Breaking Dawn





右手にある温もりを捕まえて自分だけのものにするまでに、何度も泣いて、手を離してしまいそうになった。ただ好きだという気持ちだけで乗り越えるには、沢山の壁があった。この人を愛するということに世間様の許しがいるのかとか、いつまで人目を気にしなければならないのかとか、色んなことで雁字搦めになってしまって、息が苦しかった。途方もなく迷子になって膝を抱えて、もう歩けないと弱音を吐いてしまいそうになった。
でも、俺はきっとこの人以外を愛することはできない。泣いたり弱音を吐いた数よりも遥かに多くそう思ったから、俺は諦めることなくこの人の隣にいようと決意したのだ。

明朝の太陽が昇る少し前、キンと張り詰めた空気の中で、俺はカメラを片手に持ったまま、その風景を瞳に焼き付けるように、暫く彼のことを見つめていた。

彼──テヒョンイヒョンとはよく一緒に日の出を見に行った。夏でも冬でも関係なかったが、頻度としては冬の方が多い。頬と鼻先を赤くし白い息を吐き出して、寒さに首を竦めながら、しかしどんなに寒くても、たまに明け方に起きて朝日を見ることをやめなかった。

俺は早起きなんて以ての外、というくらい朝起きるのが苦手だが、彼に誘われればどんなに眠くても断ることはしなかった。朝の、というよりはまだ太陽すら見えていないのに、声を潜めながらもどこか弾んだ調子で『一緒に日の出を見よう』と言われたら、断るなんて野暮なことはしたくなかった。
こうしてたまに二人して温かなベッドを抜け出すことは、俺たちだけのルーティンだ。きっと他の誰も、毎回テヒョンに付き合って真冬の日の出を見に行くなんてできないだろうし、テヒョンイヒョンも俺以外の誰かにわざわざ寝ているところを起こしてまで日の出を見に行こう、と誘うこともしないだろう。俺たち以外の誰もが寝静まっている。いつもは騒がしい途方もなく広い世界が、この時だけは俺たちだけのものになったようで、気分が良かった。

冬特有の、肌をさすような空気の中にいるテヒョンイヒョンはなぜだかとても神秘的で、神聖なものに見えた。冬が好きだと公言する彼は、昔からよくおばあさんと日の出を見るために明け方に出掛けることがあったらしい。懐かしむように時折ぽつりと語られる思い出は、ヒョンにとってかけがえのないものだ。寒さになのか昔の記憶になのか、少しだけ目を潤ませて話す彼の手を温めるように包み込みながら、俺はじっと耳を傾けていた。
テヒョンイヒョンの冷えた手に触れると、薬指にもっと冷たい金属の輪を見つけた。そっと親指でなぞると、ヒョンが擽ったそうにしながら俺の手を握り返した。

「きれいだね」

照れたように俺から視線を外して、空を見て彼が笑った。まだ太陽は出ていないから薄暗い。きれいだと形容するには少し早い。しかし特に追及することなく、そうだねと頷いた。どちらにせよ、俺にとっては朝焼けよりも何よりも、そうやって笑うヒョンの方がずっときれいなのだった。
やがて世界を照らす光がテヒョンイヒョンを包んで、嫋やかな曲線を描く横顔をなぞる。その前の、淡くて暗い静けさを纏った夜の空気が、よく似合っている。太陽よりも月よりも、よほどヒョンの方がきれいなのに、あなたはいつまでもそれに気づかない。
いつもテヒョンイヒョンは俺ではなく海の向こうを見ていて、おれはそんな彼の横顔を見つめ続ける。じっと動かない俺の視線に気づいたヒョンが、低くゆったりとした声で「眠くなっちゃった?」と微笑むのが、好きだった。
何度テヒョンイヒョンと太陽が昇るところを眺めても、彼と見ているから美しいのだと思う。きっと彼がいない世界でこうして夜明けを迎えても、同じような気持ちにはきっとなれない。テヒョンイヒョンが俺の世界を広げて鮮やかにしていくのはいつまでも変わらないのだ。

たまに不安になる。この静かな暗闇がゆっくりと太陽に飲まれて消えていくときに、あなたも消えてしまうんじゃないかと。気づいたらするりと俺の手から抜け出して、柔らかな余韻だけを残していつの間にか居なくなってしまわないかと。
あんなにやんちゃで元気でいたずらっ子だったテヒョンの姿はもうどこにもない。もうひとりの兄が寂しげに零した言葉が蘇る。そんな風に、変化していく先にいつまでも俺はいられるだろうか。俺を残していつの間にかどこかへ行ってしまわないか、心配になる。

あなたはきっと、俺にそんな心配はしないだろう。
ぎゅうと握った手は、熱を伝えているはずなのに気温が低すぎて感覚がなくなりそうだった。

もう好きとか愛してるとか、そういう言葉では足りない。息をするように、眠りから覚めたときにまず目を開けるように、当たり前にいつもあなたが俺の隣にいなくては生きていけないのだ。

