闇夜に消えて暖かい 2




瞼を焼くような日差しに自然と目が開いた。今まで砂浜に転がっていたらしい。朝日の位置からまだ早朝であることがわかった。もう近くに鯨はいない。きっと移動している途中で気を失ってしまったのだ。それでもきちんと陸まで送り届けてくれたテヒョンの鯨に、心の中でお礼を言った。中々鯨の背中に乗るだなんて体験はできるものではない。

まるで夢を見ているようだった。月明かりの下、幻想的な光を帯びた青い人魚。夜闇の中でも浮かび上がる美しさ。でも幻なんかではない。淡い青の髪色に触れた感覚も、薔薇色に染まった頬の色も、瞳に宿した星の光も、優しい歌声も、全て覚えている。

『ジョングガ』

低く心地よい声で俺を呼んだテヒョン。はにかみながら、「待ってるね」と言ってくれた。俺は必ず会いに行く、と約束した。もしかしたらテヒョンはそれを一時の気の迷いのように捉えているかもしれないけれど、俺はたった一度の奇跡にするつもりはなかった。
どうしてこんなに心動かされているのかなんて、分からない。分からなくても、それでよかった。それが恋なのだろうから。今までどんな令嬢を見ても興味すら湧かなかったのに、広い海のどこにいるかも分からないテヒョンのために、あの海を泳いででも会いに行きたいと思う。それは紛れもなく恋だろう。

ふう、と一息つくと、腹が減っていることに気づく。あんなに粧し込んだ服も砂と潮にまみれてぐちゃぐちゃだったが、どうだってよかった。きっと昨夜のパーティーの途中で居なくなったものだから騒ぎになっただろうが、とりあえず屋敷に戻ろう。俺は立ち上がり、しっかりとした足取りで海を背にして歩き始めた。


屋敷に戻ればそれはもう大騒ぎだった。海に落ちてそのまま死んだのかと思った、と父や使用人たちに泣かれて俺はしどろもどろになりながらも適当にかわして何とか部屋に戻った。風呂に入って体をきれいにして、ようやく一息ついて。ベッドに身を沈めるとあっという間に睡魔がやってきた。


次に目を開けばもう夕日が昇っていた。オレンジの光が部屋を染めていて、俺は重い頭で水を飲もうと立ち上がった。そうすれば、ソファに誰かが座っているのが見えたのだった。

「………あれ、ナムジュニヒョン」

それは親戚であるナムジュンだった。ナムジュンも確か昨晩のパーティーに参加していた。挨拶する間もなく父の後について回っていたので、朧気にしか覚えていない。ナムジュンは「体調は大丈夫か」と気遣う言葉と一緒に持ってきたらしい水を手渡してくれた。

「なんとか。全然怪我とかはないです」
「それはよかった。昨夜は大騒ぎだったからな」
「心配かけてすみません」
「いや、無事だったならいいんだ」

ナムジュンは俺より三歳上の頭脳明晰な友人である。ナムジュンの家も由緒正しい貴族の家柄で、次期当主として期待通りに仕事をこなしていると聞く。彼も音楽が好きなので、よく話をする。彼は頭がいいから、俺の知らない色々なことを知っていて、沢山教えてくれた。弟のように可愛がってくれる懐の深い兄のような存在である。

ナムジュンは読んでいた本をぱたりと閉じた。何か言いたげな顔に、ジョングクは首を捻る。

「なあ、お前は海に落ちたのか?」
「……はい。海に落ちて……」
「それで、誰かに助けられたのか?」

食い気味に昨夜の状況を聞こうとするナムジュンに違和感を覚える。それでも俺は信頼するナムジュンになら、とテヒョンの話をすることにした。

「信じられない話かもしれないですけど、あれは人間じゃなくて、人魚だったんです」

俺も誰かに話したいという気持ちがあったのかもしれない。少し興奮気味にナムジュンに打ち明けるとスッキリしたが、ナムジュンは終始考え込むようにしていたし、ジョングクが「青い髪の」と言えば目を見開いた。

