Giselle
・🐰姉捏造
・なんちゃってバレエ知識
バレエ教室に通う姉から「バレエシューズ忘れたから急ぎで持ってきて」と電話がきた。
シューズを忘れるなんてそんなばかなことがあるかよと思ったけれど、仕方なく俺は姉の部屋に入り、シューズの入った巾着袋を持って、自転車に乗った。
俺は姉には逆らえない弟である。
ダンス教室は自宅からそこそこ距離がある。何度か姉の忘れ物のせいで道は覚えてしまっているし、俺は姉の友人にもよくおもちゃにされるのであまり行きたくはないのだが、あとでお礼にお菓子を買ってもらうことを約束したので許すことにした。
やがて少し入り組んだ道の先にダンス教室が見えて、俺は適当に自転車を停めて真っ直ぐ教室に向かった。ドアを開ける寸前に僅かにクラシックが漏れ聞こえてくる。その軽やかで優雅な曲調は時折家でも流れているので、きっと次の発表会に使われるものなのだろう。
鏡張りのスタジオには、休憩中なのか姉や先生の姿はなく、ひとりしかいなかった。
グリーンの膝丈のスカートを穿いたその人は、曲に合わせて舞っていた。
滑らかな手の動き、美しく伸びた背筋、高く上がるしなやかな脚。軽やかにステップを踏む足に迷いはなく、時折鏡に映った自分を確認し、最も美しく見えるように計算している。そして、回転。第5ポジションに揃えられた足、ふわりと翻るスカート。ぶれることがない完璧なピルエット。鏡から視線が外れるのは一瞬で、頭が回り切ったら即座に鏡へ視線が戻される。あんなに回転していても目が回らないのは、頭の動きを最低限にしているからだ。半ば睨むようにしてその人は鏡をチェックし、細部まで拘りたいのか指先の位置や顔の角度を何度も調整していた。
綺麗だった、とても。短く切り揃えられた明るい茶髪がサラサラと流れていくのすら、踊りを彩やかに見せていた。
時を忘れたかのようにしばらくぼんやりと後ろから眺めていたらいつの間にか曲が止んでいて、気づけばその人は俺の方を見て首を傾げていた。これでは俺は不審者でしかない。慌てて姉に頼まれた荷物を持ってきただけだと弁解するためにシューズの入った袋をよく見えるように前に持ち直し頭を下げる。その人は怪訝そうな顔をしながら歩み寄ってきて、「誰に用事?」と話しかけてきた。その声が想像していたより何倍も低かったのであれ?と顔を凝視する。ぱっと見た時から顔も綺麗だと思ってはいたが、綺麗どころではなく一切の無駄がない人形のような顔立ちをしていた。切れ長の目は睫毛が長くて、固まって動かない俺を覗き込んで瞬きをする度に音が聞こえそうなほどだ。──そういえば華奢だから気づかなかったけれど、近くで見れば身体は骨張っているし胸はない。
「──ああ、おれのこと、女だと思った?」
やがて俺が固まっている理由に思い至ったのか、「彼」はふっと笑って表情を柔らかくした。彼の顔立ちは黙っていると近寄り難い冷たい印象を与えるのに、笑うと目が細まり唇が緩やかなかたちになって、途端に可愛らしい印象になる。
「あ、いや、その」
「ふふ、スカート穿いてたらそう思うか、普通」
彼は練習なのに膝丈のチュール布で作られたスカートを穿いていた。普段からスカートを穿いて練習する人はあまりいない。大抵邪魔になるのでぴったりとしたレオタードとかTシャツとか、動きやすいものを好んで着る人が多い。
「練習用にね、穿いて踊ったらどんな風に見えるかなって思って。回ったりするだけでふわふわ揺れてさ、すごく綺麗に見えるよね」
淡いグリーンのチュールスカートの端を指で摘んでにこ、と笑う彼。
その仕草も愛らしくて、知らず知らずのうちに顔を赤くしながら俺は「あ、あなただから、きれいに見えるんだと思います!」と口走っていた。彼はきょとんとしてから「ありがと」笑って、「男の子から言われると違うなあ、本当に嬉しい」と言ってくれた。自分ってば何を口走ってんだ、と思ったけれど、彼がそう言うから俺もゆるゆると口元を綻ばせてしまう。
