいいか」とテヒョンの目の前の冷めきっているであろう紅茶を指さした。テヒョンはうん、と頷いて俺の方へソーサーごと寄越した。カップも冷たい。いつからここにいて、何分あの男と話していたのだろう。俺からそんなことを聞く資格はないのに、知りたいと思う。テヒョンは答えるだろうかとちらと考えて、やめた。あの男こそ聞きそうなことだと思ったからだ。
















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