明日はあなたに愛される




記憶というものは随分不確かなものだ。それが夢なのか自身で作り上げた都合の良い妄想なのか、最早自分で判断することさえ難しい。俺は何度も記憶を反芻した。もしそれがテープなら、擦り切れて再生できなくなるくらいに。そうすると、確信を持つよりも更に曖昧になって、やっぱり俺の作り上げた幻想なのかと思ってしまう。

だって、あんな美しい生き物を、俺は見たことがない。

最初は夢の中で触れたくても、指先まで綺麗なその人は記憶の中ですり抜けてしまって、決して俺の手の内に収まることはなかった。もどかしく手を伸ばす俺に、彼は涼しい顔をこちらに向ける。密度の濃い睫毛が瞬いて俺を見つめ、弓形に笑み、そして俺の名前を呼ぶ。残念ながらその声を思い出すことはできないけれど、日に日に鮮明になっていく記憶が夢の中で思い起こされるたび、いつ彼の声を聴けるだろうかと心が浮足立った。
断続的に繰り返される美しい人の夢を、何度も見た。夢の中で彼に焦がれ、甘酸っぱいような気恥しい感情を彼にぶつけながら、いつも彼に「また会いたい」と言った。全て俺の身に覚えはないものの、あまりにリアルなそれらは失われてしまった昔の俺の記憶なのではないだろうか、と思うようになった。

今更になって思い出す意味は、正直言ってないかもしれない。
──だけど俺は、間違いなくその人のことが好きなのだ。だから夢の中の美しい人に会いたいと、長いこと願っているのだろう。
夢の中でもいい。もし聴けるのならば、彼の名前を聞いてみたかった。


01:或る少年の記憶

少しずつ鮮明になる夢の中で、まだ幼い俺の手を細く青白い手が優しく握る。顔を上げればゾッとするほど美しい男が微笑んでいたのだった。柔らかそうな金髪と、血のように赤いピアスが眩しい。いつも太い皮の首輪をしていたから、なんだかそれが窮屈そうに見えたけれど、それを『外さないの?』と問うことは何となく憚られて、いつも口を開きかけては閉じるということを繰り返していたように思う。
全身真っ黒な服に身を包んだその男は、森の奥にある古ぼけた大きな屋敷に住んでいる。外に出ているところは殆ど見たことがなかった。俺が森に迷い込んだ時に見つけた城の中で、彼はいつだってひとりきりだった。

『どうしてこんな暗いおうちのなかにいるの?』

俺が問い掛けると、彼はふ、と笑って『おれにはここしか居場所がないからだよ』と言った。当時の俺には彼の言いたいことがよく分からなかったけれど、幼いながらに彼が寂しそうにしているのは感じ取れた。だから、今日は帰るけどまた来るね、と彼に一方的に約束した。彼は危ないから来ちゃだめだよ、と柔らかく咎めたけれど、俺はまた彼に会いたいと心から思ったし、彼も強く咎めなかったから、きっと同じ気持ちなのだろうと都合よく解釈した。

彼の棲む屋敷の外観は古臭く、今にも幽霊でも出そうなのに、入ってみると生活感があった。花やくまのぬいぐるみやヴァイオリン。たくさんのレコード、古い映画のテープ。使い方も分からないような扱いの難しそうなカメラや色彩の乏しいボードゲームなど、古いなりに洒落た物が多かった。彼ははにかみながら、こういうのが好きなんだ、と俺に教えてくれた。だから、一緒に写真を撮ってみたり、ゲームをしたり、たくさん映画も観た。彼の性格を表したように穏やかで静かで少し切ない音楽も、どこか耳馴染みがよかった。時折彼の膝の上で微睡みながら、静かに映画や音楽を鑑賞する。そもそも俺の住む村は貧乏なので、映画や音楽を嗜む機会すらなかった。だから彼の見せてくれる世界は新鮮で楽しかった。
彼は俺が城に来ることについてあまりいい顔はしなかったけれど、強く止めることはなかった。危ないからとか、村の人達に知られたらおまえが罰を受けかねない、と注意はされたけれど、村に友達がいない俺は、村にいて一人で遊んでいるよりもよっぽど森の最奥にある幽霊屋敷のような城の中の美しい彼に会う方が楽しかった。
しかし、いつも「また会えるよね?」と聞いても、彼は優しく微笑むだけで返事はくれなかった。名前を聞いても教えてくれない。だから、俺が大きくなったら名前を教えてね、と言った。彼は驚いたように目を丸くしてから、切なげに笑った。そして結局、最後まで彼の名前は聞けずじまいだった。

そのうち、村の爺様に森へ通っていることがばれてしまった。
「お前は森の奥の城に通っているだろう」と多くの村人の前で指摘され、俺は突然のことに動揺して、固まることしかできなかった。誤魔化そうとしても咄嗟に上手く嘘がつけない。黙り込んだ俺に、爺様は行くのを止めるように言った。そしてあの森には化け物が棲んでいるのだから、近付いたら喰われてしまう、とどこかの御伽噺を話して聞かせた。俺は反抗して、あの森に化け物なんていなかった、と必死に爺様を説得しようとした。勿論彼のことは言わなかったけれど、何とかこれからも彼の元へ行けるように話をしようとした。しかしそれは当然認められず、その日は仕方なく家へ戻った。
爺様と話した次の日から、村人たちは俺を訝しむような目で見るようになった。きっと爺様と俺の会話を盗み聞きした村人が、何やら噂を広めたのだろう。他の家の子どもから化け物の仲間だと言われたり、石を投げられたりもした。大人からは災厄を呼ぶだろうから近寄るなと言われた。両親は悲しがったけれど、俺はそんなことよりも彼に会いに行けないことの方が、何倍も辛かった。何も悪いことはしていないのに。きっとあの綺麗な彼を皆知らないから、嫉妬しているのだろうとすら考えていた。
それから俺はついに辛抱ならなくなって、ある夜更けに家を抜け出した。あの城に行くために。彼に会いに。彼の美しくて優しい笑顔を見るために。俺はきっともう、この時には既に彼に恋をしていたのだ。自意識の中で認めるよりも、とにかく彼の手を握りたくて、声を聞きたくて仕方がなかった。早足になり、ついには駆け出して息を切らしながら、村を走り抜けた。
知らず知らずのうちに笑みが溢れていた。これで会える、彼の顔を見られる。少し時間は空いたけれど、きっと彼はほっとした顔で迎え入れてくれる。足に力を込めて地面を踏み締めながら、嬉しさから高揚するのを抑えられなかった。けれどそれは、直後強い衝撃が俺を襲ったために断ち切られた。
がつんと頭を何か固いもので強く殴られ、目の前が真っ暗になった。あまりに突然のことだったから、呻いて地面に転がって、驚きながら目を白黒させた。目の前がちかちかして、一拍遅れて痛みが襲う。頭の痛みで鈍った聴覚が辛うじて足音を拾って、恐る恐る見上げてみれば男が数人立っていたのだった。