「ねえ、誰かに用事あって来たんでしょ?」
「あ、そうだ。あの、姉に届け物をしに来てて」
「ああ、そうだったんだ。今みんな休憩中だから呼べば来るかな?ちょっと待ってて。君、名前は?」
「ジョングク、です」
「そう」
おれはジゼル。
振り向きざま、彼はスカートを翻しながら俺を見つめた。片方だけが二重で、三白眼で、澄んだ瞳。彼の全てがスローモーションのようになって、その数秒間だけ時が止まったみたいだった。彼はゆったりと笑ってから、「また見に来て」と言ったのだった。
「じぜる、さん」
ことんとかとすとんとか、そんな感じの何でもない音。それが実は恋に落ちる音だとは知らなかった。
俺はこの日、きれいで不思議な魅力を持ったバレリーノに恋をしたのだった。
ジゼルと名乗った彼と入れ替わりに姉がやってきて、「ありがと〜ジョングク!じゃあね!」とさっさと帰ることを促され若干理不尽な気持ちになったが、あの彼にもう一度会いたくて、また姉が忘れ物をしないものかと願わずにはいられなかった。
▲▼
姉がバレエ教室から帰ってくると、団子にしていた髪をといたボサボサ頭で「サンキュージョングク、はいお菓子!」と袋に詰められたスナック菓子を乱雑にテーブルへ置いた。リビングでゲームをしていた俺は感謝の気持ちが篭ってない、と言おうとしてお気に入りの菓子を見つけたので口を噤んでおく。それから俺はずっと気になっていたジゼルさんのことを姉に聞くことにした。そもそもわざわざリビングでゲームをしていたのは姉を待っていたからだ。彼のことを聞くために。
「ねえ、あのバレエ教室にジゼルさんっていう人いる?」
「はあ?ジゼル?……ああ!テヒョンくんのこと?」
「は?てひょんくん?」
「ジゼルって役の名前よ。次の発表会の。そういえば私の事呼んでくれたのテヒョンくんだったな。今日会ったのね」
「そう。それで名前聞いたらジゼルって言うから」
「ふうん」
姉がニヤリと笑う。嫌な予感しかしないが、彼のことをもっと聞くためには引く訳にはいかない。
「彼、すっごく綺麗でしょ。男の子だけどダンスが上手くて繊細な動きが得意でさ、もうその辺の女より魅力的なの。男役も上手だけど、彼には一度女役もやってもらいたくない?ってなって、次の発表会では彼が主役になったのよ。その作品がジゼルなの」
「へえ………」
「でもテヒョンくん、どうしてあんたに本名じゃなくて役名を教えたのかしら。他に何か言ってた?」
「また見に来て、って」
「ふうん!いいじゃない!見に行ってあげたら?いつも暇してんだしさ」
「そんなに暇人じゃないし。でも、確かにテヒョンさん、すごく綺麗だった」
「でしょ?テヒョンくんの他にも男の子いるし、発表会の時に楽屋に遊びに来てもいいわよ。メイクしたテヒョンくんも見たいでしょ?」
「……うん」
「あんた、テヒョンくんのことが気になるから私が帰ってくるの待ってたんでしょ?」
「ち、違うし。お菓子待ってただけ」
「テヒョンくん可愛くて綺麗だからモテモテなのよね〜」
「えっ、」
「テヒョンくん、ファンもいるし」
「う……」
「明日もレッスンあるのよねえ、テヒョンくんも来るし、見学に来たらどうよ?」
「ええ〜」
気になる。正直めちゃくちゃ行きたい。でも明日も行ったら何でこいつまた来たんだって思われないかな。でも見たい。姉に全て見透かされている気がして最悪だけど、でもテヒョンさんに会いたい。彼の口から本名を聞きたい。
「行き、たい」
「アハハ!!素直なジョングク気持ち悪いわ!」
「うっさいな!!」
姉におちょくられまくる未来が見えるしテヒョンさんに会いに行きやすくしてあげたとか言って恩着せがましく忘れ物を届けさせられるのも目に見える。でももっとテヒョンさんと話してみたいという一心で、俺はそれらに目を瞑ったのだった。