「……それは、その人魚の名前は、テヒョンというんじゃないのか」
「……え、どうして……」
「俺も、……俺がもっと幼いときに、海に落ちて死にかけたことがあるんだ。その時、人魚に助けられた。美しくて、優しかった。だからとてもじゃないが忘れられなかった。名前だって頭から焼き付いたように離れなくて。……でも、あれから一度も会えなかった。だけどお前が会えたというなら、俺にもチャンスがあるってことだな」

ナムジュンの瞳が期待に満ちるのを俺は呆然と眺めていた。まさかそんなことがあるだろうか。確かにテヒョンも昔人を助けたことがあると言っていたが、それがナムジュンだなんて。

「どの辺りで落ちたんだ?何か目立つ岩とかあったんじゃないか」

ソワソワとテヒョンのことを聞き出そうとするナムジュンに、俺は面白くない気持ちになって、ほとんど覚えていない、と言った。けれどナムジュンは、「きっとあの頃より美しくなっているんだろうな」と愛おしげに笑う。そんなナムジュンの表情は見たことがなかった。

やがてナムジュンが部屋から出ていってから、これからどうやってテヒョンに会いに行こうか考えた。俺は大きな船は持っていないし、流石に遠くまで泳ぐことはできない。ボートでも借りようか。



それから数日後に、ナムジュンが大きな船を買ったと聞いた。行動派だな、と思いながら何とは無しに窓から海を見れば、噂の通り大きな船が海を進むのが見えた。まさかな、と思ったが、その後俺の屋敷へ顔を見せに来たナムジュンが「やはりそう簡単に見つかるもんじゃないな」なんて首を竦めてみせたので、俺は驚きを隠せずつい「そこまでするんですか」と聞いてしまった。

ナムジュンは「お礼を言いたいんだ」と言った。

「あの時死んでいたら、父さんたちのために家を立て直すという夢は叶わなかった。今ここに俺がいるのも、あの人魚のお陰なんだ」
「そう、ですか」
「だから……というのもあるし、単純にまた会いたい。きっと俺の初恋だったんだ」

それを聞いて俺の胸が痛んだ。ナムジュンの純粋な心に水をさすことはしたくない。けれど、我儘な俺は俺より先にナムジュンがテヒョンを見つけてしまうのを恐れた。自分の器量が狭いことが嫌だったし、俺には真っ直ぐなナムジュンが眩しかった。




「テヒョンア。どうしたの、最近。ぼんやりしてることが多くなったよ」
「……ん?おれぼんやりしてた?」
「うん。ここ最近ずっとそう」

テヒョンの目の前にいるのは大きな鮫だった。ぎらりと鋭い歯や鈍く光る灰色の体は海の生物たちにとっては畏怖の存在だが、この鮫はテヒョンの友達だった。

「こないだ久しぶりに海上に行ってからだね。何かあったの?」
「うーん。じゃあ聞いてくれる?ジミナ」

もちろん、と頷く親友に、テヒョンはその体を撫でながら、あの夜に会った男の話をした。

「王子様ってやつじゃん、綺麗な服着てたんだろ?」
「うん。王子様だったのかなあ、自分では何も言ってなかったけど」
「自分で自分のこと国の王子ですとか言わないだろ。まあどっちでもいいけど、テヒョンイの王子であることには変わりないんだろ?」

そう言うとぽ、と顔を赤くして、テヒョンがもうジミナ!と起こったふりをするのが可愛らしい。ジミンははいはいとテヒョンを宥めた。

「どんな人間だったの?」
「かっこよくて優しかった」
「そうなんだ?僕の方がかっこよくない?」
「ジミニはかっこいいけどかわいいよ?」
「鮫に向かってかわいいなんていうやつお前くらいしかいないよ」

そう言えば褒めてるわけでもないのにえへへ、とテヒョンが笑うので、ジミンはやっぱり僕の親友は可愛いな、と思いながら「また会いに行くの?」と聞いた。

「ううん。おれが会いに行ってもいいけど、多分おれそういうの下手くそだから他の人間に見つかっちゃう気がするんだよね」
「僕が一緒に行けばいいんじゃない?傍に鮫がいたら近づかないでしょ」
「あ、確かに。ジミニ頭いい〜」
「ふふふ。僕がその人間を見定めてやるよ。もし変なやつだったら噛み殺してやる」