「え、……………」
「ジョングク。お前は森の化け物に魅入られた。取り憑かれたんだ」
「殺さないだけマシだと思え。おい、その木に縛り付けておけ」

その男たちの顔は碌に覚えていない。村人であることは辛うじて分かったが、不気味に揺れた松明の火の中で揺らいだ顔は暗く歪んで、すぐに見えなくなった。腕を掴まれて抵抗する間もなく縄で繋がれ、大木に磔にされた。無茶苦茶に泣き喚いても殴られ続けるだけで、成す術もない。いつかに見た本で見た魔女狩りのようだなと思うほかなかった。
ただ彼に会いたいだけなのに、何がそんなにいけないことなのだろうか。幼い俺には理解し得なかった。彼は化け物なんかじゃない。俺だって違う。なぜ俺がこんな目に遭わなきゃならないのだろう。血に滲んだ視界が閉ざされていく中で、俺は強く村人たちを恨みながら気を失った。

「ごめんね」

誰かの気配に、うっすらと意識が浮上する。完全に意識は戻らなかったが、すぐに誰がいるのかはわかった。黒いローブを被った彼が泣きながら、俺の頬を優しく撫でる。やはりいつも通り、冷たい手だった。

「もし見つかればおまえが酷い目に遭うとわかっていたのに、おまえに会えるのが嬉しくて強く拒めなかった。早くおまえから記憶を消してしまえばよかった」

「ごめんね。おまえには幸せでいてほしい。だから、おれとは一緒にいられないの。ありがとう。さようなら」

待ってよ、と俺は力の限り叫んだ。いや、実際は叫べてなんかいなくて、無様に地面に転がったままだった。

いやだ、あなたに会えないくらいなら死んだ方がマシだ。俺の味方なんてどこにもいない古びた面白みもない村なんかより、あなただけがいる城にいたい。あなたしかいらない。行かないで。

俺は確かに泣いていた。それなのに、目が醒めてから濡れた頬に自分で触れて、どうして泣いていたのか分からなくなった。何が辛かったのか、何が俺から離れていってしまったのか、何をそんなに引き留めたかったのか、何もかもが霧散して奇麗に俺の頭の中から消えてなくなってしまった。

どうして森に通っていたのだろう。あんなに村人たちに森に近づくなと言われていたのに。


02:金と銀の吸血鬼

「お前さ。人間侍らすのもいい加減にしろって言ったろ」

少しでも触れたら切れてしまいそうな薄くて鋭いナイフの切っ先を、おれの首に宛てがう。ごくりと息を飲んだらちり、と痛みが走り、血が溢れて落ちた。微かに触れただけで本当に薄い皮膚が切れてしまったようだった。敏感な嗅覚が自分の血の匂いを拾う。そのナイフのように同じく鋭く細い目がおれを睨めつけて、ぎしりと奥歯を噛み締める音がした。ジミンが舌舐めずりして、おれの血をナイフで掬って、それから見せつけるように嘗める。おれたちは同じ吸血鬼だろう、とでも言いたいのか。ぱたぱたと落ちていく血と一緒に、不意に視界が滲んだ。

「離して、ジミナ」

ナイフを持つ方と反対の手でおれの手を捻り縛り上げているジミンを睨むと、彼はあっさりと手を離した。腕の付け根が熱を持って痛みを訴えるけれど、それよりも悲しくて涙が止まらなくなった。嗚咽が止まらなくて、自分が情けなかった。

「なんで泣いてるの?」

ジミンは薄ら笑いすら浮かべておれを見つめ、それから優しくおれの涙を拭った。シルバーの大きな指輪が頬に当たる冷ややかな感覚が、現実を見ろと言っているようで厭だった。

「……おまえの言う通り記憶を消したよ。もうこれであの子と関わることはない」
「殺さなきゃ分かんないよ?また森に足を踏み入れて迷い込むかもしれない」
「村人に手酷く折檻されてしばらくは森に入れないし、危険を冒してまでここに来ようなんてもう思わないよ。……ジミナ。すぐ殺そうとしないで。必要以上に殺しちゃだめ」
「僕は人間が嫌いなだけだよ。そんな人間に入れ込むお前も僕は頭が可笑しいと思うけどね。でも僕はお前が大好きだから、お前の言う事を聞き入れてあげてる。本当は今回だって捻り殺してやりたかったけど……もし二度目があれば絶対に殺す。これが精一杯の譲歩だよ」
「おれたちと人間は種族が違うだけでしょ」
「僕が人間を嫌いな理由の半分はさ、お前が人間にばかり入れ込むからっていうのもあるよ。あんなのにどうして心を砕くのさ」

あんなの、と吐き捨てたジミンは人間を虫けらのように扱う。蟻でも踏みつけるように簡単に人を殺すから、いつもおれと仲良くしてくれた人間だって、おれが知らないうちに殺してしまう。
今回は、ジミンが「お前の気に入りの餓鬼が磔にされてるけどいいの?」と何が可笑しいのかケタケタ笑いながら、おれに教えに来た。珍しくまだ殺してないよ、と嘯くジミンは気分屋だから、単に気分じゃなかっただけだ。いつもならおれに教える前に首を刎ねているはずなのだから。
でもその代わり、おれをわざわざ気を失ったあの子の前に座らせて、ジミンは記憶を消せと言った。消さないなら殺すと言うものだから仕方なく、おれはあの子から俺の記憶を消すほかなかった。
──これでいいでしょ?
泣きながら問えば、ジミンは笑みを深くしながら「テテはいい子だね」とおれにキスをした。

「……おれは人と仲良くしたいのに」

ぼそりと呟いてジミンを睨むと、「バカなの?」と鼻で笑った。

「人間と仲良くしたいって言ったってさ。所詮あっちからしたら僕達なんて化け物なんだよ。種族が違うのに分かり合えるわけがない。殺すか殺されるかの違いしかないよ。それをお前はわかってない」
「人間にだっていい人はいるよ」
「呆れた。お前はまだそんな事言うの」
「無闇矢鱈に人間を殺しても争いはなくならないよ」
「そんなことはどうでもいいんだよ。僕はただ目の前にある邪魔な石を蹴って退かしているのと同じことをしてるんだ」

次の瞬間、目にも止まらぬ速さでぐ、と力強く顎を掴まれたと思ったら、目の前にジミンの顔が迫っていた。

「お前、吸血鬼で良かったね。きっとお前が人間だったら真っ先に殺してるよ」
「………おれのこと、大好きって言ったくせに」

壁に押し付けられてまた口付けられる前にジミンのセリフを拾って口にすると、ジミンは面食らったようにぱちりと目を丸くした。それからニヤ、と笑って「そうだよ、僕はお前が大好きなんだ。僕にはお前さえいればいいんだから」と言った。──普通大好きだとか言いながら、人の首にナイフ宛がったりしないでしょ。ジミンだって大分頭が可笑しいと思うけど。
せめてもの抵抗にジミンの柔らかい唇に歯を立てると、ジミンはふ、と笑った。それが先程までのニヒルな笑みとは違って哀しそうに見えたから、おれはそれ以上の抵抗はしなかった。


