月にはやわい夢をしまっておく




美しいものが好きだった。幼い頃から花を摘んだり、きれいな石を集めたり、素晴らしい景色を見て写真に残したりして、手元に残したがった。それは人として当たり前の感性であり、まさか自分が美しい何かにそれほど執着するタイプだとは自覚がなかった。

祖父の家の、屋根裏部屋の中にひっそりと置かれていた美しい人形。その壮絶なまでの美しさが、俺の全てを狂わせていった。

まるで隠されるようにして誰も寄り付かない屋根裏部屋にぽつんと座らされた人形。祖父が亡くなって久しいのに肌も髪も艶やかで、ついこないだまで誰かが世話をしていたのかと思うくらいに綺麗だった。ふわりと花の馨しい香りもする。かたりと革靴の音を響かせながら、俺はそっとその人形に近づいた。黒々としていてパーマのかかった髪と、同じ色で随分と長い睫毛。桃色の唇も輪郭も小さく通った鼻筋も、人形なのだから当たり前なのだが、寸分の狂いもなく行儀よく収まっている。──触れたら、どんな感触なのだろう。どんな温度なのだろう。
俺は知っている。この人形が所謂"プランツドール"という、特殊な人形であることを。


美しい人形の話


プランツドール、というのは一言で言えば生き人形のことだ。優れた腕を持つ名匠が手掛けたその人形は、人の愛に生かされる。プランツドールは人というよりは太陽の光と水を糧にして生きる植物のように、尽くされる愛と少しの砂糖菓子、そして温められたミルクで美しさを保つのだ。希少価値も高くとんでもなく高額なため、プランツドールは一部の大金持ちの遊び道具だった。悪趣味だと云う人も中にはいたが、金持ちの遊びに口を出すほど庶民は暇では無いし、特に問題になるようなこともない。ただ美しいものを愛でるだけ。それは何もいけないことではない。

祖父の家は察しの通り金持ちだった。しかし祖母は早くに亡くなったし、俺の母である娘や他の子供達も早々に家を出たので、祖父は孤独だったのだろう。だから、プランツドールを手慰みに買ったのだ。そして、祖父はこのドールを大変愛でていたらしい。見てきたかのように、手に取るように情景が思い浮かぶ。

今でもこのドールは、もういない祖父のことを待っているのだろうか。だから、未だに美しさを保ったままなのだろうか。そう考えると、ドールである彼が可哀想になった。しかし、ドールも誰でもいいわけではなく人を選ぶというので、俺ではなく祖父でなければ駄目なのかもしれなかった。そう頭で理解していても、目の前に突如現れた美しいドールに、俺は一瞬にして心を奪われていた。美しいものは自分のものにしたい。誰だってそうだ。この綺麗で孤独な彼が目を開けてくれたら、俺は惜しみなく愛を注ぐのに。

「ねえ、目を開けてよ」

しんと静まり返った部屋の中で、俺の声だけが響く。しかし目を開ける気配はない。仕方なく腰を上げて、今日のところは部屋を出た。暫くは祖父の家のものを片付けるために滞在する予定なので、その間は彼の元に通うことにした。



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「ねえ。あなたは何が好きなの」

何も話さないどころか目も開けやしない、そんな人形に声を掛け続けているのは滑稽な光景だろう。でもそんなことは構わなかった。綺麗な彼に似合うような高価い菓子や、瓶に詰められた宝石を見せてみたけれど、どれも反応はない。つるりとした肌が憎らしく見えるくらい、どれもお気には召さないらしい。

少し考えて、近くの花屋に行った。適当に包んで、と注文して出来た、彼でも抱え込めるくらいの大きさの花束を作らせた。何の花かは全く分からないけれど、黒い髪によく映える紫色の花が入っていた。屋根裏部屋にその花束を持って行くと、彼の香りと花の香りが混ざり、まるで満開の花畑の中にいるかのような錯覚に陥った。花を彼のつんとした鼻先に寄せて、「綺麗だよ。あなたには負けるけどね。ねえ、目を開けてよ」と話し掛けた。花を見つめるあなたの瞳は何色だろうか。早く知りたいんだ。そう話しかけ続けていると、ふるりと長い睫毛が震えた。

「あ、」

ふわりと彼の周囲の香りが濃くなり、目がゆっくりと開いていく。薄い瞼の奥から現れた瞳は、黄金色だった。漆黒の髪に、黄金の瞳。勝ち気そうな眉に良く似合う。三白眼気味の涼し気な目が真っ直ぐと俺を見て、瞬きをした。その一瞬一瞬を、俺は息をつめて見守っていた。

彼はほんの少しだけ唇を開いたが、すぐにそれは閉じられた。プランツドールでも話せる個体とそうではない個体があるらしいから、別にそれはどちらでもよかった。とにかく、彼がどんな顔を見せてくれるのか、俺は胸元を抑えて見つめていた。

しかし、彼は俺にも花にも見向きもせず、ふるりと睫毛をまた震わせたかと思うと、ぽろ、と涙をこぼした。きらきらと涙の結晶がいくつも落ちていき、彼の足元に転がっていく。

「どうして、」

動揺してそんな言葉が飛び出したけれど、どうして彼が泣くのかなんて分かりきっていた。──彼は、祖父を待っていたのだ。ずっとずっと、この光の射さない屋根裏部屋で祖父が来るのを待っていたのに、もう二度と来ることは無い。彼は悟ってしまった。俺の顔を見ることで。

「泣かないで」

肌に触れると温かかった。微かに紅い頬に手を添えると、くるりと瞳が俺を見た。まるで俺を責めるみたいに、きゅうと眉毛が寄る。それから悲しげにへにゃりと眉は下がり、最後には小さな手で覆うようにして、顔を隠して泣き続けた。

どうしたらいいのかは分からなかった。こんなに愛されていたのに、突然愛を与えてくれた人間がいなくなる恐怖を俺は理解し得ないから。彼には祖父しかいなかったのだ。

「祖父は亡くなったんだ」

彼が弱々しく首を振る。

「このまま祖父を待ち続けたら、あなたは枯れてしまうよ」

それでもいい、というように彼は首を振り続ける。

「俺はあなたが欲しい。かつての祖父のように、あなたを愛すると約束する」

祖父が彼をどのようにして大切にしていたかはわからない。祖父と同じようにはできない。でも、俺はあなただけだ。そう言えるくらい、何よりもあなたが欲しい。

そう言うと、彼は少し困ったような顔をした。それからゆっくりと瞳が動き、俺を捉える。大きな目に俺が映り込む、その瞬間に歓喜が身体を巡っていく。嗚呼、と思った。祖父も同じことを思っただろう。死ぬまで彼を離すことはないだろう、と。

彼は俺の言葉に応えるかのように紫色の花束を手に取ると、目を閉じて香りを確かめて、ほんの少しだけ目元を弛めたのだった。


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祖父の家を引き払い、俺は自宅に戻った。勿論彼を連れて。元々来ていたベロア生地のドレススーツの他にも、祖父の家には沢山彼のための服があったから、全て持ち帰った。

俺の寝室にいつも彼はいる。ベッドの上で、今もくうくうと身体を丸めて眠っている。新しく買ってあげたテディベアがお気に入りで、それを抱き締めたまま。その光景が愛らしくて、すぐに写真に収めて部屋に飾った。




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