ふふん、とどこか不敵に笑うジミンにやめてよジミナぁ〜と呑気に笑いながら、いつ行こうかなあ、とのんびり貝殻の耳飾りを選んでいた。



「ねえ、どの人間なのさ」
「わかんないよ〜そんなにすぐには見つからないって」
「家柄とか身分とか」
「何もわかんない……」
「まあ近くを泳いでればきっと見つかるよ」

テヒョンはジミンを連れて人間の街を眺めていた。少し距離を置いて、見つからないように船着場の陰からこっそり周囲を窺う。もし見つかれば大事になるだろうから、とジミンの背中に隠れると、「僕にその人間の顔が分かればいいんだけどなあ」とジミンが独り言ちた。

それでも一時間ほどそうしていれば飽きてきて、テヒョンは思わず尾鰭をぱしゃんと大きく水面に叩きつけた。綺麗な青はそれだけで目立つので、ジミンが思わず「こら、テヒョンア」と宥めた。しかしその直後に「あ!」という違う声がして、二人は人間に見つかったのではないかとヒヤリとした。

「今、青い鰭が見えた」

低い男の声がする。ジミンがテヒョンの手を引いて「隠れて」と言っても、何となくその声が気になって、テヒョンはその声の主をのぞき見ようとした。声からしてジョングクではないことは分かるのに、何だか聞いたことがある声である気がしたのだ。

ジミンが何度咎めてもテヒョンは隠れるどころか人間の声がした方へ進んでいく。まったくもう、とジミンは溜息をひとつつくと、ぐっとテヒョンを押しのけて人間の前に躍り出た。

「うわぁっ!?」

突如として出没した鮫に人間は声を上げて尻もちをついた。ジミンは威嚇するように大きな口を開けてぎらついた歯を見せつける。「ひぃ」という情けない声に、今度はテヒョンが慌てて「ジミナ」と呼びながら前に出ようとする。「あ、待てってお前は前に出るな!」というジミンの焦った声より先に人間の方が目敏くテヒョンの青い髪を見つけて「あ!」と声を上げた。

「青い、髪の……」
「え、テヒョンア?こいつがジョングクなの?」
「ん?え?ちがうけど……」

違うのだけど、どこか見覚えがある気がする。テヒョンがどこで会ったかな、と記憶を手繰り寄せている間に、男──ナムジュンは「君を探してたんだ!」と立ち上がった。

「おれを?」
「あっおいテヒョンイに近づくな」
「テヒョン、そう、君だ、間違いなく。俺は君に溺れているところを助けられた人間だ。ずっと前の話だから君は覚えてないかもしれないけど、俺はずっと君にお礼を言いたかった」

ナムジュンの純粋な目を見てテヒョンは「ああ、」と思い出したというように水面から彼を見上げた。背の高い彼を見上げ続けるのは首が痛くなるなと思っていれば、彼は察したようにしゃがみこんで、テヒョンと目線を合わせてくれる。どこか知性の高さや穏やかさを感じさせる所作に、テヒョンは自然と笑みを見せた。彼は彼で隣のジミンには怯えているけれどそれよりテヒョンに出会えたことが嬉しいのか、笑みを湛えて「あの時はありがとう。君のお陰で夢が叶いそうだ」と言った。

「おれはそんな大層なことはしてないよ。でも、あなたはまだ小さかったのに……おれのことをずっと覚えてたの?」

テヒョンが首を傾げてナムジュンを見やると、ナムジュンは仄かに顔を赤くした。

「当たり前だよ、忘れたことなんてなかった」
「そっかあ。ふふ。おれもね、あなたのこと憶えてるんだ」

可愛かったからなあ、とテヒョンが大きくなったナムジュンを見て微笑む。あの夜のジョングクのように船から落ちて溺れかけていたが、そこに偶然出くわしたテヒョンが彼を抱き留めて助けた。幼いナムジュンはテヒョンのことを海の精霊だと思ったらしく、幼いながらにしっかりとお礼を言ってから、「大きくなったら絶対恩返しします」と言ったのだった。