03:歪み


可哀想なお前が可愛くて仕方ないよ。
テヒョンは吸血鬼だけど、あまり血を飲もうとしない。僕からしてみれば人間なんてその辺の家畜と変わらないけれど、どうやらテヒョンは違うようだった。自分から村に近づくような愚かなことは流石にしなかったが、森に迷い込んだ子どもと遊んだり、狩りに来た人間に道を教えたり食べ物をやったりした。必ずテヒョンに会った人間は、異様なまでに美しい容姿にすっかりハマりこんで、森に一人でやってくる。テヒョンは嬉しそうに人間の相手をするけれど、僕はその人間を殺して自分の食事にする。それまでがお決まりのパターンだ。テヒョンは泣いて僕を詰った。どうして殺すの?おれの友達だったのに、と。でもさ。豚と仲良くする人間なんていないように、人間と仲良くする吸血鬼だって有り得ない。森へ迷い込んできたなら黙って殴り殺して食べればいい。言葉を交わす必要なんて万に一つもない。でも、「友達」を殺されて泣くテヒョンは、お気に入りのぬいぐるみを取り上げられた赤ちゃんみたいでとっても可愛い。僕はいつも言って聞かせる。「ねえ、お前には僕がいるでしょ」と。テヒョンは泣き腫らした顔で「………そうだった。おれにはじみにがいるもんね………ごめんね。ゆるして」と言うのだ。やっとわかった?と僕は笑ってやる。そうしたら僕の怒りがやっと治まったと思ったテヒョンの表情が弛む。そこで、僕は言うのだ。「じゃあこれ、飲めるよね?」って。差し出すのはテヒョンお気に入りのマグカップに注がれた真っ赤な血。言わずとも分かるだろう、さっきまでテヒョンの「友達」だったものの体液だ。テヒョンの顔から血の気がザッと引いて、「じみな、どうしてゆるしてくれないの」とまた顔をグシャグシャにして泣き始める。かわいいね。どこまでも甘くて愚かで馬鹿で、加虐心を唆る子だ。

「頭ごと持ってこないだけまだマシだと思うよ?ねえ、早く飲みなよ。お前、僕が飲めって言わなきゃ飲まないんだから」

嫌がるテヒョンを押さえつけて血を飲ませると、テヒョンの顔色が幾分良くなっていく。皮肉なものだよね、テヒョンア。お前もわかってるでしょ?血を飲む前より比べ物にならないくらい体の調子はよくなるのだから。所詮人間なんて、僕たちからすれば栄養分でしかない。ね?と美しい顔を覗き込む。血を唇にべっとりとつけたまま絶望に染まった顔をするお前はとっても可愛い。見ていて飽きない。矛盾した体も、泣き顔も、結局「友達」が僕に殺されるとわかっていて愛嬌を振り撒く愚かなところも、全部僕は愛おしいと思っているよ。

だけど、テヒョンの中で僕よりどこの馬の骨とも知れない人間の方が優先順位が高くなるのは許せなかった。決まってテヒョンは浮かれた顔で愛おしそうに人間のことを見ている。僕に隠そうとしても分かりやすいからバレバレだ。今回迷い込んできた人間のことも、大分気に入っていた。僕はいつ殺してやろうかと機を伺っていたが、僕が殺す前に村人に森へ通っていることがバレて折檻されたようだった。間抜けだなと思ったけど、すぐに気を失ってボロボロになった人間をテヒョンに見せて、目の前で記憶を消させたから、少し気が済んだ。眼前で殺してやってもよかったんだけど、僕ったら結局テヒョンに甘いよね。



04:或る少年の記憶A


折檻されてから暫く傷は治らなかった。多分骨が折れているのだが、村人たちは俺を気味悪がって治療を施してくれることは無かった。痛くて涙が出たけれど、俺もどうして森に通うなんて馬鹿な真似をしていたのか分からない以上、仕方の無いことだった。

耳にこびり付いたように夢の中の『ごめんね』という言葉だけが残っている。男の声だ。この村の誰でもない、低くて美しくて、とても悲しそうな声。夢ではない気がして、何も集中できない。
あなたは誰なの、と問うてみても、誰も答えることはない。

しばらくは日常のどこかに引っかかるような違和感があった。俺には友達なんていないのに、綺麗な食器でお茶を飲みながら誰かとおしゃべりをして、とても楽しかったような気がした。この村は貧乏しかいないので、そんな食器のある家はない。そもそも飲み物だって、水しか知らないはずだ。舌先に触れたことのある仄かな香り。一体どこで覚えたというのだろう。そんなことが、幾度となくあった。

それでも、何度繰り返してもわからないなら忘れてしまう。いつしか記憶は薄れていった。声も記憶から消えて、違和感など気にならなくなった。
成長期に入り身長が伸びていけば、自然と力もついた。あの時俺に折檻した大人たちのようにとは未だならないものの、他の子どもたちより成長が早かったためか、俺を虐めようとする者もいなくなった。──早く自立して村を出よう。そして、新しい世界を見たい。生涯を薪割りや家畜の世話で終えたくなかったので、俺は黙々と働いた。あの薄気味悪い森へは入らなかった。わざわざあの森へ行かなくても、山へ行けば山菜が沢山採れる。もう何年も、あの森へ足を踏み入れていない。



05:孤独な吸血鬼


吸血鬼である自分が嫌いだった。人間のように、草木や魚でも食い繋いでいけるような体になりたかった。おれたちと見た目はあまり変わらないのに、明確に吸血鬼と人間は線引きされ、遥か昔から互いに互いの存在を忌み嫌っていた。吸血鬼にとって人間は餌だ。だから人間にとっての吸血鬼は悪魔のような存在で、それは仕方の無いことだった。吸血鬼の方が身体能力が優れている代わりに太陽の光に弱くて、吸血鬼として母数が少ない。対して人間は弱い代わりに太陽の下でも関係なく動き回れて、数が多い。数に圧倒されて、少しずつ吸血鬼の住処が削られていき、迫害され、今は森の最奥で息を潜めて暮らしている。きっと今は人間にとって吸血鬼なんて曖昧な存在で、森の奥に入ると危険だからと子どもに言い聞かせる時の脅し文句のようになっているのではないだろうか。それか、ジミンが見せしめのように人を殺すから、そのせいで森は怖いところだと認識されているのかもしれない。

おれは吸血鬼と人間の違いについてそれほど重く捉えていなかった。昔からそれほど血を飲まなくても生きていけたので、ジミンに出会うまでは、人間は太陽の下で遊べていいなあ、くらいにしか思っていなかった。

そもそも、おれは血が嫌いだった。吸血鬼のくせに血が嫌いなんて致命的だが、吸血鬼と人間にそれほど違いを見出していなかったおれにとって、人間の生き血を吸うのは怖くてできなかった。急所に噛み付くなんて見るからに痛そうだし、かわいそうで。