「…どこにも行かないでね」

ぽつりとこぼれた呟きは、静かな世界の中には少し大きかったようだった。どんな音にも紛れることなく真っ直ぐにテヒョンイヒョンに届いた言葉に、彼は長い睫毛を揺らしてぱちりと瞬きした。

「どこにも行かないよ」

ヒョンが淡く笑う。その顔があまりに綺麗だったから、少しだけ涙が出そうになった。だから、つい目を離したらすぐどこかへ行ってしまうくせにとか俺といちごが並んでたらどっちに行くのとか、誤魔化すように中身のない文句を言った。だけど彼には全てお見通しで、微笑んだまま俺を見つめていた。こういうところには勝てないなと思う。

「まだ足りない?」
「え?」
「おまえを安心させてやるには」

テヒョンイヒョンが俺の薬指に嵌っている金属の輪っかを、さっき俺がしたみたいにそっとなぞった。

「…いいえ。あなたが俺のことが大好きなのは、よく分かってるから」
「じゃあどうしてそんなこと言うんだよ」
「俺にしかわかんないことだよ」
「じゃあおまえじゃなくていちごを食べに行くかもね」

もう、と冗談めかして肩を竦めたテヒョンイヒョンは、ゆっくりと視線を空に戻した。

「ふたりだけの指輪して、神さまに約束したからね。おれがジョングギを置いてどこかに行ったら、天使さまに怒られちゃうだろ」

俺たちは紙の上では結ばれない。世界の人々に祝福してもらうことも、本当は俺の愛してる人なんだと触れ回ることもできない。それはつまり俺たちの愛は世間に認めてもらえないということなのだと考えると、息苦しくてどうにかなってしまいそうになったこともあった。でも、ずっと一緒にいようと約束したときに、そんなことはもうどうでもいいのだと思えた。俺たちがこうして出会えたのも愛し合うことができたのも、偶然なんかではなく運命なのだ。そうして引き合わせてくれた神さまだけが知っていればいい。
約束の証人はいない。お互いだけだ。強いて言うなら、テヒョンのいう天使さまだろうか。

「好きだよ、ジョングガ」

低くて少し掠れた声は小さかったけれど、俺の耳に届くには十分だった。どちらからともなくそっと目を合わせて、唇を触れ合わせる。冷たい皮膚の奥の温かい吐息が合わさって、空気に融ける。身体を巡る熱がじわりと上がった気がした。


「ねえ、好きとか愛してるとかでもいいけど、俺たちだけの言葉が欲しくない?」
「ボラへみたいな?」
「そう。ふたりだけにしかわからないやつ」
「おまえ、そういうの好きだよね」
「テヒョンイヒョンもじゃん」

よく昔からふたりだけの遊びを考えたり、合図を出し合ったりした。ふたりだけのものが増えれば、それだけ俺だけが知るテヒョンイヒョンを増やせるから。

「じゃあおまえが考えて」
「えー。あなたも考えてよ」
「あ、じゃあこれは?」

ヒョンが楽しそうに白い息を吐き出しながら、身体を寄せて俺に一言囁いた。

「あなたらしいね」
「だろ」

テヒョンイヒョンがいひひ、と照れたように俯きながら笑った。そんな彼のうなじに指先を差し入れて、くしゃりと撫でた。

「これは誰にもバレちゃだめだからね」
「とか言ってカメラの前で言うだろ」
「俺があなたと共有してるものをバラすのはわざとだから」

これはだめ。
まるでお気に入りのおもちゃを取られないようにしてるみたいだ。子どもじみた独占欲。だけど、相手がテヒョンイヒョンなのだから許してほしい。
やがて黒いベールが朝日によって透かされるように、東の空から明るくなっていく。それを見て、テヒョンが楽しそうに声を上げる。

「あ」
「少しずつ明るくなってきたね」
「ふふ。やっぱり好きだなあ」

テヒョンイヒョンが両手をきゅうと握りながら、目を輝かせて遥か遠くにある光を見つめる。それからふと振り返って俺を見た彼の切れ長の目が細められた。

『 』

彼の唇が小さく動いて、耳馴染みのいい声がさっき決めたばかりの合言葉を紡いだ。
朝焼けを背にしたテヒョンイヒョンが、他の誰でもないただの一人の男として、俺のためだけに言葉をくれるのが嬉しくて堪らなかった。

「…俺も、」

同じように合言葉を繰り返して、こつりと彼とおでこを合わせる。じわりと目尻に滲んだ涙をヒョンの細い指が優しく拭った。

「帰ったらホットミルク、淹れようか」
「うん、それでもう一回寝よ」
「うん…」

だから、あとちょっとだけ。もう少しこのまま。そうしたら帰って、ホットミルクを飲んで、くっついて寝よう。冷えてしまった足を絡ませて、体温を分けるように抱き合って。そしてもう一度目が覚めたら、何事もなかったかのように、いつも通り仕事をしてテヒョンイヒョンと仲のいい兄弟の顔をするのだ。だけど、きっとふとした瞬間に、ヒョンは俺にだけわかるように愛を伝えてくれる。ふたりだけの秘密だから、誰にも教えないよ。










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