「小さかったのに礼儀正しくて、偉かったなあ」
「わ、忘れてくれ」

ナムジュンが赤面するのをジミンが面白くなさそうに見つめる。テヒョンはいつも通りの様子だが、テヒョンは元来人たらしだ。誰にでも愛されるその性格は、自然と人との距離を縮めるし、人によっては勘違いを引き起こす。しかもそんなお綺麗な顔で何年も昔のことを優しい顔で「憶えてるよ」と言われたら、グラッと来るだろう。ナムジュンの赤い顔を見ればわかる。ジョングクという人間だってテヒョンの美しさと誰にでも平等に振り撒かれる優しさにコロリとやられただけなのだろう。早くテヒョンを連れて帰りたくて、ジミンは「もういいだろ」と唸った。

「ジミナ?」
「俺たち急いでるんで。テヒョンイも忙しいし」

ね、とジミンに促されてテヒョンはそうだっけ、と首を傾げた。しかしどうもジミンが不機嫌そうなので、早く戻るべきなのかもしれないと思い直し、テヒョンは「またね」とナムジュンに別れを告げた。

「え、もう行っちゃうのか」
「うーん、おれ忙しいみたいなので。でも、ありがとう。おれのことを憶えていてくれて」

ふわりと青い髪を靡かせながら、きらきらと光る水面に美しい鰭を踊らせながら、テヒョンはナムジュンに笑いかけた。

「あなたが生きてくれるお陰で、きっと沢山の人が救われてるはずだから。おれもあなたを助けてよかった。誇らしい気持ちだよ」

それじゃあ、またいつか。そうテヒョンが言った時、咄嗟にナムジュンはテヒョンの手を掴んだ。ほとんど反射での出来事だったので、ぎゅうと力一杯握りこんでしまった。テヒョンが「いた、」と眉を顰めたのでナムジュンは「わ、悪い」と謝りながらも手を離せなかった。だって離してしまったら、もう今度こそ二度と会えなくなってしまう。

「俺は……あなたにまた会いたい。これを最後にはしたくない。この辺り一帯の海を買い取ったら、あなたは会いに来てくれるのか?それともあなたの鰭を足に変える薬を探し出せば、あなたは俺の元に来てくれるのか」
「え、あ……」
「おいっ勝手なこと言うな!」

ばし、とナムジュンの手を振り払ったのはジミンだった。しかしもうナムジュンは鮫の牙にも驚くことなく、真っ直ぐテヒョンを見つめる。その目は真剣そのものだった。テヒョンを自分のものにしたい。そう、訴えていた。

「あ、あの、海はみんなのものだから……。それに、おれは海が好きだから人間の足が欲しいとは思わないけど……あなたが会いたいというなら、おれはあなたの元に会いに行くよ」
「テヒョンア!」
「本当か!?」

咎めるようなジミンの声と、ナムジュンの嬉しげな声が重なる。テヒョンは困ったように「だから、ジミンとナムジュンさんも、喧嘩しないで」と言いながら首を傾げた。それからジミンがナムジュンを無理矢理引き剥がして、海の底へ潜り込んでいった。
ナムジュンは「待ってる!」と慌てて大きく告げた。言い終わるや否や彼らは海上からは消えていて、ナムジュンは夢でも見たような心地になった。それでも、二度も会うことができた青い人魚が自分を覚えていてくれたという事実が嬉しくて、ナムジュンはにこやかにその場を後にした。



大きな屋敷には何度も訪れたことがある。昔からの名家で、ナムジュンの家とも交流があった。だから勝手知ったる、というように家に入っても屋敷の使用人たちは挨拶をするだけで、すんなりと入れてしまう。もう少し警戒心があってもいいんじゃないか、と言いたくなるほど。疚しいことをする気は全くないが。
使用人の一人に「ジョングクはどこだ?」と聞くと、自室でお勉強をなさってるはずです、と返事が帰ってきた。あいつも最近はちゃんと勉強してるんだな、と関心しながら部屋を訪ねれば、彼は教本の上に楽譜を広げているところだった。やっぱり勉強なんてしてないじゃないか。

「あれ、ヒョン。今日はどうしたんです?」

丸い大きな目をきょとんとさせて、ナムジュンを見上げる。

「ああ、お前にひとつ報告しておこうと思って」














×