ある時のことだった。木の実を取るために村の少し手前まで出たことがあった。太陽が苦手なので、外に出るときは曇りの日に分厚いローブを被り出掛けた。うろうろと木の実を物色していると、うっかり人間に見つかってしまい、襲われそうになった。森に人間が来ることは殆どないので油断していたのだった。おれはまだ線が細かったからか女に見間違えられたようで、体格のいい男に腕を掴まれ引き倒されて、びっくりしている間に服を脱がされそうになった。自分よりも遥かにガタイのいい男だったから、恐ろしくて震えることしかできない。抵抗すらままならず声も出せないでいると、次の瞬間、目の前にあった首が吹っ飛んだ。びしゃりと顔に生暖かい血がかかって、唇に落ちる。本能的にそれを舐めとってしまって、酷い自己嫌悪に駆られた。

『お前さ。バカなの?吸血鬼のくせに抵抗しないなんて』

おれを見下ろしながら男の首を掴んで、滴り落ちる血をべろりと舐めた男が、そうおれに吐き捨てた。それがジミンだった。

ジミンは典型的な吸血鬼で、おれとはあまり考えが合わなかった。しかし同い歳で、人間のこと以外の話をするときはすごく楽しかった。今まで同い歳の友達がいたことがなかったから、おれはジミンと遊べて嬉しかった。

でも、偶然できた人間の友達をジミンに殺された時に、何かが変わってしまった。
どうして殺したりなんてするのと声を荒らげて泣き叫ぶおれに、ジミンは冷たい目をするだけだった。

『僕達と同じように動いてしゃべるから、お前は勘違いしてるんじゃない?「これ」はただの食べものだよ?』

心底可笑しいというように、ジミンはおれを見ていた。おれがおかしいの?とジミンに問うと、そうだよ、と頷いてから自身が口に含んでいた血を口移しで飲まされた。

『お前のそのねじ曲がった考えを僕が正してあげる。そしてお前に血を飲ませてあげるよ。そしたら分かる。僕が正しくてお前が間違ってるってことが』

その時のジミンは、見たことのない顔をしていた。熱い手で頬を包まれて唇を舐められた時、おれはもうジミンから逃げることはできないと思った。

結局そうだ。ジミンは正しい。おれがおかしい。気を紛らわせるために木の実を食べたって、何の栄養にもならない。吸血鬼なのだから、血を飲まなければ生きていけない。いつも貧血になって限界が来てから、森の中で死んだ動物の血を泣きながら飲んだ。それで食い繋いでも、いつか飢え死ぬ。そして死にかけると、決まってジミンがおれの首を引っ掴んで無理矢理飲ませようとする。ジミンに飲まされた血はとんでもなく美味しくて、やっぱり自分は吸血鬼なのだと嫌でも思い知らされた。血が欲しい。たくさん欲しい。穢く下品に顔を汚しながらむしゃぶりついたら、どんなに美味しいだろう。そんな考えが過ぎって、吐き気がした。
おれを吸血鬼として生んだ両親を恨むつもりはない。でも、おれのせいで死んだ人間が少なからずいるということが耐えられなかった。だから死にたい。そうジミンに零したら、信じられないくらい強く殴られた。血走った目でおれを床に押し付けて、ふざけるなと叫ばれた。ジミンはおれの頭がおかしいと言うくせに、いざおれがいなくなろうとするとすごく怒る。だからどうしてと訊くと、ジミンはおれを愛している、と言ったのだった。あまりにも苦しそうに、悔しげに言うものだからついには笑ってしまった。
愛なんてジミンらしくない。どこで覚えたのだろう。キスもセックスもどきも、全部ジミンはおれとしたがったけれど、何かの真似事にしか思えなかった。
──愛だなんてさ。おまえは知ってるの?
問うてみたかったけれど、そうはしなかった。真似事を繰り返すジミンは満足そうにしていたから、いつしかおれは思考を放棄してしまった。
ジミンは、僕のために死なないで、と言った。そう言われてしまったら、おれの脳みそは単純だから、ジミンのために生きなきゃ、と思ってしまうのだ。
もう既に、ジミンといる目的なんてなくなっていた。ただジミンがいるから生きている。ジミンから吸血鬼としての考えを正されなくても、おれが間違ったままでも最早関係ない。ジミンがおれを見捨てて飢え死ぬまで、傍にいる。おれにはジミンしかいないから。

昔のことを反芻しながら、ジミンに着けられた首輪を指でなぞった。僕の趣味だよと意地悪そうに笑ったジミンは、おれが欠かさず首輪を着けると満足そうにしていた。趣味が悪いとは思うけれど、ジミンが好きならどうでもよかった。

あの子の、白くて小さな手を思い出す。子鹿のように細い手足と可愛らしい顔が、きらきらとした大きな目でおれを見上げていた。おれの名前は教えなかったから、彼がおれの名前を呼んでくれることはついぞなかったけれど、それでよかった。あの子とはジミンがいないときを見計らって少しずつ会っていたが、ここ数年ほどジミン以外の友達がいないおれにとって、癒しと言える存在だった。
あの子がおれのせいで折檻されてしまったのは可哀想だった。久しぶりに人間の子どもに懐いてもらえて、嬉しくて拒むことができなかった。柔らかい髪を撫でて、かわいいねと言うと彼は照れたように「あなたのほうがかわいい」と小生意気なことを言っていた。それを思い出して、また少し涙が出た。ジミンに殺される前に記憶を消せてよかった。おれがもしあの子の血を飲むことになってしまうくらいなら、今度こそ死んだ方がいい。


06:吸血鬼と青年


雨が降り出した。太陽は雲に隠れているから少しくらいなら大丈夫かな、と思い立って、おれは外に出ることにした。ジミンは出掛けていて不在だ。ジミンはいつもおれに行き先を言わないから、おれも聞かなかった。たまに血の匂いをさせて帰ってくるから、察しはつくけれど。

村の手前まで行って、立ち止まる。辺りに人の気配はない。それでも、少しずつ雰囲気が変わっていっている気がした。目を凝らすと遠くに人間たちの村が見える。吸血鬼の方が寿命が長いから、ぼうっとしているとあっという間に人間が入れ替わっているのだが、最後に遠目に見た時はあんなに老人ばかり多くはなかったような気がした。
村が衰退して、いつしか人間が離れていったら。人間が森に迷い込むようなことも完全になくなって、おれは人間と友達になることはないだろう。それならそれでいいような気がした。おれは人を不幸にすることしかできないから。それでも求めることをやめられないなら、人間の方から離れてくれた方がいい。そう考えているうちに、ぼたぼたと傘を叩く雨音の中で、急速に腹の底が冷えていくような心地がした。おれにはジミンしかいない。でもジミンはすぐどこかへ出掛けていってしまう。その先には他の友達がいるのかもしれない。おれにはいないのに。孤独で、さみしい。おれってば何してるんだろう。胸が苦しいくてしゃがみこんだ。──おれの天使さまはどこにいるの。問うてみて、ばからしくて笑ってしまいそうになった。おれのせいで死んだ人がいるのに、おれに天使さまなんているわけがない。十字架すら握れないくせに。太陽の光すら感じられないくせに。人間を殺すことしかできないくせに。人間の真似事をして神に願ってみたって、無様なだけだ。やっぱりおれは、間違っているのだ。

「ふ、ふ。あは。……ばかみたい」

傘を投げ出して膝をついた。しにたい、と口の中で呟いて、ぎゅうと唇を噛み締めた。いっそこのまま死んでしまえたらいいのに。おれの人生っていつ終わるんだろう。吸血鬼って寿命が長いから、わからない。

「あの。大丈夫ですか?」

容赦なくおれに降り注いでいた雨が、突然ぱたりと止んだ。代わりにぼたぼたと傘を叩きつける雨音がし始める。思わず顔を上げると、ひとりの男がおれを見下ろしていた。全く気配に気づかなかった。吸血鬼ほどではないが白い肌と、大きな目。──あの時の。おれが記憶を消したあの子だ。間違いない。匂いも同じだ。大分大きくなっているけれど、すぐにわかった。だから思い出した瞬間におれは立ち上がった。無事でよかった、生きていてよかった。けれど二度目はないと言ったジミンの言葉が蘇る。早く離れなければ。それなのに身体は言うことを聞いてくれず、貧血でよろけてしまった。

「あ!ちょっと、急に立ち上がったら危ないですよ」

あんなに細くて子鹿のようだったのに、がっしりした腕がおれを支えてくれた。

「や、………離して」
「具合悪そうですよ」
「だいじょうぶ、だから」

彼の胸に手を置いて押して、距離を取ろうとしたけれど、全く力が入らない。血を飲んでいないから力が出ないのは当たり前なのだった。おれはくらくらする頭で彼を見て、それから気を失ってしまったようだった。



目が覚めたらベッドの中にいた。ぱちぱちと火の弾ける音もする。ゆっくり身体を起こすと、「起きましたか」とすぐ近くで声がした。

気を失う前に見たのは紛れもなくあの子だった。そして目の前でおれの介抱をし白湯を差し出しているのも、あの子だ。垂れ目ぎみの大きな目が心配そうにおれを見ていた。

「………ありがとう」

他に掛ける言葉もなく、おれは差し出されたカップを手に取った。手はもうおれのそれよりも大きい。真っ黒な髪はどこか丸みを帯びていて、艶々していて。気づいた時にはカップの中にぽたりと涙が落ちていた。

「どこか痛むんですか?」

おろおろと彼がおれを覗き込んでも、おれは暫く返事すらできなかった。よかったと思うと同時に、早くこの家から出なくてはならないから焦りで動悸がした。でも動悸の理由はそれだけでは決してなかった。空腹で理性がぐらぐらする。──早く、帰らなきゃ。おれがいないことに気づいたジミンがどうするかは分からないが、この子を殺すことだけは明白なのだから。

「おれ、帰るね」

カップに口をつけて一口だけ飲み、震える手で彼へカップを返す。彼が戸惑っているのがわかった。

「まだ気分が優れないでしょう」
「早く帰らなきゃだめなんだ」
「もう夜になる。辺りが暗くなったら危ないです」
「大丈夫。ありがとう」

日が暮れているとするとジミンにバレてしまうかもしれない。それが何より怖くて、おれは急いで外へ出ようとした。すると、ぱしりと手首を掴まれた。思わず振り返ると、彼はおれをじっと見つめていた。

「また会えますか」
『また会えるよね?』

幼い彼の言葉と重なって聞こえた気がした。あの時のおれはなんと答えていたんだろう。でも、頷けるわけがない。今も昔も。

「………ごめんね」

彼の手を振り払って今度こそ外に出た。辺りを見回しても誰もいないことにホッとしながら、おれはひたすら走った。血が足りなくて何度も転んだ。雨がおれの身体を叩きつけているのが、なんだか責められているような気がして苦しかった。

「は、はっ、…ぁ、ぅ」

血が足りない。ばしゃんと水溜りの中に倒れこみながら、自分の手の甲に噛み付いた。お腹が空いた。たくさん血が飲みたい。飲みたくないのに、体が欲している。自分が卑しくて気持ちが悪かった。あのままあの子の家にいたら、自分はどうしていたのだろう。おれは自分が怖かった。「友達」を美味しそうだなんて思いたくなんてないのに。理性が溶けて本能に抗えなかったら、おれも人間を殺してしまうのだろうか。あの子の首に噛み付いて、食い尽くしてしまうのだろうか。


07:束縛


「何処に行ってたの」

暗い城の中で、灯りもつけずにジミンが蹲っていた。一歩足を前へ動かせばガラスの破片を踏みつけたような耳障りな音がする。よく見れば辺りに割れた食器が散乱していた。

「お前はまた村に行ってたの?」
「違う」
「何が違うの。そんなに人間の匂いをプンプンさせてさ」
「……違う、外で気絶したおれを介抱してくれただけだよ」
「この匂い嗅いだことがあるよ。十年前に殺し損ねたあの餓鬼じゃない?嗚呼ほら言ったじゃん。あの時殺せばよかったんだ、馬鹿みたい」
「やめて、ジミナ。おれはそんなの望んでない」
「お前は黙ってろよ!!」

ガン、と思い切りテーブルを蹴り上げてジミンが激昂した。ふう、ふう、と荒く肩で息をしながら、ジミンがおれを睨みつける。抑えられない怒りを必死におれにぶつけないようにしているのが分かった。

「お前を縛りつけておけばよかった。あの餓鬼は殺しておけばよかった。どうして僕って詰めが甘いのかな。僕がお前に甘いからいけないんだよね。お前が好きなら人形みたいに家の中に閉じ込めて愛でてればよかったんだ。……お前はそのうち僕を捨ててどこかへ行ってしまうんだから」

ジミンがおれを見つめた時、もうその目は冷静だった。絶対零度の冷えきった目におれが怯んだのを見て、ジミンは笑った。

「……おれはおまえを置いていかないよ」

絞り出した言葉もジミンには届いていないようだった。ぼそりと吐き出された「嘘だ」という呟きに目の前が真っ暗になる。おれはジミンに信じてもらえないの?おれにはおまえしかいないのに。どうしておれがおまえを置いてどこかへ行くなんて思ったの。どれかひとつでも疑問を口にして問ただそうとしたけれど、ジミンがおれの首を絞め始めたせいで全て口の中で消えてしまった。

「んッ、ぐぁ、じみ、な…………」

海の水底へ沈んでいくように、急速に目の前が暗くなる。途切れ途切れになんとか名前を呼んでも、ジミンはそのまま黙っておれの首を掴む手の力を強めるだけだった。ぎちぎちと音が鳴る。このまま死んじゃうのかな。ジミンに殺されちゃうのかな。それならそれで、いいのかもしれない。

「じ、みな、……ごめ、ん…ね……」

苦しくて本能的に体が抵抗してしまう。どこまでも愚かでごめんね、ジミン。おれが間違ってるから、いけなかったんだよね。

「許さない、お前が悪い子だから……絶対僕から離れたら許さないから」

薄れゆく意識の中、ジミンが泣きながらそう言った、ような気がした。



目が覚めた時に走った激痛に、思わず呻いた。今までどうして気を失っていられたのか理解できないほどの痛みに冷や汗が止まらない。見れば足首付近から血が流れて大理石の床に血溜まりを作っていた。ジミンが目を覚ましたおれに近づいて、目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

「"動ける"のに外に出られないより、"動けない"から外に出られない方がいいでしょ?」

何を言ってるんだろう、と思った。確かに首輪はいつも通りどこかに繋がれているわけではない。その代わり、脚が痛くて動けない。ジミンはおれを鎖で繋いで動きを封じるよりも、脚の腱を切って歩けなくした方が早いと思ったらしい。吸血鬼なので幸い腱が切れても人間よりも早く回復するが、おれはただジミンの考えが恐ろしかった。

「ごめんね、テテ。僕だってこんなことしたくないんだよ。でも仕方ないよね。お前が僕から離れていくくらいなら、閉じ込めてしまった方がいい」
「ジミナ………」
「僕を異常だと思う?でもそうしたのはお前だよ」

動けなくなってただおまえの帰りを待つだけのペットになっても、おまえはそんなおれが好きだと言うのか。おれの問い掛けの答えのように、ジミンの目がとろりと蕩けておれを見る。愛してると呟きながら口付けられた。
愛とはなんだろうか。自分の手の中に閉じ込めて、脚をもいで羽根を千切って、無惨な姿にしてまで手元におきたいものだろうか。
──わからないから、何も反論できなかった。

「……ジミニの、好きにしていいよ」

そう言うとジミンが嬉しそうに笑った。

「そう言ってくれると思ったよ」

また口付けられ厚い舌に絡め取られる。目を瞑った。二人で一緒にゲームをしたり映画を見て笑いあっていた頃にはもう戻れそうもなかった。脳裏に過ぎったあの子の顔を思い浮かべたけれど、上から真っ黒なペンキを零してしまったかのように、塗り潰されていく。おれがここに閉じ込められてあの子が殺されずに済むなら、それでいい。もう二度と会うことはできないけれど。一筋涙が落ちる。ジミンはそれをどう捉えたのか、黙って親指で拭い取った。



ジミンはおれの腱を切っておきながら暫く放置したものだから、おれは痛みに気絶し熱を出してしまった。ジミンはおろおろしながら「ごめんねテテ」とばかみたいに甘い顔と声でおれをベッドへ抱き上げて運び、おれが眠りに落ちるまでずっと看病していた。ジミンは生活能力が皆無なので、ホットミルクを出すとかお粥を作るとか、そういう気の利いたことはできない。ジミンときたら「新鮮な血取ってくるからね!」と慌ただしく出ていった。おれは血を飲まないというのに。ジミンは頑固だから、おれが衰弱したら殴ってでも飲ませようとする。だから死ぬに死ねない、というのもある。

気絶する前よりも幾分脚の痛みは随分マシになっていた。回復能力が驚異的で痛みがいつまでも続いているわけではないというところだけ、吸血鬼という体質に感謝した。

光のない中では、血に濡れたままの包帯が、真っ赤なのか黒ずんでいるのか、暗い部屋の中だとわからない。
ベッドのすぐ近くにある窓へ手を伸ばした。一切の光を遮断するように板が打ち付けられ嵌め殺しになっている窓は、もう窓としての役割を果たしていない。外を見ることはできない。おれは暫く自力で歩けない。きっと歩けるようになっても、ジミンはおれを城の外へは出さないだろう。シンと静まり返った部屋の中には、手の届かないところばかりにヴァイオリンや蓄音機があった。

「ジョングク…………」

何年経っても色褪せることのない記憶と共に、片時も忘れなかった名前をやっと口にした。あの子の名前。滅多に呼ばなかったが、頭を撫でてやるととても嬉しそうに、照れくさそうにはにかんでいた。
諦めが悪いのは分かっていたつもりだったが、やっぱりもう一度会いたいという希望を捨てきれていない自分が惨めに思えた。おれに関わったら殺される。分かっている。

『また会えますか』

本当は頷きたかったよ。おれだって会いたい。熱に浮かされた頭がぼんやりしてくる。熱なのか涙なのか、視界が滲んでいく。脚の痛みがぶり返して、おれは逃避するように毛布を被り、無理矢理眠りについた。


08:森


「や〜お前正気かよ。あの森何にもないだろ」
「たまに美味しい木の実とかありますよ」
「わざわざあんなところに行かなくても反対側に立派な山があるじゃん」
「山飽きました」
「山に飽きとかいう概念ないよ」

大分高齢化が進んだ村だが、数人の物好きな若者はまだこの村に留まっている。俺もその一人である。そして目の前には無駄に美形な、雰囲気だけは都会にいそうな男がいた。しかし背後に山を携えていると何となく草食動物に見えなくもない。アルパカとか。

俺がまだ幼い頃、森に通っていたところを村人に見つかり折檻され、もう二度と森へ行かないと固く約束された。あれは今思えば俺を思っての注意というよりは、正義感の暴走や憂さ晴らしといったところだろうか。俺に折檻した大人たちは既に村にはおらず、皆村を出て散り散りになった。あの頃はこんな閉鎖的で古臭い村など早く出てやると息巻いていたが、俺の頭の奥で微かに記憶の蓋が音を立てて主張し続けていた。夢の中で鮮明になっていく記憶を辿って、あの名前も知らない美しい人に会う。日に日に鮮明になる記憶はどう見ても幼い俺であったので、村に居続ければ少しずつ全てを思い出せるだろうかと考えて、村に留まり生活を続けていた。

随分昔の記憶なのだから忘れてしまえばいいだろうと言い聞かせた時もあった。断片的にしか思い出せないのはもどかしかった。でもとても大切なもののような気がして、忘れることなんてできなかった。それならさっさと思い出してしまいたい。だから村をくまなく歩いたり古い家系図を引っ張り出して読んでみたり、普段一切入ることのない村共有の書庫で本を読み漁ったり、色々したが記憶の蓋を全て開けるには至らなかった。

しかし、なんの気なしに森へ足を向け、手前だけなら危険はないだろうと木の実を摘みに行った時、目が覚めるかのようにあの人の記憶が思い起こされた。急に夢の中の光景と重なって、色づいていく。急速に当時の感情までもが流れ込んできて、懐かしさに涙が出そうになった。
『おまえはとっても可愛らしいね』
両親にすら掛けられたことのない、砂糖菓子のように甘い言葉。俺に微笑み手を繋いで、もう片方の優しい掌が頭を撫でる。頬に触れた手は驚くほどに冷たかったが、彼はいつもおれに対して温かかった。

『どうしてこんな暗いおうちの中にいるの?』

俺の無邪気な質問に、彼は『おれにはここしか居場所がないからだよ』と笑った。あの時、彼はどう思っただろうか。

彼の正体などどうでもよかった。どうして村から離れた森の最奥に住んでいるのか、何故いつも貧血気味なのか、たまに殴られたような傷跡があるのか。知りたいことこそたくさんあったが、何より知りたかったのは彼の名前だった。いつも教えてくれなかった。俺の名前もほとんど呼んでもらえなかったが、一度だけ、彼は小さく呟くように俺の名前を口した。静かな部屋の中でもほとんど聞こえないほどだったが、俺の耳はしっかりと拾っていた。
あの美しい声で、もう一度俺の名前を呼んで欲しい。あれから何年も経っていて、彼が今どこでどうしているかなどちっともわからないが、それでも色褪せるどころか鮮明になって、俺の胸を掻き乱した。今思い返せば彼は美しくて線が細いというだけのれっきとした男だったが、そんな彼に幼い俺は恋をしていたらしかった。だからこんなに記憶が甘やかなのか、と気恥ずかしくなったが、なぜそれを今まで忘れていたのかが何となく腑に落ちなかった。

そして、あの雨の日。森の前で記憶を反芻していれば、蹲る人影があった。特に何も考えずに声を掛けて顔を見たとき、この短い人生の中で一番驚いたのではないだろうか、というくらい心臓が跳ね上がった。
夢の中のあの人と全く同じ顔が泣いていた。雨に濡れそぼり、顔を真っ青にしながら震えていて、尋常ではなさそうだった。彼は俺の顔を見て慌てて立ち上がろうとしたが、自力で歩けそうにもなかった。それから気絶してしまった彼を家に運び込んだが、あまりに緊張していてほとんど何を話したか覚えていない。馬鹿だなと思うけれど、最後に絞り出した「また会えますか」という問いに悲しそうな顔をした彼の顔が、幼い頃におれに見せた顔とそっくりそのままだったから、俺が会いに行くべきだと強く思った。
──何がそんなに悲しいの。俺は力になれるかな。あなたを苦しめるものから救いたい。
烏滸がましい考えかもしれないし、驕っていると笑われても構わない。それでも俺はやっぱり名前すら知らないあの人が好きなのだった。


顔の整った歳上の友人──ソクジニヒョンは、俺が森へ行くと言うと危ないからやめておきなよ、と止めた。昔のように真偽不明の御伽噺などではなく、単純に危ないからと止めてくれることに有難みを感じながらも、「すぐに戻ります」と言い含め、木の実を摘むという名目で森へ入った。

木々が生い茂り太陽光を遮っているため昼間でも森の中は薄暗い。護身用に持って来たナイフを胸元に隠してぎゅうと握り、用心深く進んでいく。暫く歩き続けて何も無かったらとりあえず戻ろう。そうでなければ日が暮れて、本当に危なくなってしまう。そう考えつつ進み続けた。朝から歩いていたので大分時間はあったが、遭難しては元も子もない。

こまめに休憩しながら歩き続けていると、少し拓けた場所があった。ゆっくり見回していると、こつりと何かが足に当たった。ふと目をやって、無言で飛び退いた。白く長細いそれは、俺の目では何かの骨にしか見えない。何となくそれが人骨のように思えた俺は、ようやく森への恐怖が背を這い上がってきた感覚がしてぶるりと震えた。どうして人骨が転がっているのかなんて理由は分からないが、獰猛な動物でもいるのかもしれない。マメに鍛えてきた筋肉が役に立てばいいが、と構えながら進んでいると、今度はやたら大きな建物が見えてきた。
とても大きいはずなのに、不自然なまでに今まで存在感がなかった。村でもこんなところに大きな建物──城というべきか──があるなんて聞いたことがない。いや、昔村人が話していた御伽噺の中に、森の奥の城という言葉が出てきた気がする。魔物が棲んでいるから森へ行くと食われてしまう、と子供たちを半ば脅すように話していた。
もしかしてあの人骨はその「魔物」が食べた残骸だろうか。ぞわぞわと怖くなってきたが、ここまで来たら引き返すのは惜しい。それに、絶対にこの城には何かあるはずだ。俺はナイフを取り出して構えながら、城へ入ることにしたのだった。

恐る恐る扉を押すと案の定鍵が掛かっていて開かなかったので持っているナイフで破壊を試みると、何とか開いた。重たい南京錠が足元にぼとりと落ちる。俺はそのまま中へ入り込んだ。
落ち着かさなさから無駄に広い城の中で「うわあ」とか「広いな……」とかぼそぼそ独り言が出てしまう。陽の光が入らないから寒いし暗いし、妙に血腥い気がして正直気味が悪い。こんなところにあの美しい人が住んでいるのだろうか。もしかして引っ越したのかな。そうだとしたらとんだ無駄足だ、と思いながらいくつかの部屋の扉を開けたり閉めたりしていると、「誰かいるの」と不意に声がした。
あまりに不意打ちで、そして誰かがいるかもしれないという可能性を諦めかけていたせいで盛大に肩を跳ねさせながら、俺はゆっくり声がした方へ振り向いた。装飾の施された繊細なデザインの古めかしい扉。ドアノブに手を掛けゆっくり押す。呆気なく扉は開き、俺はその部屋であの美しい彼を見つけたのだった。柔らかそうな金髪と、赤いピアス。美しい顔が驚いたように俺を見て、呆気に取られたように瞬きをする。俺は「ほ、ほんとにいた……」と思わず床に膝を着いてしまいそうになりながら、その人が座り込んでいるベッドへ近付いた。

「どうやって入ったの……?」

彼は目を丸くしたまま俺を見上げていた。暗い部屋の中でも潤んで光って見える不思議な目に、暫く魅入っていた。

「どうしてこんなところに来たの」

俺が黙ったまま棒立ちになっていると、彼が怒ったように俺に言った。

「……俺の夢の中にあなたがいたから。ずっと会いたかったんです」
「……………っ」

彼が信じられないというように目を見開く。

「名前も知らないし、ここに本当にいるのかどうかすら分からなかったけど、会えてよかった」

言いながら知らず知らずのうちに笑みがこぼれて、本当によかったと噛み締めた。俺の記憶は正しかったらしい。驚いているのか何も言わない彼の次の言葉を待ちつつ何気なく部屋の中を見回した時、ふと大きな血溜まりがあることに気づいて一瞬で頭が冷えた。あんな大きな血溜まりができることが、普通に暮らしていてあるだろうか。俺は口をあんぐりと開けたまま彼の方へ視線を移した。

「早く出ていって」
「どうして」
「ここには本当に魔物がいるんだよ。おまえがここにいたら殺されちゃう」

彼がぎゅうと俺の服を握り「死にたくないなら早くここから出て!」と懇願した。その必死な様子に嘘ではないのだとわかったが、どう見ても尋常ではない部屋の様子に、彼はどうしてここにいるのだろうとふと疑問に思った。

「じゃああなたは?」
「え?」
「魔物がいるならあなたはここで何をしているんですか?」

そういえば、記憶の通り彼の首には太い皮の首輪が着けてある。何となく予想できる嫌な予感に、もしかして足を鎖で繋がれているとかだろうか、と毛布を捲った。

「や、やめて、見ないで!」
「!」

目に飛び込んできたのは血だった。悲痛に叫ぶ彼の両足首には包帯が巻かれていたが、血が滲んでベッドへ染みているのであまり意味を成していない。位置は丁度アキレス腱の辺り。鎖で繋がれているより余程酷い状態に、俺は真っ青になってしまった。有り得ないだろう、こんなところに怪我を放置されて閉じ込められているなんて。
──ずっと会いたくて焦がれていた人が陽の差すことのない暗い部屋の中で、両足の腱を切られて監禁されているだなんて、誰が想像しただろう。
彼は見られたショックからか、俯いてきまり悪そうにしていた。俺は手に握りこんでいたナイフをポケットへ入れて、彼の元へ跪いた。

「ここから出ましょう」
「無理だよ、その前におまえが殺されちゃう。お願い、おれのことは放っておいて」
「嫌です。絶対にあなたを助ける」
「おれは普通の人間じゃないからこんな怪我すぐ治るよ、大丈夫だから」
「でも痛いでしょう。普通の人間だろうがそうじゃなかろうが、こんなの間違ってる」

間違ってる、という言葉に彼は顔を上げた。

「間違ってる?やっぱり、間違ってるの?」

この言葉が彼の中の何を刺激したのかは分からないが、俺は頷いた。

「出ましょう。早くきちんと手当てをしないと」
「おれはおまえが思うような人間じゃないから、着いていく資格なんてないよ」
「あなたの正体がなんであっても、どんな答えが返ってきても、俺はあなたをここから連れ出す」

薄々分かっていた。昔から大人たちが話していた御伽噺が、本当にただの作り話などではないということ。偶に行方不明になる村の若者が発見されたときの、頸動脈付近を中心に派手に噛みちぎられた死体。彼の異様なまでに整った容姿。
では彼が村人を殺したのか?
それなら、なぜ幼い俺を彼は襲わなかったのか。格好の餌でしかない子どもに、なぜ優しく接したのか。
彼は人を殺したりなんてしない。疑う余地すらなく、俺は確信していた。彼ではなく、彼を監禁している者が村人を殺しているのだろう。とにかくその危険人物に鉢合わせないように逃げなくてはならない。
彼の膝裏に手を差し込んで持ち上げようとすると、彼の腕が俺の首元に回った。てっきり抵抗されるものだと思っていたので思わず彼の顔を見ると、不貞腐れたような表情でおれを上目遣いに睨んでいた。

「おまえどうしておれの言うこと聞いてくれないの。死んでも知らないから」
「そんな簡単に死にませんよ」

密かに照れながらそう返事をした時、バン、と恐ろしく大きな音を立てて扉が開いた。いや、開いたというよりは蹴破られた。

「簡単に死なない?じゃあ試してあげようか」

彼とは違う銀髪の髪。笑いながら俺を見るその目は、その実一切笑ってなどいない。俺より少し小柄に見える一人の男は、真っ直ぐにこちらへ歩み寄ってきた。

「ジミナ……っ」

彼が青ざめ、慌てたように俺の服を握り締めて、「離して!」と叫んだ。
勢いに圧されて彼をベッドへ下ろすと、彼は俺を背後に庇うように身体の向きを変えた。

「テヒョンア。お前、僕を裏切るの?僕がいない間に人間なんて連れ込んで、いつからそんな下品な子になったの?」
「ねえジミナ、やっぱり間違ってるの?お前のしてることが間違ってるなら、何が正しいの?」
「人間に何吹き込まれたか知らないけど、僕は少なくともお前を間違った道に導いたりはしないよ。僕と一緒にいる限り、吸血鬼として間違う筈がない」

吸血鬼としての正しさが何を以てそう定義するのか、俺には分からない。でも、彼は「ジミナ」と呼ばれたあの男に着いていっても、彼としての幸せや正解を得ることはできないのではないか。もし彼が望んであの吸血鬼と一緒にいるというのなら仕方がないが、彼は苦しそうにしている。そうなれば、やっぱり俺の答えはひとつだけだ。

「吸血鬼として、ジミニが間違ってるとは思わないよ。でもおれは、吸血鬼だけどもっと違う道もあるんじゃないかって考えるんだ。人間を捕食対象としてじゃなくて同じ立場で考えることがどうしてだめなの?」
「駄目に決まってるじゃん。人間は餌だよ。それ以外にない。お前だって人間の血しか栄養に変えられないくせに。お前はそこの人間に優しくされたからって何を惑わされてるの?人間は下等生物のくせに吸血鬼を長い歴史の中で迫害したんだよ。だからこんな森の奥に住んでるんじゃん。お前が人間たちの中で生きていけるとでも?有り得ないよ。そんな危険を冒すくらいなら、僕と一緒にいた方がいいに決まってる。いや、他に選択肢なんてない。お前は僕と一緒に生きて、僕と一緒に死ぬ。お前の吸血鬼としての長い寿命は全部僕のものなんだよ」

俺にはそうして「ジミン」という男が彼に執着し束縛しているようにしか見えなかった。

「素直に言ったらいいんじゃないですか。あなたはこの人のことが好きで堪らないから一緒にいてほしいんだって」

つい口を突いて出たのは、そんな馬鹿正直な言葉だった。言ってから「あ」と口を塞いだけれどもう遅い。なんで俺は敵に塩を送るような真似をしているのだろう。ジミンという男は「は?」と目を見開いて俺を見た。

「人間如きが僕に指図するなよ。それに、好きとか嫌いとかそんな下等生物共のままごとみたいな適当な話じゃあない。こいつの運命も僕の運命も最初から決まってるんだ」
「吸血鬼が何を基準にして運命とか言うのか知りませんけど、吸血鬼でも人間でも犬でも豚でも、感情はありますよ。だから、別に好きだと主張することは恥ずかしいことじゃないです。好きなら好きって言わなきゃ、この人はあなたから離れていきます」

我ながら何を口走っているのだろうと思うが、これだけは言っておかねばならなかった。吸血鬼でも人間でも関係ない。俺は吸血鬼だったとしても彼を好きになった。彼は俺が人間だとわかっていて、優しくしてくれた。それで十分なのだ。何より、彼に執着するジミンという男の方が一番人間じみているように見えた。

「煩いな!!黙れよ!!テヒョンは僕から離れたりしない!!」

怒鳴り声の中で皮肉にも彼の名前を知り、そうか、この人はテヒョンという名前なのかとぼんやり反芻した。彼の口からきちんと名前を聞きたかったが、それよりも今にも俺を射殺さんばかりに睨みつけているジミンという男から目を離せなかった。本能的に、俺より強いとわかる。まともにやり合えば彼を外に連れて行けないどころかここで殺されそうだった。

「……ジミナ」

その時、彼が名前を呟くように口にした。その小さな声でさえ、ジミンという男は敏感に拾う。「愛」や「好き」という感情に正解などないが、ジミンという男のねじ曲がった愛情表現が間違っているということは馬鹿な俺でもわかることだった。





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